魔女殺されたら殺しかえすまでが礼節
――何故、きてしまったの、どうして、来てしまったの。
「?」
ふと、ここに入ってはいけない、そんな声が聴こえた気がした。
しかし振り返っても、何もない。あるのは棚引く雲と寒々しい水色の空、青々しい平原、細い道に沿って去っていく馬車と天辺に薄く雪が敷かれている美しい山嶺。
話しかけるとしたらあとは門番ぐらいだが、誰もがきっちりと服を着こみ職務をまっとうしていて無表情でいることから、やっぱり誰も私に声をかけてはいないようだった。
私は、はて、と首を傾げてから、私に声をかける物好きなど周りにはいないのだと気を取り直して前を向く。
見上げると蔦が伝った石造りの美しい門がある。門はあまりに大きく、それでいて壮大で、古びながらも門として未だ健在なのだと思い知らされた。
その門が、今日だけは私の為だけに開かれている。普段は固く閉ざされているのであろう、めったにない訪問者を招いているようで、一瞬、まるで私を祝福しているようにも思えた。
そう、私はこれを潜って世界一の魔女になると決めたではないか。あの入学証をもらった心に決めていたのだ。そう、これは大いなる歴史の小さな一歩なのだ!
私は意を決し、門の中へ、土から石畳へと足を踏み入れる。
その瞬間、たしかにあのおぞましい声が聴こえた。
上から下に、下から上にぐるぐると響き渡るそれは確かに歌っていた。
憐憫と嘲笑が含まれた歌声は、鳥のさえずりのように耳に届いている。
あーあ、どうなっても、知らないよ――知らないよ、可哀そうに、可哀そうな人、生まれてしまって可哀そう、本当に可哀そう――
そんな呆れたような声色が一斉に輪唱している。様々な人の声だった。私が短い時を過ごしていたことからもわかる。彼らは本気で私を憐れんでいた。
何故だろう、と疑問に思う前にあの声があまりに脳に響くものだから、思わず嘔吐をしかけた。なんとか口を手で覆って我慢したところで、あのかしましい声はもう聴こえていないのだと気づく。
ふらついた身体を叱咤し、それでも新しい門出の一日を無駄にしたくなくて、私は一歩、また一歩歩き出す。
幻聴が何の意味を示すか理解しないまま、私は石畳の上を踏みしめる。
無知のまま。無垢なまま。
知識こそが、立派な魔女になりたいと思うその心だけが、未だ色のない私を貪欲に染めていくのであると。
そう、私は一途に信じているのである。
◇
学園魔法都市アンブローズ――かの有名な魔術師の名前をとって築き上げられた学園は、今や学園としての機能に留まらず、百年前からついに一都市と認められて活動しているようだった。
そんな学園都市から名誉ある入学許可書がきたのは、つい先日のことだ。
私は自分でもいうのもなんだが、教会の中では割と頭が回るほうで、司祭の手伝いで錬金術師の真似事もしていた。それが功を奏したのか、ついに国の中心であるアンブローズにて勉学に励めと入学許可証が届けられたのだ!
手紙を受け取るとき、酷く身震いしてしまったのを今でもよく覚えている。
手紙をくれた役人も、見事な刺繍で彩られた豪華な服を着ていたから、その許可状が偽物でないとよく分かった。それに、確かに自分の名前宛だったのだ。
あまりに嬉しくて飛び跳ねて、そのときばかり司祭にたしなめられたものだが、あまりの名誉なことに夜になっても眠れず、盗まれることを恐れて自分の胸元にずっとしまい込んでいた。アンブローズ行きの馬車がやってきて、そうして安堵してようやく部屋から出たのだ。
下の月の、十四の鐘が鳴ったとき。
馬車が出る時間となり、私は生まれ育った村をあとにした。元々孤児だったので親しいものはいない。見送りに来てくれる人間も、司祭ただ一人だけだった。
「じゃあ、いってきます!」
最初で最後の満面の笑みを見せたのか、司祭は苦笑いをする。そうして私は二度と村のほうを向かず、御者の向こうに見える新しい明日へつながる道を眺めた。
「わぁ!」
エリートの中のエリートが住まうのみの大都市に何故一介の平民である私が入ることができたか、それはひとえに私があまりにも運が良い――その一点につきた。
馬車に揺られ、いくつもの街を経由して二週間ぐらい経っただろうか。目の前にようやく、魔法都市アンブローズの町が見えた。そして意気揚々と都市に入り先ほどの通り。
私は吐き気を抑えて街へ乗り込んだわけだが、その街の熱気に気圧され、つい私が先ほどまで吐きかけたことも忘れてしまった。
花の都アンブローズ、石畳と煉瓦と階段が見える視界いっぱいにある。それにまだ城下町のくせに門の中に入ったら見たこともないほど人で溢れていて。これが“学園都市”だと思い知らせてしまった。
山かと思うぐらい遠くには、大きな城がそびえたっている。あれが都市の中心、学びの都の中心、魔法学園。
ぐるりと堅牢な城壁で囲まれた城は、かつては学び舎であったという。あの中心で、かつての賢者は何人もの生徒に魔法を教えて、それから城が造られたそうだ。
賢者の生徒は優秀だったそうだ。あまりに頭がいいからついでに城を建て、今や政治もそこで行われているという。
ついに賢者の後輩として、そして未来を担う一端として入学できるのだ。
だがしかし、その前に。
私はきょろきょろと目を動かす。先ほどから美味しい匂いがしている。村でたまに行商人が持ってくるどの食べ物や香水よりも良い匂いのそれ。
私はきょろきょろと目を回してから、食べ物が売られている。色とりどりのそれらはあまりにも鮮やかに移って、あまりにもおいしそうに見えるから。
「あーん」
私はなけなしのお金を払ってそれを口にした。
先ほどまでに鉄板に乗せられていた肉は、今や串に通されてほんわり湯気に包まれている。みためはこんがり、きっと一口食めば肉汁が出てくるだろうそれを私はほおばり。
そして。
「?」
ごぷり。
その音はどこから聴こえたのか。
否、自分はそれを知っているはずだった。気のせいではない。私はそれが自分の内臓の中で生じたことを知っている。
胃液ではない。よく知っている鉄さびの臭いがやがて鼻孔を、喉までせり上げてくる。
だらりと口にこぼれ出たのは大量の血液。どばどばと、赤くて鮮やかなそれは首元からまるで染め物の如く服を侵していく。
やがてぐるぐると視界が歪み、世界が反転する。空も地面もないただ真っ赤な世界。その中に立っているのは一人。それは自分だけのはずだった。
「が、はッ、ぁ゛」
平衡感覚もない。地に足が着いているかもわからない。しかし頭が割れるばかりの反響、あの声が聴こえてくる。
――なんで食べてしまった、どうして食べてしまった、残念、残念、どうしてどうして、なんでそんなことをしてしまったの。可哀そうな子、本当に可哀そう。
世界はまだぐるぐると回っている。
昼が夜に。夜が昼に。月が見えたと思えば美しい青空、綺麗な陽の光、霧雨が振って空の向こうも見えず。と、思えば満天の星。流星が瞬く間に大勢と流れていく光景を私は見ていた。
「……ぅ゛ぅ゛、っ」
ようやく視界がまともになったかと思ったころには、自分は路地裏で無様に倒れていた。頬どころか、身体の前半分ぺたりと石畳に触れている。
いつの間にか自分は気絶していたようだ。口の中の鉄錆の味はもうない。思わず口を拭う。喉から血がせりあがり、こぽこぽと唇から零れていたはずだ。しかし口をふいた手の甲を見ても唾液も血もなかった。持っていた串もどこかへやってしまったみたいだ。
遠目に人を見るが路地裏で陰に隠れているせいか、誰も私を見つけるものはいない。
ため息をついて、一応自分の服を確認してみる。吐血などした覚えなどないかのように服はほつれ一つもなくとてもきれいだった。
私ははっとした。服よりも何よりも大事なのは入学証書である。内ポケットに縫い込んであった紙の感触を確かめてそこにあるのだとわかると安堵のため息をした。
まばらになった人々を観察する。未だ焦点がたまに合わないときがあるが、まぁ視界はそのうちに元に戻るだろう。
私はすっかり夜になって冷えてしまった街を歩き始める。
やがて群衆に紛れた私は一人の通行人となり、月夜が映し出す陰にすっかり隠れてしまったのだ。
◇
「ほらよ」
「ありがとぉ!」
城の中でも有数の中庭が見える廊下に付随した、何日も籠城しても平気そうな、とてもとても大きな食堂。魔法で灯るたくさんのシャンデリアと、ふわふわ浮かぶ幽霊さんたち、長机にたくさんの人が座っている中で、ノアは特製のジュースをわざわざ持ってきてくれた。
「ちゃんと一滴残さず飲めよ、」
「ふん、わかっていますぅよぉだ」
ノアは錬金術科の中でも優秀な生徒の一人である。将来は学位を授けられることが既に決定しているらしい。
すでに一人前の魔術師ではあるが、錬金術師でもある。この優秀な人が相棒なのかと思うと私も誇らしくなる。
この学園には相棒制度がある。組み分けは学園で行われる占星術で決められる。相棒は、運命の人だと定義されている。人生の一端どころか伴侶とほぼ同意義になるぐらい重要なので、そう、つまり、とても重い。だから大体は相棒がいないまま卒業したり、生涯相棒がいないまま生を終える人間もいたりする。
そんな将来の首席であるノアの、唯一無二の相棒という尊い称号をもらった私は、そのまま名誉に甘んじて安心安全な隠遁生活を送っておけばよかったのに、ついうっかり実験の失敗を一身に受けてしまい、食べ物が一切受け付けられない体質となってしまったのである。
錬金術の失敗の代償はあまりにも大きかった。命あっての物種といえばいいのか、しかし消化器官の一切がやられてしまったせいで、身体は栄養を欲しているくせに、何も食べられない死人みたいになってしまったのである。
そんな私の唯一の食べ物は、ノアがくれる私専用のジュースのみであった。
大食堂から少し外れた、廊下に反対に位置しているテラスの端で縮こまりながら、私はちゅーちゅーと特製ジュースを飲んでいる。ノアは私が座っているテーブルの向かい側で、見た目にそぐわず手ずから作ったらしい昼食をがつがつと食べていた。
私はそんな彼を眺めながらストローをくわえて、相変わらず喉にジュースを通している。ジュースは血より粘り気がなく、しかし赤黒いそれは見る人によってはまるで血を飲んでいるようにも見えるだろう。
「これ、見た目よりかは喉越しいいよね。味はまぁ、私にはわからないけどさ」
「だろうな。それがクソまずいと思ったときはお前の味覚がもとに戻ったときだ」
「ノアったら、ひどいなぁ」
「少なくともそれはお前用に調合しているから俺には飲めないし、一生飲みたくもない」
ノアはこの特製ジュースに関して、少なくない時間をかけて色々つくってくれている。本来なら私がつくるべきものだが、ノアでないと取り寄せできない材料もあるらしく、けっきょくノアに任せっぱなしになってしまった。
それについては罪悪感もあるが、その代わり勉強しろと言われては仕方ない、私は栄養摂取に勤しみながら、開いていた参考書のページをめくった。
ノアはサンドイッチの箱を片付けながら、ついでに風で少し前髪を直しているようだ。
「私もさ」
「ん?」
「少しはノアみたいに身だしなみに気をつけたほうがいいのかな。綺麗なおべべを着て、どっちの性別か見分けつくくらいにはさ」
「やめておけ。俺にみたいに、外見に惑わされるやつが出てきて、時間をとられるのが関の山だ」
ノアは恥ずかしげもなく言い切った。だが彼には断言できる理由がきちんとある。
そう、何を隠そうノアは残念なことにとても顔が良いのだ。
当時はそりゃもう大モテのモテまくり。既に相棒として決まっていた私もぽかんとアホな顔をさらけ出すぐらいにはモテモテだった。魔力も竜に負けず劣らず相当持っているらしく、女子だけではなく、たくさんの御仁に好かれてそれはもう大変な思いをしたそうな。
今やすっかり人嫌いとなって、私以外の人間とは最低限の会話しかしない。
対して私はモテるとかと言えばそんなことは全くなく。いたって普通の恰好をしている。
しかしこの学園は、性別はおろか生物の区別さえなく、人間であれば恥部さえ隠していればどんな時代の、どんな服装でも構わない。さいあく、アンティークとして飾られている騎士の恰好をしても咎められないだろう。実際そんな人物もいることもこの学園には在籍しているが、まぁそれは割愛しておこう。
とにかく今の私の恰好は、何百年、何千年と経っても流行に左右されない、正直に言えば全く見栄えのない服を着ている。フードがついている黒いローブ。何百年と変わらない、世間一般に想像されている魔法使いのような恰好。これでひとつ杖をふるってみれば、みてくれだけは立派な魔法使いだと誰かに言われるだろう。
しかし私もこう言っては何だが、顔の造形は悪くはない。だが地味だ。
きっと有象無象に放り込まれたら一瞬で忘れ去られる程度にはとても影が薄く、ノア以外だったら見分けがつかなくなることは必至であった。
「まぁ、俺がお前を見分ければそれでいいだろう。知識に本来見てくれは必要ない」
ノアは専用の水筒からミルクをティーカップに注いで飲んでいる。私の手元にも、いつの間にか新しい特製ジュースがコップに注がれていた。
「それにお前、目立ったらまずいだろう」
「うん、まずいね」
「じゃあ、このままでいい」
「そうだね、じゃあ、このままでいっか」
反復学習のようにひとしきり言って、それからフードを深く被りなおす。
目立ったら殺される。その前にもちろん殺すけれども。私は殺されるようなことをむざむざしない。殺し合いに手間をかけるなら、その間に研鑽を積み重ねて勉学に励むほうがよほどいい。
それはこの学園でも当たり前のように行われる何百年と変わらない伝統行事のようなものである。それでも殺し合うぐらいなら、先に殺したほうがよほど将来の為になる。
◇
「ふー、遅くなっちゃった」
目立つ髪を隠すようにフードをかぶり、図書館の空を見る。すっかり日が暮れてしまったが、この髪色は遠目からでもよく見えてしまう。一応黒色に染めてはいるが、日にちがたっているため染料が落ちかけて、見る角度によっては赤髪だと言われてしまう。だから念には念を入れて、なるべく人の目に映らないようにこそこそと歩き走っていた。
「?」
既に陽は落ちて月が薄く空に現れたころ、それは出た。
――あまりに鮮やかな瞳の色の、性別もわからないような綺麗なひと。
まるでおとぎ話からそのまま出てきたように、真っ黒の衣装を着たその人は、中庭にぽつんと建っているガゼボで一人黄昏れていた。
いや、何か読んでいるのだろうか、あまりにも暗いくせに、真剣に、そして悲しそうに何かを読んでいるものだからつい気になってしまう。
ガゼボと周りの風景があまりにも色がないから。いや、その人があまりにも目立っていたから、余計にその人の瞳の揺れが際立った。
「ぁ、あの、大丈夫ですか? どこか具合でも悪いんですか?」
その人がとても綺麗で、そしてあまりに無防備なものだから、つい話しかけてしまった。
そんなつもりはなかったのに、しかし行動してしまったものは仕方ない。声をかけて、大丈夫そうであればすぐ立ち去ろう。そう思っていたのに。
「ヒッ!」
月に照らされて、ようやくその人が赤い髪だった気付いたときにはもう遅かった。
赤い瞳の恐ろしい化け物。それはまるでおとぎ話として聞かされていた怪物より恐ろしく。
ぐるりと瞳が回る。その人の首が回る。人ならざるものだとはすでに分かっていた。
化け物が、一切の感情をなくして、こちらを向いた。
お互いの赤い双眸がかちりと合わさる。その瞬間。
ガゼボにいたのに、すでにそこには誰もいなくて――
「ぐぼっ、ぅ゛、あ」
その人は私の首に手をかけて、いとも簡単に私をその腕にぶら下げた。
呼吸ができない。ねばついた涎がだらだらと流れる。涎はその人の袖口をわずかに汚した。
「!」
からんと、手に持っていたナイフが地面に転がり落ちた。そしてそれはわずかに赤色を帯びている。
ざまぁみろ、と、思った。窮鼠猫を噛むとまではいかないけれど、一方的に嬲るだけだった存在が、会心の一撃を放つ! これでもう少し時間は稼げるはずだった。
だが、奇跡もここまでだった。腹を深々刺したはずなのに、思い切り呪詛が込められたナイフに刺されたはずなのに、私の首の絞める力は一向に弱まらない。いや、わざと殺していないのか。では何のために。一体何故私を生かし続けているのか。
「可哀そうに、可哀そうに――生まれてしまって可哀そうに」
ぐちゃり。その人は私を掴んでいないほうの手で胸を突き刺し、何かを探すように内臓を掻き混ぜていく。目当てのものはあったらしい。勢いよく手を引き抜いて、そしてついでに心臓をそんなに憎かったのかというぐらいに、簡単に握りつぶした。
「……――ぁ゛……ッ、……」
私の意識はあっというまに混濁して、急速に世界が色を失っていく。
――否、やけに赤い血の色だけが、世界に取り残されていた。
見えたのは、薔薇のように真っ赤な血と、黒い死に装束の人。
ぐるぐる、ぐるぐる。世界が回って。
――パキリ。
首が折れる音がする。実際折れてしまっていた。私の生命、私としての存在はあっけなくここで終わってしまったのだ。
くるくると、綺麗に回転しながら首が落ちる。断片はきちんと人間らしく血を吹き出しながら。血液が撒き散らされている。けれど、その血がその人の服の一片たりとも汚すことはなくて。
それでその人は人ではなく死に神なのだと、不意にそう思ってしまったのだ。
◇
私は世界の中心と言われている王都アンブローズで生まれたわ。
生まれてからずっと私はいわゆる勝ち組だった。あらゆる才能に恵まれ、環境も勉強も最上のものを用意されている最高の人生!
少し微笑めば誰だって私に夢中になった。まぁ、同性である女には思い切り嫌われているけれど。こんなに美しく生まれた私の宿命ってやつなのだから、それは受け入れるしかないわよね。
私には数多くの男を侍らせていた。その中でもあの男が最高にクズで面白かったわ。
綺麗な顔をしているくせに、人を人とも思わず口を開けば毒舌を撒き散らす最低のクズ男!
あいつが私に一目ぼれしたのはいわば必然だったのよ。あの男は他の人間は有象無象のゴミとして見ているくせに私にだけはとても甘ったるい顔を向けてきたわ。まぁアレはへたくそだったけれど顔だけは良いから傍に侍ることを許してあげた。ナニが、とは言わないけれど。まったく、乙女に変なことを言わせるなんて失礼しちゃうわね。
あの男は私が通っている学園の教師だったから、いろいろ融通してもらってヨクしてもらったわ。
そんな中、私の男に色目を使ってくる可哀そうな娘がいたわね。名前は灰がかぶったような、えぇ、この私に名前も覚えてもらえない、見た目もさえない、貧相なからだつきの娘。
それなのに私の男に顔を真っ赤にしながら見惚れちゃって。本人に自覚ないようだけれど、ちょっと懲らしめてあげなくちゃ。
だからあの男にちょっと目を潤ませて相談したのよ。でも馬鹿正直に言ったら疑われるから、ちょっと言葉を換えてお願いしたの。そう、あの貧相な女の子にも慈悲を与えてってね。
そしたらいつのまにか殺し合いが始まっちゃったわ。
あの男は本当にねじがぶっ飛んでいて、私の想像の斜め上をいってくれた!
でもあの子は目を真っ赤にして殺し合いを勝ち抜いていった。
しかも、殺し合いのさなか、私にあんな目を向けて!
「……ッ!」
ぞっとした。
どこにでもいるような娘のくせに。あんたなんか私の男にフラれた可哀そうな女のくせに!
何なのあの女! 私に対してあんな目を向けるなんて、許せない!
あの男も本気であの女、いいえ、魔女の幸せは真理を見つけることにあるとか言っちゃって、本当に嫌になっちゃう!
まぁ、普段から私のことを睨み付けていた子たちもあの子は勝手に殺していたからざまぁないわ。
あの男は私の言う通り、心臓を食べさせるっていう気持ち悪いこともあの女たちに言ってくれた。心臓には知識が詰まっているって言っていたし、本当のことかは知らないけれど、あの女は私にごめんなさいと詫びながら心臓を食べたみたいだし、あんな目を向けたことも許してあげる。あら、私ったら本当に優しいわね?
どっちにしても私にとって邪魔な存在は消えたし、あの男はこれで真理に近付けるーとか言って喜んでいたし、いいことづくめよね。
本当、私ったら罪な存在だわ。
でもみんなにとって幸せなことをしてあげたんだし、みんなは私に感謝するべきよね?
◇
暑すぎず寒すぎず、作業机の周りは心地の良い温度。漆喰の壁にはめられた窓にはガラスが嵌められて、レースのカーテンは外から差す陽の光を柔いでいた。部屋の中央は天体を模したミニチュアの星々がランプ代わりとなってふわふわと浮いている。様々な植物が天井に吊されたり鉢に植えられていたりして、水はけも良いから育てるのになにぶん不足がない。床は隙間が空いているから水をこぼしても必ず地面に落ちる仕組みとなっていた。錬金に必要な材料や道具は棚に並べられている。中には一国の宝より貴重な、宝石の粉も瓶に敷き詰められ、棚に陳列していた。
つまり魔法を試すには絶好の、魔法使いの部屋。そんな中。
「――……ぁ゛……ガ、ァ゛?」
「おい、大丈夫か?」
「あ、がっ! ~~っ!? いっだぁぁぁ!」
私は自室で少しの間うたた寝をしていたようだ。よほど不自然な姿勢をしていたのか首がちょっと、いやかなり痛い。私は首を揉みしだきながら、いつの間にか隣にいたノアに確認した。
「~~ッ! ……ぅう、ノア、私は寝ていたの?」
「そうだな、本を中途半端に開いたまま、器用に目を半開きにして涎を垂らしながら寝ていたな」
「うわぁ、めっちゃ恥ずかしい恰好じゃん!」
「そうだな、とても人さまには見せられない、恥ずかしい姿をしていた」
「ぉぅぃぇ……」
まさか寝てしまうとは一生の不覚! と、実は図書館の帰りから記憶がまったくない。
連日の読書が疲れに出たのだろうか。私は首からこめかみをぐいぐいと揉む。
目ざとく私の様子を眺めていた彼は、私が読んでいた本の挿絵に気付いて呆れたようだった。
「面白かったか、その大衆小説とやらは」
「面白かった! この小説のここが特に興味深くって」
私がぐいぐいとノアの顔に本のページを押し付けて説明しようとしても、ノアはいやそうな顔をするばかりで小説を見ようともしない。
「わかったから落ち着け」
「いいねぇ。冒険小説、でもこの学園は冒険している生徒なんか見かけないよ。実際にいたらびっくりして二度見しちゃいそうだけど」
「そりゃ学問を修めに学園にいるはずなのに冒険しているとしたら、そいつはとんと狂人か変人のどちらかであろうよ」
「うん、まぁ間違いはないね。この小説なんかほら、死んだ恋人を生き返らせようと賢者の石を捜し求めているんだよ! まぁ各地をさんざん回ってひとさまに迷惑をかけた挙げ句、他人の身体に恋人の魂をぶちこんで生き返らせているのだから、愛の力ってすごいよねぇ、狂人も極めれば真理にたどり着いちゃうんだ。腹立って仕方ないね!」
「だからそれはあくまで妄想の話だろう! だから! クソの塊のような本を俺におしつけるな!」
ノアは小説を押し返すことを忘れない。何度か攻防をしたが、どうあがいても読んでくれないとあきらめて小説を鞄にしまった。
この本は図書館でたまたま見つけたものだ。古びているが司書によって丁寧に修繕されているそれは別に禁書というわけではない。だが恋愛小説というものをしばらく入荷していないみたいで、かなり昔からあったこの本は少し古い言い回しで恋人たちの機敏が描かれている。
だがある程度、古文、むしろ現代文よりそっちのほうが得意なこともあって、私は何百年も前に発行された小説を好き好んでいる。
この作者はすでに没しているが、登場人物のやることは突拍子があることにしても、理由はちゃんと納得できるものがつくられているので、私は好んで読んでいる。
この小説も、少なくとも十回は読み直してきた。
「でもまぁ、また違う小説も発見したいし、これは返しにいくかぁ」
「ついでなら図書館の近くにある植物園で熟していないマンドラゴラをいくつか摘んできてくれ。実験に使いたい」
「はーい」
私は鞄を身体に斜め掛けて、階段を下りる。私たちが住んでいる部屋は学園が所有している集合住宅の一つの部屋だった。といっても、この家には私とノアしかいない。何故それがわかるかというと、私たち以外の人間の出入りを一度も見たことないからだ。
鉄勢の手すりでリズムよく階段を下りてから、中庭に面している外に出る。学園から遠いこともあるが、この集合住宅というより、ここの地域一帯が全くひとっけがないような、そんな感じがする。
まぁ、都市からかなり離れているからさみしいのだろうと思って、私は司書がいる時間までに間に合うよう、せっせと歩みを進めるのであった。
◇
その図書館は増設に増設を重ねて、外観はかなり歪な形となっている。本が建物に合わせるのではなく、建物が本に合わせているのだ。かつてのこの国でも思想のために焚書が行われていたらしいが、現在のアンブローズでは思想の押し付けと弾圧を一切禁じている。だから、本の廃棄は行われないのだ。
だから本はたまりに溜まって、一階だけでも一日だけではとても歩き回れない広さとなっている。増設でも本が収納しきれないから魔法によって場所を確保したのだろう。
この図書館は地上三階から地下百階まである。百階の更に下にはこの年の中でも数少ない禁書指定、という本もあるらしい。私は見たことないが、ノアがいずれ見たみたいとそわそわしていたので、いつか探検しに行ってみたいなと思う。
「はい司書さん。これ、返却しまーす」
「はいはい。グレーテル君はマメねぇ、ここ百年くらい本を持ち出そうとここを訪れる子なんてそうそういないのに」
「へー、僕以外に本を借りる子はいないんですか」
「そうねぇ。持ち出しでなければここに来る必要はないから、しばらくは見ていないわねぇ」
司書がいる受付台は図書館にあるたくさんの出入り口のうちの一つしかない。しかもこんなに本があるというのに、どうやら何百年以上もたった一人でずっと管理しているという。
原則、図書館の中にある本は手続きをしなければ外に持ち出せない。それがまた面倒なものだから、たいていの生徒は中で読んで済ませるのだろう。
中身も外見も人外が多くいるここアンブローズでは、信じられないことに一見しただけで全てを覚える瞬間記憶保持能力者が大勢いる。
私は残念ながらその種の人外には当てはまらないのでこうして貸し出しという制度にこうして甘んじている。
ついでだからと受付台に寄る前に見つけた小説本を何冊か借りられるよう手続きしてから、司書と軽い雑談をする。
そして司書は思い出したかのように、近所の殺人事件について語りだした。
「そういえば、ここら辺の中庭のガゼボで殺人事件があったらしいのよ。死体はないから、おそらく死んだ、ていうことらしいのだけれど」
「あぁ、そうなんですか。でもまぁ、魔女だったらいつものことですから、僕は大丈夫ですよ」
「そうね、まぁそれでも間違えて襲われないよう、気をつけなさいね」
「はーい」
私は司書にぺこりと挨拶してから、図書館の入り口を出る。太陽は未だ落ちていない。だが、鐘の音が時間はしっかりと過ぎているのだと示すように、遠くからよく聴こえた。
「あ」
フードから一房、髪が零れてしまった。慌てて誰か見ていないかときょろきょろしてから、髪を軽くとかし、視界を少しよくしてから改めてフードを被りなおす。男だと偽っているが、一応こう見えても立派な魔女なのである。
だから念には念を入れて。今は完璧な黒髪であるし髪も切っているけれど、それでも用心に越したことはない。
鐘の音が鳴り終わった。今日の授業は午後からだった。それまでに頼まれたお使いをこなさなければならず、少し早足で植物園に向かうことにした。
◇
ここ魔法都市アンブローズで赤髪の魔女は、ある種、図書館の禁書よりも禁忌の存在である。
何せ、赤髪の少女であるそのときから、他の赤い髪の少女に命を狙われるから。
普通の魔女も、相手が持っている知識を奪おうとして殺しあうこともある。しかし、赤い髪の魔女たちの場合は、尋常ではない殺し合いをした。
赤い髪の魔女以外は、彼女達が殺し合う理由を知らない。なぜなら、見かけた人間も残らずのちに凄惨な姿となって発見されるのだから。
だから皆は口を噤む。
殺されたくないから。
彼女達は許さない。自分の姿を見かけたものを。正体に気づくものを。絶対に。
同時に赤髪の魔女は、年齢に問わずこのアンブローズには公式的には存在しない。今日までは、そのはずなのだった。
「……あ」
天窓から陽の光が届くが、決して広くはない教室に入ってきた麗人。生きる伝説だとも言われているその人は髪の色素が抜け落ちた今でも美しい銀髪を誇っている。その麗人が、姿を現し、教壇へと上った。
赤髪の魔女の唯一の例外。厳密にいえば魔女ではなく魔法使いなのだが、あまりの美貌で性別すら超越してしまっている。
学園長は生まれながらにして、卓越した存在と謳われていた。本来なら真理にたどり着いているはずなのに、あえてこの世に留まっている、らしい。
そんな賢者が、狂った様子も見せずににこりとある一点に向かって笑う。そんな姿に、視界の端からでも何人か頬を染めるのがみてとれた。
「静かに――これから皆さまに転校生を紹介します。ほら、アンジェラ、皆様にご挨拶をしてください」
学園長は一人の少女の為だけに笑っていた。まるでようやく得た唯一の花に対して大切にしているかのよう。
麗人に促されて教室に入った少女は、未だあどけない顔立ちをしている。魔法使いに似つかわしくない白いワンピースを着ているその少女は、赤い髪に赤い瞳。
学園にまつわる、赤い髪の魔女たちの呪いなんて野蛮なこと、元々ないのだと主張しているかのようで。
誰もが口を閉ざした。こんなにも堂々と生きているのだから、この子は別なのか?
きっと呪いをも覆す特別な魔法を、学園長にかけられているのだろう。
でなければこんなにも天真爛漫な笑顔を、万人に向けられるはずがないのだから。
「――アンジェラと申します。どうぞよしなに、これからよろしくおねがいいたします」
輝くばかりの彼女は、鮮やかすぎる綺麗な赤い髪をしていた。
学園長は愛しいと言わんばかりの眼差しをアンジェラに向けながら、生徒たちに言い放つ。
「アンジェラは僕の婚約者です。皆さま、どうか彼女によくしてください」
美麗の魔法使いが美しい少女をもう一人の対として宣言したものだから、誰もかれもぽかんと阿呆な面を晒してしまった。
アンジェラはそんな彼らの様子をよそにきょろきょろと目を動かす。やがて一点に視線を定めてから、ふわりと足を進めた。
その先にいたのはそこにいるだけで華があると褒め讃えられる彼。この教室に、そんな美しい人は一人しかいない。つまりそれは。
「まぁ、何てカッコいい人なのかしら! 私、アンジェラと申します。どうか仲良くしてくださいな?」
そうしてそう、ノアの隣にいたはずの私を一切無視して、ノアの美しい指を掌に載せ、無邪気な声色で、無粋にもこう言い放ったのだ。
◇
魔法都市アンブローズも、天気の悪い日は多い。むしろ今までが珍しいというほど、最近は曇り空が続いていた。
――ゴロゴロ、と、遠くで雷が鳴っている。それでもどうしても、集合住宅の軒先に置いた植物を未だ片づけられない気分なのは理由があった。
「……機嫌悪そうだね」
「そういうお前こそ機嫌悪そうだな」
「実際悪い。実験の邪魔をされるわ、私専用のジュースを勝手に飲まれるわ、学園長はあいつに付きっ切りのくせににこにこするだけで何も言わないわ、これほどまでに人間を邪魔だと思ったことはない。アレは天使の形をした悪魔なのか? ……天使だけに」
「奇遇だな、俺も全く同じ気持ちだ」
私とノアは非常にうんざりしていた――あの娘、天使の名を持つ非常に迷惑な存在に、ここ一か月ほど付きまとわれてげっそりしている。ノアなんて、一日一回しかお茶ができないほどに憔悴している。
嫌がらせか? と思ったときもあったが、どうやらあの娘はほんの少しの善意と好奇心で出来上がっているらしい。彼女の婚約者である学園長も止めないので、誰も彼女の行動を遮るものはいなかった。
未だ住んでいる部屋には出現していないが、現れるのも時間の問題だろう。つまりそう、我々は非常に厄介な問題を現在進行形で抱えていたのである。
「殺していい?」
椅子に行儀悪く座りながら、私は唸るようにノアに訊ねた。彼は非常に残念そうに、まだその時ではないという首を振る。
「まだ駄目だ。首に手をかけたら、その瞬間に学園長が君の首を刎ねるだろう。我慢をするんだ。そう、できれば彼が離れているときか、満月のときまで待て。機会は必ず訪れる。君はただその刻を待てばいい――あの夜だって、ちゃんと殺せただろう?」
ノアはじっと私を見つめる。今も昔も表情が表立ってわからないので、感情が読み取れないのだが。それでも私のことを心配してくれているのはよくわかった。
私はナイフで指を軽く切り、作業机にある試験管の上で、指先をかざす。それから一滴血を入れて、くるくると軽く振った。
精油の中の血は混ざらずすぐに凝固し、やがて宝石のような艶を出しながら完全な球体となって、静かに試験管の底に落ちていく。
前までは宝石のような球体になるまえに、白銀に変色していた。だが今は完全な赤色のまま。ならば、あとちょっと。あとちょっとで、私はようやく完成する。
「そうだね、目立たず、獲物を狙う獣のように……じっと息をひそめて、刻を待つ。私は、できる……あの子が最後の子、十三人目の、可哀そうな子」
試験管を傾けて、中にあった宝石を取り出す。そして口を大きく開けて、ばきり。
ごりごりと音をたてながら私は自分の血液を自分へと戻していった。
「……ところで、あの学園長に対しては、何か思うところが、その……ないのか」
ふと、ノアが唸るように、そして小さな声で私に聞いてくる。まるで罪悪感に苛まれているようで、けれどまったく見当違いの気遣いに、わたしは思わず笑ってしまう。
「学園長? そもそも、やつが私たちの前に姿を現したことなんて、今回が初めてでしょう?」
「それは、そうなんだが」
「うーん、でもそうだねぇ……」
あいつを見た瞬間に殺さなかった理由なんて一つに決まっている。ノアの頭を手の甲で撫でながら、けれども彼のもっともな疑問に答えることにした。
「痛みを最大限にして、ばらばらに引き裂きながら私たちが生きてきた年数以上の苦役に処したかったけど、痛覚ごときじゃあいつを殺せない。おそらくだけど、あいつにとって一番残酷なことができるのは私じゃないんだよね。だから、外で待機している人たちに引き渡したいかなぁ」
「……そうか」
私は彼の頭を撫でたまま、窓ガラスの向こうの景色を見る。今夜は今までに類をみないほどの大雨が降ってくる。やはり外に置いていた鉢植えは全て中に入れる必要がありそうだった。
しかしもう一つ、大事な仕事がある。それはきっと私しか出来ないこと。
それとノアも、するべきことがある。私たちはほんの少しの間だけ離ればなれになるけれど、用事が終わればすべてが終わる。
でもその前にちょっとだけ、わかりきった返事がくるのは知っているけれど、それでも私は彼に訊ねてみた。
「外の手引きをしたのは、君?」
「さあな」
◇
植物園は、図書館と同じような造りである。外側ではなく、中身の話だが。
つまり植物が建物の中に建てられているのではなく、植物があるところに、植物が少しでも快適に過ごそうと建物が建築された。ということだ。
だから天窓は必ず植物より上。陽の光を遮らないように透明のガラスで覆われているが、今は大雨が降っているせいで、大量の雨粒がガラスを叩き、今やこの植物園は雨の調和を奏でる演奏会と化していた。
「あら、ノアさんの――えっと、ごめんなさい。まだお名前を憶えていなくて。あなた、名前は何とおっしゃるのかしら」
植物を中に入れようと思ったが、どうせ必要なくなるからと植物園の花壇に戻している最中に、アンジェラが相変わらず染み一つない、白いワンピースを着て私に話しかけてきた。
スコップの手を止めないまま、一つ一つ、未だ産声を上げないマンドラゴラにスコップで土をかけながら、私は淡々と質問に答えた。
「別に知らなくていい。親しくするつもりはないから」
「えっと、その、ごめんなさい。私、あなたに何か嫌な想いをさせてしまったかしら?」
「存在全てが気に食わない。そういえばあなたは死んでくれるの?」
私がそう答えるものだから彼女は少し驚いて、口に手を当てた。
そんな当たり前のこと。聞いてくるほうがどうかしている。かつて彼女に言われた言葉が、頭の中で反響した気がした。
少し湿気の高い温室の中、両指に交差させながら、愛しい恋人が自分のためにする行動を想像したのだろう。僅かに頬を赤く染めながら、私にこう返答した。
「まぁ、そんなこと、あの人がお許しになるはずがないわ! それと、言葉遣いはお気を付けになって。私にそんな言葉づかいをしたら、あなたが学園長に怒られてしまうわ」
「ふーん。で、私に何の用? ただの暇つぶしに、話しかけたわけではないでしょう」
「そう! ノアさん、どこにいるか知っていますか? 聞きたいことがあるのだけれども。あなたなら知っていると思いまして、声をかけましたの」
きょろきょろと視線を動かしてノアを探す彼女の挙動は、きっと普通の人間なら可愛らしいというのだろう。だが私も、ここにいないノアも、彼女の行動が、ただ学園長にそうするとより《アンジェラ》天使らしい、と助言を受けたからしたに過ぎない、ということを知っていた。
実際に聞いたわけではない。だが、今までの学園長なら、彼女の記憶をもわざと閉じ込めた私なら、より彼の醜悪さと、それに伴う行動を理解していた。
学園長と、皆は言うが、私は実際、あいつが学園長らしいことをしている様子を一度も見ていない。それでもアンジェラは今までの通りなら彼が万能であり狂人だと思っているはずだから、あえて望んだ言葉を引き出すために、こう話を切り出した。
「そんなこと、学園長に聞けばいいだろう」
「あの人は珍しく来客の対応をしているとかで、今は傍にいないわ」
その言葉で、私はノアがきちんと役目を果たしたことを知った。そして、私の役割も、もうすぐ始まり、もうすぐ終わることを理解する。
私は立ち上がり、ぱんぱんとローブについた土ぼこりを払った。
そして彼女と視線を交わす。互いにどちらも、真っ赤な宝石のような、血のような瞳だった。
「こい、私の唯一の人はこっちにいる」
◇
「それで、ノアさんはどこにいるのかしら」
アンジェラが身を乗り出すようにして私に問いかけてくる。しかしまだ、まだその刻ではなかった。
相応しい場所に案内するために私と彼女は植物園のはずれのはずれ、薔薇園に足を踏み入れる。天井から地面の近くまで、数多くの薔薇の品種が育てられている場所は僅かに古いせいか、上から雨粒がぽつりぽつりと落ちてきた。
彼女は僅かに服が濡れるのを嫌がっているようで、ほんの少しだけ眉間に皺が寄っている。しかし、それを無視して、私は歩みを進めていく。
やがて少し開けた場所に出た。天窓も大きく割れて、少し肌寒いが確かに植物園の中で一番美しい、景観の良い場所。広間の中心にあるガゼボは二人が愛を語り合う場所に相応しい。ああ、事実、天窓もない頃、あの人たちはよくここに座っていたっけ。
今は、残念ながら椅子が濡れているから彼らが座って愛を語り合うこともない。
その代わり私は彼女に訊ねたかったことがある。
儀式が終わる前のほんの少しの意地悪。おとぎの国のおひめさまを騙すような、そんな意地の悪い聞き方。
ほらだって、私は悪い魔女ですもの。見た目も真っ黒なローブを着て、爛々と赤い瞳だけは輝いている。これが悪い魔女でなければ、いったい何だというのだろうか。
「ねぇ、赤い髪の魔女の殺し合いって、きみは知っている?」
「えぇ、もちろん、恐ろしい話よね。でもそれは、みんなが作り出したおとぎ話でないかしら、だって赤い髪の私が、こうして生きているもの」
彼女は白いワンピースをふわりと揺らしながら、堂々と答えた。でも、生きているのはもうおしまい。
「え」
ぼたぼたと、背中から、胸から、口から血が流れる。それは彼女の身体を離れてしばらくすると、美しい白銀の流動体となった。水銀とも言われるそれは床の煉瓦さえもしみこまず、上から雨粒が落ちてくると、美しい波紋を生み出している。
アンジェラに心臓はない。代わりにあるのは似たような内臓と、賢者の石だった欠片。それも今、彼女の胸を貫いた今、私の手の内にある。
握った感触は小さいけれど、十四個に砕かれた賢者の石の、たしかに最後の一つであった。
ついでだから、答え合わせもしてあげる。
ほら、私ったらなんて意地悪なんでしょう。
「なぜ、赤い髪を持っているかっていうとね、賢者の石の欠片が身体を作っているから、髪も鮮やかな赤色なんだよ。だからみんなは知っている。賢者の石は不老不死の証し。欠片でもみんな欲しがる。少しでも完璧に近付きたいから奪い合う。そういう――呪いにかかっている」
「……ッ! ……、ぁ……ぅう゛……ッ!」
「なんで私が知っていると思う? まぁ、それは見ての通り、こういうことだよ」
私はアンジェラの胸から血だらけの手を引き抜く。同時に、フードを乱暴に外した。
雨粒から染料が流れ落ちて、鮮やかすぎる髪が、少しずつ現れる。
これが最後の大仕事。舌を出して、まるで禁断の果実の如く、赤い石をこれ見よがしに、大事なものであるかのように、丸のみにする。
舌で転がすなんてことはしない。感触も、あまり好ましいものでないから、咀嚼なんてとんでもない。
それに体内に入った石はすぐに変質する。ほら、まだらであった赤色が、誤魔化しようがない鮮やかな赤色に変化したでしょう?
同時に知識が、少女だった人間の欠片が、石を介して自分の中に溶け込んでいく。
でもこの欠片でつくられた人造人間は、学園長が思っていた通り、悪辣さが抜けた、確かにアンジェラと呼ばれた女の魂で形成されていた。そんなの、本当にアンジェラなの? と、少し疑問を抱えるけれど。だから、彼女の記憶だけは、自分の体内にあるアンジェラだったところだけはぽいっと棄てた。
アンジェラ以外の、グレーテルに殺された哀れな魔女たち。魂までぐるぐるとこねくり回され、かき混ぜられても、殺し合いという呪いにかかっても、元々ちょっと頭が狂っていても、やっと元に戻ることができた。
奪い合うのが魔女の常。目的は、知識の簒奪。
本来なら魔女の記憶はいらない。ほしいのは知識だけ。魔女を魔女たらんとして構成していた。
けれど私は彼女たちの記憶も全部ぜんぶぜんぶ体内に入れた。無理やりかき混ぜられたけれど、いずれちゃんと分離してくれるだろう。
「もう、おしまい。可哀そうに、大切に育てた赤い薔薇がいとも簡単に枯れちゃうなんて。本当に、本当にどうしようもなく可哀そうな人」
アンジェラだった人間はもういない。魔女ですらない彼女は欠片が消えて、血液ですらない、ただの土くれになって還ってしまった。
ガゼボの椅子の上に座り、私はひたすら待つ。そしてようやく雨もやみ、満月が顔を見せたころ、割れたガラスの向こうから、長い影が浮き出ていた。
「グレーテル」
「ノアか」
「終わったか」
「終わった。そっちはどうなの」
ノアは私の横に立つと、私が見ていたものにようやく気付いたらしい。彼は気まずげに目を逸らすと、それから私の隣に座った。
「未だ外からの来訪者の対応中だ。しかしアレは……引きずりだされたといってもいいのか」
「へぇ、ついに裁かれるときがきたんだね」
「そう、裁かれる。あいつは狂人であったが、それが許されぬ時代が到来したんだ」
きっとここもいつか枯れはてるのだろう。ついに背板に深く身体を預けた。
雨は止み、薄月が照らしていく。影は一層濃くなり、薔薇園にいた光の玉はふわふわと何事もなかったように漂っている。
「少し、眠りたい」
呻くように小さな声で呟いたら、ノアは眠るといいさ、明日にはまた忙しくなるといった。だから先んじてマンドラゴラを処分したのに。未だ忙しくなるとは、けっきょく、学園の生活も終わりを迎えるのだとすぐに理解した。
いつかノアと探検したかった図書館も、ついぞ禁書を見ることはできなかったと思い出して、しかしどうせその禁書もあの狂人と同じろくでもないものだから、関わらなくてよかったのだと、そう思うことにした。
◇
私と時を同じくして入学した少女は、学友の中でもひときわ目立っていた。同じ赤い髪のくせに、その娘だけは光り輝いているような鮮やかな赤色で。対して私は、赤に対して少し灰色が混ざった、土臭いといえばそれまでの色だった。
少女はアンジェラといった。まさしく天使のような容貌の娘だった。性格も魔女としては謙虚すぎて、魔法に関わらず一般人として生きるには十分すぎるほどの善良な娘だった。
だから当時の私たちの教師もアンジェラに恋することになったのだろう。当時のオーガストは魔法使いとしては一流だが、人間としてはゴミクズ以下だと私たちの間ではもっぱらの噂だった。
実際その通りであった。あまりのオーガストの美貌の前にふらふらと近付くものを文字通り言葉で一刀両断して、完膚なきまでに叩きのめす。ひどい目に遭った人間が口を揃えて食虫植物にたとえたのも無理はなかった。
そんなオーガストが天使に恋をしたのだ。当時の魔法使いたちにとっても娯楽は得難いもので、先生と生徒の禁断の恋の話はあっという間に学園中を駆け巡った。
オーガストがアンジェラに恋をして、二人が恋人同士になるのはあっという間だった。人間嫌いのオーガストが、彼女の前だけでは春が訪れたような柔らかい表情になる。たとえ授業中でもお構いなく、彼らは二人だけの世界を享受していた。まぁ、私たちはオーガストが恋をする前でもおざなりな扱いをされていたのだから生徒としては別に問題なかったのだが。
私の感情とはまた別問題だった。
自分だって、オーガストに恋をしていたのに。
どうして、あの娘が、何の努力もしていない、ただそこにいるだけの娘が選ばれたのか。
今思えば、ほんのり色付いた、恋心とはとても言えない仄かな感情だったけれども。
しかし、やがてこの想いもいい思い出となる、そう思いを飲み込み、風化しかけたころに事件は起きた。
赤い髪の魔女たちがあまりにも永い時の間に殺し合いに身を投じることになったきっかけは、アンブローズの何気ない一言であることを今や私以外に知る者はいない。
本当に何でもない日、彼は授業中にアンジェラを膝にのせて、髪を一房口付けてから、ふと思いついたように提案したのだ。
「君たちには殺し合いをしてもらいましょう。心臓を食べると知識を奪えるようにこの学園を、いえ、この都市の地下に、魔方陣を敷きました。これで存分に、真理へとたどり着く至高の一人となってください」
その瞬間、教室は一瞬にして地獄となった。
私たちは逆らえなかった。魔術師としては一流だったあの男は私たちに呪いをかけた。文字通り地獄を創り上げたのだ。
罠に嵌められた、と言えばいいのだろうか。あんな緻密に計算されつくした膨大な魔術の前では、どんな赤子も、魔女である限り殺し合いをしなければならなかった。
あまりにも果てない殺し合いだった。皆が切磋琢磨に研鑽を積み重ねていく――なんてとんでもない。果てなき知識の末に真理を得るものが魔法使いなら、魔女とは――少なくともここアンブローズに存在する魔女の定義とは相手の知識を奪うための戦場を制する、屍の王であった。
幸いにも他人を蹴落とす才能がほんの少しほかの人間よりうまかったおかげで、凄惨な戦いを勝ち上がることができた。
人を殺しすぎてひそかに憧れていたあの髪色より、皮肉にも赤くなってしまった。魔法使いの心臓もたくさん食べたからだろう。榛色の瞳も、いつのまにかアンジェラみたいに真っ赤に染まってしまったのだ。
人を殺すたびに考えた。心臓を食べるたびに考えた。これが真理に近付けるのかと。そうはとても思えなかった。私たちは真理への道を創っているだけなのだと、そうとわかっていても、殺し合いを止めることはできなかった。
「――、……ぁぁ……」
ようやく最後の一人も殺した。これで血にまみれた陰惨な出来事は終わったはずだった。
私はオーガストの前に立つ。
ボロボロだった。それでも私が人間として最後に立っていたのは真理に最も近い魔女だったからだ。
しかしどうして、アンジェラが誇らしげに胸を張って立っているのか。何故、彼女だけが魔女の呪いにかかっていないのか。
そういえば、彼女は血まみれの戦いに参加していなかった。参加していたならきっと、その身体から内臓を引き出してやったのに。
でもそれも、全部おしまい。これでもとに戻れる。そんなはずはなかったのに。私はあまりにひどく疲れていて、魔女たちの記憶も知識もぜんぶその身に宿していたくせに、そう思い込んでいたのだ。
眉目秀麗の彼は形の良い唇でもっとも残酷な言葉を紡いだ。
彼が狂人たらしめる理由――その一端が垣間見えるあまりにも綺麗で無邪気な、三文小説にすらでてこないような、ひどい台詞だった。
「よくできました。さすが私の教え子、では、その心臓をアンジェラに捧げて、真理を僕たちのものにしましょう」
「は?」
気付いたときには、天使の心臓を今までにないほどうまく綺麗に抉っていた。ほぼ反射と言えるだろう。身体に詰め込まれた知識と、彼女たちの記憶のせいで上手く動かなくても、この男の魔術はアンジェラを魔女と認識しなかったおかげで、呪いとか関係なしに、いともたやすく彼女の心臓を奪い取ってくれたのだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛アンジェラ! 私のアンジェラ! どうして! 酷い! 何故こんなことを! アンジェラ! 私のアンジェラああああああああ!」
彼は、すでに生命を失った身体に駆け寄る。私はそんな彼らの悲劇にも構わず、いまだ脈打っている心臓を握りしめて、いつものように食べる――なんてことはせずに、その辺にぽいっと、汚物を屑籠に捨てるのと同じ感覚で心臓を投げた。
「どうしてって……お前、本当にゴミクズだったのだな」
それからのことはあまり覚えていない。きっと激昂したオーガストが私の首を絞めて、アンジェラの心臓を私に無理やり食べさせたのだろう。
おそらくそうだった――っていうのは、アンジェラの心臓がその様子を見ていたから。食べたからには否が応でもそのときの状況は把握してしまう。でも、アンジェラが魔女ではなかったから、取り込んだ際も彼女は不完全で、だからこそ私はおおよそ、でしか分からなかった。
けれど、それが救いにもなったのだ。魔女でなかった魂は最初から崩れ落ちていた。彼はまぁ、最後まで気付くことはなかったけれど。
最後の最後で、私は自分に魔法をかける。これが殺し、殺されたものの末路。魔法使いの成れの果ての――最高の姿。
賢者の石。それを得たものは不老不死になるという。真理への道。扉。
ああ、ようやく――あとほんの少しで。
賢者の石の味は、食べた心臓の味は、人間の血肉でできているくせに。本来だったら動物と同じ、こんがり焼けばきっと良い匂いがすると思うのに。
血の味ばかりで、あまりおいしくなかった気がする――
◇
中身は全く伴っていないにしろ、仮の肉体を創り上げることができたのは、真理へと至る過程の、全くの偶然の産物だった。あのクソ教師が唐突に始めた殺し合いに巻き込まれながらも運よく生き残ることができたのは、この偶然の産物のおかげだったりもする。
魔女同士の殺し合いは壮絶なものだった。心臓を食べるために内蔵をひきずりだす殺し合いはとても見ていられるものではない。
しかも元凶となった当人たち――クソ教師とクソガキは高みの見物なのだから始末におけない。
クソガキは魔女ですらなかった。ただ魅了の才能がほんの少し突出していただけの、魔力もうまく使いこなそうと思っていないただのクソ生意気なクソガキだった。
そんなクソガキにクソ教師が惚れただのなんだのいうものだから、世の中は本当クソの塊でできているのだと思い知らされる。
しかもあのクソガキときたら、俺の顔を見るなり傍に侍るのを許すとかクソみたいなこといいやがって! その頃から俺はわざと顔を髪で隠すようになったのだ。
魔術で少し印象を薄くしたらすぐに俺に興味をなくしたからよかったようなものの、その分興味があの少女に向かってしまったのは、今思うととても悪手だった。それがなければ、彼女はもしかしたら人殺しなんてしなかったかもしれないのに。
クソどものせいで人生を狂わされた少女――彼女はとても可哀そうな人だった。
見てくれだけはとてもいいクソ教師に一目ぼれして、失恋を目の前で突き付けられて、それを自分は一流の魔法使いになるからと自分を叱咤し心を入れ替えて、クソガキどもの妨害にも負けずひたすら研鑽を積み重ねてきた、努力の少女。
魔女としては善良すぎて、けれど普通の人間の世界にはもう戻れない可哀そうな少女。
その少女がクソ教師の思い付きで、無残にも命を散らされるなんて、この世がクソの掃きだめでできたとしても、そんなの許されるはずがなかった。
彼女は人殺しをした。けれど、泣きながら人を殺している人間を眺めながら、悪辣に笑っているクソたちのほうがよほど醜悪で劣悪で、そんな奴らで世の中が回るなんて、俺にはとても受け入れられるはずがなかった。
だが残念ながらこの時代は、どんなに悪人だったとしてもそれを取り締まる人間がいない。権力を持つ善良な人間がいない。
もう少し、この先。何百年何千年後、どんな人間でも悪いことをしたら裁かれる、人間の時代にならないと奴らを裁くことができなかった。
仮の肉体になって唯一良かったことは、ただ人では成し遂げられない、ただの人間であったならば叶うことのない世界を見られる点、それだけにあった。
願わくは少女がもう少し、そんな時代に生まれていればよかったと思うのだけれど。
彼女の願いが一流の魔女になることだとしたら、もう少し後の時代だとどうしてもできなくて。
どちらにしてもこの時代に生まれてしまったからには、出来ることをする。
錬金術師としての本願は少し遠のいてしまうけれど、必ず目標にはたどり着ける。
だから少し寄り道することだって、一人の魔女のなりそこないを人間にすることなんて、何ら問題はないのだ。
◇
「グレーテル、準備できたか?」
「うーん、できたといえば出来た、と思う」
たくさんの物が処分されて、色々なものが部屋からなくなった私たちの部屋。
ここにいる意味はもうなくなった。学園長も逮捕されて蟄居して、あの娘も消えた。この学園魔法都市も、やがて様変わりすることになるだろう。
それから、地下にある大規模な魔方陣も壊された。あのろくでなしは、アンジェラの魂が入っている賢者の石を割って、人造人間の心臓に魔方陣を一々使っては丁寧に仕込んでいた。そうして自分の天使を造りあげようとしては、理想の恋人と少しでも違うとすぐにぽいってそこらへんに棄てていたのだ。
あの人が逮捕された理由は、人造人間を造っては廃棄していたとか、魔女同士の殺し合いを教唆したとか、普通の人間なら逮捕されるようなことではない。いや、それもあるが、魔法使いたちがあんなに苦労して手に入れた真理を壊してしまった、それがこの国の女王の癇に障ってしまったのだ。
この国の女王の権力は強大だ。それこそかつての偉大な魔法使いでも太刀打ちできないほど。それはそれで問題があると思うけれど、まぁ、献上されるべき宝を私欲で砕かれたら誰だって怒るよね? つまり、学園長はこの国で最も尊き人を怒らせてしまった。これから彼のみに起こることなど、想像するだけで身が震える。
ここは大いなる都市ではあるが、広い国の中心地ではない。時代は移り変わり、私が知らない間に遷都というものがされたらしい。通りで、初めて訪れたころよりひと気がないわけだ。
問題となった賢者の石は、外から来た魔法使い――兼役人たちが血眼になって探しているらしいが、未だに出てこない。もちろん、体内に隠しているとかそういうことも含めて徹底的に調べているらしいが、というか私も調べられたのだが、私はいたって善良な魔法使いだってことをノアが証明してくれたので、正真正銘の無罪、お役ごめんということだ。
私は初めて学園都市にきたような恰好をしている。黒いローブではない。国の端っこからきた、何百年何千年と変わらない、村のどこにでもいそうな娘の恰好だ。
何でそんな恰好をしているかだって? そんなこと決まっている。まだ見ぬ世界を、色々なものを体験するためだ!
幸いにもノアもついてきてくれるという。相棒は未だ続いているから、とても嬉しい。
「これから新しい旅がはじまるんだねぇ」
「そうだな、新しい住まいを見つけるでもよし、未だ発見されてない神秘を見つける為に冒険してもよし、未来は無限大にあるな」
「まるで小説の主人公みたい、いいや、私たちが主人公なのか」
ノアは普段より健康的な姿を見せている――痩せこけていた頬はふっくらとして、肌艶もそれとなく良かった。どうやら、長年患っていた肩の荷がようやく下りて、身体の調子がとても良いのだそうだ。
「そういえばノア、きみ、その身体のままでいいの?」
「これでいい、この体のままのほうが、いろいろと気軽だ」
「ふーん」
ノアは私の肩をたたく。そう、彼は冒険について、表には出さないがこんなにも心を躍らせている。
「あ」
彼が叩いたせいで、髪が一房髪紐から零れてしまった。でもまぁ、馬車に乗っている間に直せばいいだろう。
元のくすんだ赤毛を隠すことはない。瞳もあの頃と同じ榛色に戻っていた。
せっかくならノアも、いずれホムンクルスではない、元の身体に戻してあげたいなとも思うけれど。それは新しい住居が見つかってからでもいいか。何せ、すぐ死ぬようなんてことはないのだし。
「それじゃあ、行こうか」
今日はお日柄もなく、お出かけ日和にはこれ以上ないほど絶好の日である。
それに、初めてここを訪れたころとほぼ同じ服装だが、あのときにはない刺繍がワンピースを彩っている。これはノアがわざわざ不器用な手で、てずから縫ってくれたものでもある。
だから、私はこれ以上ないほどの上機嫌でもあった。
鞄をもち、静かに木製の扉を開ける。
扉の向こうは見慣れた階段があるだけなのだけれど、でも。
私の小さくても確かな一歩は、これからの人生へと続いていくのだ!