ボクの恋の始まりは、彼女の笑顔からでした。
中学二年の放課後。
ボクは班の皆と居残りして、教室の床に紙を広げていた。学校でしか使った事がないような、大きい紙だ。
今度クラスの授業で、班毎の調べもの発表会がある。この紙はその時に使う記事を書いたもので、既にあらかた完成している。
「今日はごめんね。私が休んじゃってたから、みんなまで……」
と、申し訳なさそうな顔で謝っているのは、一条さん。
彼女は二日間、学校を休んでいた。だから、自分のせいで記事が間に合わなかったのかもと、気にしているのだろう。
ボクは、どう返事をしたものか迷った。
実は、個人的には一条さんとなら居残り大歓迎なのだけれど、正直に喜んでみせたら変に思われるだろうし……。
ボクが迷っている内に
「大丈夫だよ、書ける所は書いておいたから。それに本当はね、もう昨日で終わってたんだ」
とフォローが入った。
声を掛けたのは、落ち着いた声の三井君だ。
三井君は、女子に人気があるのに気取らない。みんなに平等で、仲間外れをしないので、ボクはよく助けてもらっている。
「ただ俺達、文字が汚いからそれでちょっと悩んで。タイトルくらい綺麗にしたくて、下書きだけ終わらせて空けとくことにしたんだ。
一条さんは書道部だから、タイトルを一条さんに頼めないかなって事になって――」
三井君は、スラスラと昨日までの経緯を説明していく。さすがというか、三井君は丁寧で分かりやすい言い方が出来るなあ。ボクが説明したら、こんな風には言えないだろうな。
することがないボクは、一条さんの反応を見た。
……良かった。一条さん、笑っている。これなら、一条さんも休んだ責任を感じずに済むだろう。
三井君は昨日、一条さんの仕事を少し残しておいた方が、班の皆の思い出にもなるし、一条さんが気まずくならずに済むかもしれないと言った。
ボクはその時、感心した。授業が終わるまでに記事を埋めようと焦っていたボクは、自分の考えの浅はかさに恥ずかしくなったくらいだ。
三井君は、本当に皆の気持ちを考えられる人だと思う。こんな風に考え、意見出来たらなあ。
「わ、本当だ。殆ど終わってるんだね」
一条さんは記事を読みながら、嬉しそうな顔をした。
「人数が足りなかったのに、みんなすごい」
「中身は二川がバンバン思い付いてくれたんで、わりと早めにまとまったんだよ。な?」
三井君はボクに笑顔を向けながら、そんな事を言ってくれた。
三井君は、喋る時にしっかり相手の顔を見る事が出来る。当たり前の事なのかもしれないけど、ボクには難しい。
一条さんもボクを見た。
「二川君すごいね。私、こういうの考えるの苦手だから、二川君のおかげで助かっちゃった。ありがとう」
「いや、たまたま思い付いて……」
それしか言えなかった。本当は嬉しくてたまらなかったのに。
ああ、三井君みたいに一条さんをしっかり見ながら、笑って答えられたらなあ。
あれから、一条さんの笑顔がまぶしくて、どうしてもまともに見られないよ……。
――あの日。あれは、去年の事だ。
学校の帰り道、金切り声を聞いたボクは、思わず後ろを振り返った。
まず、猫が激しくのたうち回っているのが目に入った。そのすぐ側に、一条さんがいた。声は、一条さんの悲鳴だったのだ。
どうやら猫は、車に弾き飛ばされたようだっだ。猫は跳び跳ねるように盛んに動き、平衡感覚か何かが狂ったのか、閉じた店のシャッターにぶつかってガシャガシャと鳴らしながら、壁の隅まで必死で走った。まさに、最後の力を振り絞っているように見えた。
ボクが駆け寄った頃には、猫はもうピクピクと痙攣する程度になっていて、すぐに動かなくなってしまった。
一条さんは倒れるように歩道のアスファルトに座り込み、猫の前足を握って拝むように号泣していた。ボクは、ただそれを見ていた。何も言えなかった。どうすれば良いのかも分からなかった。
しばらくすると大人の人が通りがかり、結論から言うと、その人が庭に猫の墓を作ってくれた。
ボクがその日に出来たのは、墓を作るのをほんの少し手伝った事くらいだった。一条さんの震える背中ばかりが記憶に残って、離れなかった。
その次の日の朝、ボクは心配しながら一条さんが教室に来るのを待った。
もしかしたら、一条さんは学校を休むかもしれないと思ったのだ。しばらく立ち直れそうになかった。
しかし、一条さんは学校に来た。一条さんが笑顔で友達に挨拶しているのを見て、ボクは心底ホッとした。それと同時に、なんて強い人なのだろうと尊敬した。
毎朝そうやって、笑顔を確認するのがクセになった。一条さんの笑顔を見るだけで、ボクも頑張ろうと思えた。
その内、いつの間にか一条さんの笑顔が大好きになっていた。