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八話

〈クロウ:ばんわ〉

〈チョコ:こーんばーんはー〉

〈オリベ:あ、遅かったな。こんばんは〉

 その日の夜。

 夕方とは打って変わって、HGRにはギルドメンバーが勢揃いしていた。

 しかも僕の挨拶を待たずに三者三様の挨拶を飛ばしてきたところを見るに、長いことチャットしていたのだろう。

 なんともタイミングが悪い。最悪に悪い。頭痛が痛い。

〈レナ:こんばんは、です〉

 定型文じみた夜の挨拶だけ返し、天井を見上げる。

 次いで、目頭をつまんでみた。

 痛気持ち良い。これは重症だ。今日は早めに寝た方がいい。

〈オリベ:んで、レナさん。話なんですが〉

 レナさん?

 なんですが?

 衣織らしくはないけれど、オリベらしくはある。絶妙なライン。

〈クロウ:そうそ、ちょうどよかった〉

〈チョコ:レナちーの話をしてたとこなんよ〉

 クロウさんとチョコさんも相変わらずの調子。

 なんだろう。

 何かイベントでも始まったかとスケジュールを思い返してみるが、その必要はなかったらしい。

〈オリベ:ケッコンのこと。ちょい話す時間ある?〉

 天井を見上げる。

 あぁ、目が痛いな。目薬を差したい。

 なんだろ。

 何を言われるんだろ。

 分かっていた。

 分からないはずがなかった。

 衣織は夕方、女の人と歩いていたのだ。しかも今まで見たことも、聞いたこともないくらい楽しげに、慣れた調子で。

 だけど認めたくなくて、指が動かない。画面も、見ていられなかった。

 だというのに。

 ピコン! ――と軽快な音が鳴って、チャットの着信を突き付けられる。

 テルだ。

 僕と相手の二人にしか見えない、詰まるところデリケートな、内緒の話をするためのチャット。

 恐る恐る、画面に目をやる。

〈オリベ:すまん、まずかったか?〉

 なんてことはない、いつも通りのオリベだ。

「…………」

 キーボードに置いた指が、動かない。

 どうしたらいいんだろう。

 何を言えばいいんだろう。

 どうもしたくないし、何も言いたくなかった。

 ただ、いつも通りでいられたらよかった。いつも通りでいたかった。

 きっと、それももう叶わない。

〈レナ:ごめん、ちょっと目を離してた〉

 テルではなく、ギルドチャットの方に返信して、それでもなお指は彷徨った。

 構うものか。

〈レナ:ごめん。大丈夫だよ〉

 それだけテルで返し、返事を待つ。

 チャットは、すぐに返された。

〈オリベ:んじゃあ本題に入るんだけど、〉

 どんと来い。

 大丈夫、心の準備は――

〈オリベ:ケッコンシキ、いつにする?〉

「は?」

 画面を見る。

 天井を見る。

 画面を見る。

「はい?」

 なんとも間抜けな声が聞こえた。

 豊のそれよりずっと間抜けな、僕自身の声である。

〈レナ:?〉

 打てたチャットは、たったそれだけ。

〈オリベ:すまん。ケッコンシキが事前予約制だと知らず〉

〈レナ:?〉

〈オリベ:いやー、どうせ過疎ゲーなんだしシキくらいいつでもできるやろーと〉

〈チョコ:んなわけあらへんやろ。馬鹿デカいインスタンス使うねんぞ〉

〈クロウ:エセ関西弁とかわて怒るで〉

〈レナ:?〉

〈オリベ:マジですまん〉

〈クロウ:え、まさかレナって関西人? だったらごめん、マジごめん〉

〈チョコ:どーげーざ。どーげーざ〉

〈クロウ:お前が主犯やろがい〉

〈オリベ:やろがい〉

 ごめん。

 ソッコーで脱線しないで。

 ツッコミが追い付かないし、あと……え? シキをいつにするか?

 それって、つまり――。

「するの? ケッコン?」

 心の声を堪えきれず、口から外に出してしまう。

 さっと顔が熱くなった。

 え、なんで?

 だって衣織には……いや、そうだ、違う。

「そっか、そうだった」

 勝手にヘコみ、勝手に盛り上がり、現実を思い出す。

 そもそも衣織は、恋愛感情があってケッコンを言い出したわけじゃない。ケッコンイベントで手に入るタキシードが欲しいだけ。つまりケッコンの意味など度外視しているわけで、なんならネトゲのそれを浮気と捉えるかどうかも人それぞれだ。

 ……にしても、浮気か。

 その土俵にすら立てていない僕が、何を言っているんだろう。

〈オリベ:レナ?〉

〈レナ:ごめん。ちょっと頭の理解が追い付かず〉

〈レナ:ついでにタイピングも追い付かず〉

〈チョコ:反省しろよ!〉

〈オリベ:してるしてるしてるって〉

〈チョコ:いや露骨にしてねえじゃん〉

〈オリベ:いやマジ。超マジ。マジで反省? してるしてるー〉

〈クロウ:そういうとこだぞ〉

〈チョコ:あ、ネタか。オリベが壊れたのかと〉

 僕の方が壊れてしまいたい。

 いや、なんでもない。

〈クロウ:チョコって時々素が出るよな〉

〈オリベ:リアルは真面目なサラリーマンだったりするんじゃないかと思ってる〉

〈チョコ:OL! OLだから!〉

〈クロウ:あぁうん、そうだな、そうだったな〉

〈オリベ:JKとは言わないところに本気を感じて、俺も自重せざるを得ないと思った〉

〈チョコ:ならしろ。自嘲しろ〉

〈オリベ:え、俺が自嘲するの?〉

〈チョコ:ただの誤変換じゃん!?〉

 なんていうか、あれだ。

 笑っちゃうくらい、いつも通りだ。

 僕が一人で空回りしていたみたい。

「みたいっていうか、そのまんまか」

 オリベでもチョコさんでもなく、画面の前の僕が自嘲していた。

 チャットを再び切り替えて、オリベにだけテルを飛ばす。

〈レナ:僕はバイトしてませんから。オリベに任せますよ〉

〈オリベ:了解〉

 オリベは短く答え、またすぐにギルドチャットに戻った。

〈オリベ:ジューンブライドセールだから、六月中なのは確定な〉

〈レナ:まぁそうだよね〉

〈オリベ:で、さっきチョコから聞いたんだけど〉

〈オリベ:どうもシキの準備クエストが結構長いらしい〉

〈オリベ:だから週末がいいかなと〉

〈レナ:了解。予定が入ったら言えばいいのね?〉

〈オリベ:そういうこと。こっちも早めに予定決めて伝えるから〉

〈レナ:じゃあ全体的にお任せしちゃうってことで〉

〈オリベ:よろしくなー〉

〈レナ:こちらこそー〉

 この間、オリベは並行してクロウさん、チョコさんと一緒に騒いでいたのだけど、僕にはそっちまで気にする余裕がなかった。

 ログがややこしいことになっていて、多分読み返しても意味は分からないのだろう。

 ただまぁ、そんなのはいつものことだ。

 何もかも――、驚いてしまうほどに、いつも通り。

〈クロウ:そんじゃー、お二人さん。この後のご予定は?〉

〈オリベ:闘技場。レナがよければ、だけど〉

〈チョコ:多分聞かれてない残りの一人だと思うけど、レイドの先約が〉

〈レナ:大丈夫だよー〉

 そう、大丈夫。

 僕もいつも通り、レナという『私』を演じればいいだけ。

〈クロウ:なんだ、残念〉

〈オリベ:悪いな、そのうち時間作る〉

〈クロウ:なぁ、オリベ〉

〈オリベ:やめろよ、気持ち悪い〉

〈クロウ:んじゃやめる。でもまー、ありがとな〉

 なんだったんだろう。

 ログを読み返してみても、やっぱり意味は理解できなくて。

 わざわざ聞ける雰囲気でもなく、『私』はオリベに誘われるがままパーティーを組んで、闘技場に向かった。

 そして、惨敗する。

 初歩も初歩、凡ミスという凡ミスを繰り返した末に。



『出会えてよかったと、それは心底思ってる』

 衣織が言う。

 顔のない女性に、霧に包まれた顔で。

 僕には見ることの叶わなかった、その顔。

 綺麗だったんだろうか。

 可愛かったんだろうか。

 あるいは、格好いい人だったのか。

 衣織は、きっと笑っていただろう。

 それは満面の笑みだったか?

 それとも微笑む程度だったか?

 時々見せる、困ったような笑い方だったかもしれない。

 何もかもが曖昧だった。

 そんな中にあって明瞭な僕は、だから部外者。

 これが夢だってことくらい、とっくに分かっていた。

 だとしても――いや、だからこそ、目覚めたくなかった。

 そして夢というやつは、起きなければいけない時ほど囚えて離さず、まだ見ていたいと思う時ほど突き放してくるものだ。

 なんとも単純、なんとも明快、気付けば朝だった。

 窓の向こうから、チュンチュンと鳥の鳴く声が聞こえてくる。

 家の中は静かだ。

 慌ただしい気配もないとなれば、今日は雨じゃないのか。

 嬉しいような、悲しいようなだ。

 晴れていれば少しは気分も良くなるだろうけど、いっそ雨で閉ざされていた方が思い切り沈み込めてよかったかもしれない。

 まぁ要するに、天気なんて気にするだけ無駄というわけだ。

 布団から抜け出し、壁掛け時計に目をやる。まだ六時だった。

 家が静かだった理由は天気じゃないらしい。

 しかし睡眠時間はいつもより短いはずなのに、目は冴えている。二度寝はできそうにないし、する気にもなれなかった。

 いつも通り制服に着替え、部屋を出る。

 まだ寝ている夏乃を起こさないように足音を殺して廊下を歩いた、はずだったのに。

「あれ、早起きだね。おはよ」

 リビングで僕を出迎えたのは、その夏乃だった。

「早起きだねって……。それは僕の台詞なんだけど?」

「いやいや、お互い様でしょ」

 そりゃそうだけども。

 ていうか、確かに六時だったよね? 不安になって時計を見るも、見間違いではない。まだ六時だ。正確には六時十七分。

 普段なら僕も夏乃も寝ていて、父さんと母さんが朝の支度をしている頃だ。

 その父さんは昨日から少し早く家を出るようになって、代わりに母さんはまだ寝ている。

 だから今の時間帯は誰もいないと思っていたんだけど、どうしたんだろう。少なくとも中学は今から行っても開いていないはずだ。朝練のある運動部員だって登校するには早すぎる。

 けれど夏乃は制服姿で、しかも朝食まで済ませたらしい。

 テーブルに付いた夏乃の前には、パンくずが落ちただけの空の皿があった。

「もう学校行くの?」

 必然、それは僕からすればなんてことはない、当たり前の疑問のはずだった。

「レイ君、やっぱり何かあった?」

 質問に質問で返され、だから首を傾げてしまう。

「えっ?」

「『え?』じゃなくて。昨日、何かあったんでしょ?」

「えっと……どうして?」

 どうしてそんなことを聞くの?

 どうして急にそんな話になったの?

 どちらの意味でもあった。

 ただ、それはあくまで僕から見た疑問。夏乃からすれば、全てが自明だったのだろう。

「だってこれ、昨日も話したし」

 気に障った様子もなく、さらりと言い捨てられる。

「レイ君、ずっと上の空だったんだよ? 何言っても頷いてるんだか頷いてないんだか分かんない返事しかしないし、何かあったのーって聞いてみても何もないの一点張りだし。ほんとに何も聞いてなかったんだね」

 相変わらず、なんでもないように言ってくれる。

 なのに僕は全然、本当にこれっぽっちも覚えてなくて、

「ごめん」

 と呟くことしかできなかった。

 僕は昨日、どんなことを聞いたんだろう。夏乃はどんなことを話したんだろう。

 思い返してみても、HGRにログインして三人から夜の挨拶を受けたところまでしか辿れない。

 雨の日に時間がなくて大騒ぎするくらい、夏乃は早起きが苦手だし嫌いだ。

 そんな夏乃が早起きするような理由とは、一体なんだろう?

「それで、何があったの?」

 僕が聞きたいことではあったけど、これとてお互い様か。

「……大したことじゃ、ないんだよ」

「大したことじゃなきゃ、レイ君が私の話を聞かないなんてことありません」

 僕は夏乃のなんだっていうのか。

 まるで夜寝る前に読み聞かせてもらう絵本を楽しみにする子供みたいな言われようだ。

 けれども、まぁ、なんだ。

 聞いてもらえるなら――夏乃が聞いてくれるなら、話してしまっていいとも思えた。

 話してしまえるなら、話してしまいたいと。

 夢にまで見た、昨日の一幕。

 彼と彼女の、前後の繋がりも曖昧な会話。

 一人で抱え込んでおくには、それでも少し大きすぎた。

「……昨日さ、出掛けた時。衣織が女の人と話してるの、聞いちゃったんだよね」

 ぽつりと零した声が、続く言葉を連れ出していく。

 そして僕は、昨日の全てを夏乃に話した。



「ねぇ、レイ君」

 全てを黙って聞いていた夏乃が、束の間の沈黙を破って言った。

「それ、どこをどう聞いてもレイ君の考えすぎだから」

「いやいや、だって衣織は昨日バイトって言ってたんだよ?」

「だから? バイト先にだって女の人くらいいるだろうし、買い出しに行くことだってあるでしょ?」

 半ば呆れた声で言われるも、釈然としない。

 僕は伝え方を間違えただろうか。

 たかがバイト先の先輩ってだけで、衣織があそこまで親しくするとは思えない。この三年で丸くなったにせよ、元々は初対面の相手を『裸眼』と切り捨てた男だ。

「昨日今日知り合ったって感じじゃなかったし……」

「じゃあ元々知り合いなのかもしれないじゃん。レイ君だってオリ先輩のこと、なんでも知ってるってわけじゃないじゃん?」

「そりゃまぁ、そうだけど……」

 家の事情は知らない。

 出会うより前のことは、ほとんど何も知らなかった。

 だから、もし昔馴染みで、たまたま最近再会したんだとしたら、僕が知らなくても不思議はない。

「……だけどさ」

「分かるよ。レイ君の言いたいこと。……えっと、ナギサさんだっけ?」

「ん、そ。漢字は流石に、分かんないけど」

 ナギサと衣織は呼び捨てにしていた。

 けれど、かなりの長身だ。夏乃も中学生にしては長身だけど、同時に一番背が伸びる時期でもある。ここから二年経っても、あの女の人ほどの背丈になるとは思えない。

 年上、だと思う。

 ただ夏乃よりも長身の女の子だっているわけで、それこそ僕たちの同級生にも衣織と同じくらいの背丈の女子がいてもおかしくない。

 でも、なんだろう。

 背丈が一番の理由だけど、もっと言葉にできない何かが、あの人は年上だと感じさせていた。

 あの乱暴な、気を遣わない喋り方が原因かもしれない。年下相手だから遠慮がない、とか。

 頭を振る。

 どれだけ考えたって、結論なんか出せない。

「レイ君はさ、オリ先輩に嘘をつかれるのが嫌なんだよね?」

 それもある。

 大いにある。

「レイ君にバイトだって言って、でも本当はデートしてましたってのが嫌なんだよね?」

 何一つ言い返せない。

 いや、言い返す必要なんてないんだけど。

「でもさ、レイ君。オリ先輩には嘘なんかつく理由ないよね?」

 分かっている。

 夏乃に言われるまでもなく、分かっているのに。

「彼女とのデートなら、まぁデートだって直接は言わなくても、わざわざバイトなんて嘘つく必要ないじゃん。レイ君の知らない昔の知り合いと会うにしたってさ、バイトなんて言ったら後の方が面倒なわけで……」

 じとっとした目を向けられ、咄嗟に視線を外す。

 今がまさにそうだと言いたいんだろう。

 本当にバイトだったとして、いや本当にバイトなんだろうけど、もしそれが嘘だったら? 何か他の、知られたくないことを隠すための言い訳だったら?

 そして、それが僕にバレたら?

 面倒臭いことになるんだろうな、と他人事のように思ってしまう。

「でも」

 そう口を衝いて出た言葉が何よりの証だ。

 そういうとこだぞー、と夏乃が視線だけで訴えてくる。

「……でも」

 だから余計に意固地になって、浮かんだ言葉を口にする。

「『出会えてよかった』なんて、そんな軽い感じで言うと思う?」

「思う」

 即答だった。

「だって、オリ先輩だよ?」

「そうだよ、衣織だよ? 本当に大切なことは言わない人だよ。心の底じゃ何を考えてるのか分からない、そのくせ隠してることを隠そうとしない男だよ。なのに――」

 それなのに、あの女の人には誤解しようのない直球で告げていた。

 まさか軽い気持ちの、文字通りの軽口だとでも?

「レイ君」

「……なんだよ」

「あのオリ先輩だよ? 悪ノリする時はとことんバカみたいに悪ノリするオリ先輩だよ?」

「いやっ……まぁ、そうなんだけど」

 クロウさんや豊との会話を思い出す。

 あの、と前置きまでされる悪ノリ癖を否定はできない。

「ちゃんと話したんならまだしも、偶然聞こえちゃっただけで彼女さんだって決め付けるのはレイ君の考えすぎだと思う」

 別に決め付けたわけじゃないけど。

 そもそも、嘘とか隠し事が嫌だと言える立場でもない。

 所詮ただの同級生。同じ中学の出身で、同じ趣味の仲間というだけ。

「彼女だったら彼女だったで、祝福くらいできるし」

「いやだから、彼女さんじゃないって」

「なんでそう言い切れるの?」

「急に拗ねないでよ。二つ下の妹相手に拗ねた顔しないでよ」

 してない。

「してるよ」

 心の声に答えないでほしい。

 というか、そんなに分かりやすいか、僕の顔は。

「心配になる気持ちは分かるよ? 好きなんだもんね。好きだったんだもんね」

 夏乃がパンパンと手を払って、僕の頭に手を伸ばす。

 これじゃあどちらが年上か分かったものじゃない。

 けれども振り払うほどの気力もなくて、頭というか前髪をよしよしと撫でられる。

「レイ君はさ、考えすぎなんだよ」

「悪かったね」

「ううん、悪くないよ? ちゃんと考えることは、良いことだと思う」

 中学三年生が知ったようなことを言う。

「だけど時々、考えすぎちゃうから。考えても仕方のないことを考えちゃうから。それは自覚してください」

「……はい」

 にんまり夏乃が笑って、立ち上がる。

 背丈はとうに逆転されていて、僕の方が上目遣いにならざるを得ない。

「だから、答えの出ないことで悩んだ時は、お姉ちゃんに相談するように」

「僕がお兄ちゃんなんだけど?」

「こと恋愛に関しては私の方が先輩です」

 ふふん、と鼻を鳴らされても困る。

 漫画と小説と深夜ドラマの知識でドヤ顔されましても。

 しかしまぁ、なんだ。

 いつの間にか、心は少し軽くなっていた。

 今なら布団に入ってすぐにでも寝られそうだけど、悲しいかな制服に着替えてしまった後だ。流石にもう一度着替え、更にまた後で着替えるのは億劫だから、二度寝もできない。

 諦めよう。

 夏乃の言葉を借りるなら、答えの出ないことを考えすぎてしまったツケだ。

 欠伸を噛み殺し、そこでふと我に返る。

 僕は不運な早起きだけど、夏乃は昨日から早起きすると決めていたような口振りだった。なのに余計な時間を使わせてしまった。

「えっと、ごめん。夏乃はこれから学校?」

「まぁ半分は」

「半分?」

 そのまま考えれば、登校前に寄り道するといったところか。

 しかし、この早朝だ。母さんが許すとも思えない。

「昨日も言ったけど、私たちのクラスに転校生がやってきたんですよ」

「転校生?」

 この時期に?

 三年の、しかも五月だ。

 まぁ事情があるなら仕方ないにせよ、珍しいとは思う。ていうか、転校生か。冷静に考えると、それだけで珍しい。

「それで、……え? 転校生が来ると夏乃が早起きするの?」

「そんな桶屋理論みたいに言われましても」

「桶屋理論?」

「ごめん、いいや」

 なんだか今、妹に呆れられた気がするんだけど。

 とはいえ意味を聞ける雰囲気でもなく、代わりの質問でお茶を濁すことしかできなかった。

「じゃあ、どうして早起き?」

 それが失敗だったと、後になれば分かる。

 けれど、時既に遅しというやつだ。

「リースきゅんの」

「あ、ごめん、やっぱいいや」

 咄嗟の言葉も虚しく、夏乃は膨らみかけの胸の前で力強く拳を握る。

「リナちゃん、鞄にリースきゅんの缶バッチ付けてたんだよ!」

 聞いた僕が馬鹿でした。

 犬や猫と違って、人間には手を使わずに耳を畳むことが叶わない。

「私は確信したね! リナちゃんは絶対に同志だって!」

 それからしっかり十五分、僕は彼女の熱弁を聞かされることとなる。

 自業自得、あるいは必要経費と割り切るべきか。

 ただ、それにしても……なんといいますか。

「第一部ではベルリーだったんだよ! やれやれ系主人公のリースきゅんを世話焼き男子のベルティが何かと連れ出してお祭り騒ぎするのが第一部の定番なんだよ! それが第三部では逆転して、闇落ちしかけたベルティを成長したリースきゅんが……いえリースさんが引っ張り出すの! 第一部とは逆のリーベルが第三部にはあるの!」

 さっきまでの僕も、夏乃から見たらこんな感じだったんだろうか。

 それは考えすぎだと思うな。

 作者は多分、そこまで考えてないから。

 言おうと思ったけど、やめた。それは無粋、野暮というものだろう。

 でも、これだけは言っておきたい。

「缶バッチくらい、そっちの層じゃなくても付けてると思うけどね」

 カプだかなんだか知らないけど、なんでも結び付けるのは彼女たちの悪い癖だ。

 勝手に空回りしてハイテンションに絡んでいくのは、お兄ちゃんは感心しないな。

「大丈夫」

 その自信はどこから出てくるのやら。

「だってあの缶バッチ、自作だったから」

「……はい?」

「そもそも知名度もなくてグッズ化されるわけないんだから」

 さて、朝ご飯の支度をしよう。

 普段は僕が起きる頃に母さんが作ってくれるけど、父さんが朝の支度を自分でやるようになって、母さんの目覚めは遅くなった。

 まだ中学生の夏乃はともかく、高校生の僕は朝ご飯くらい自分で作れなくちゃ困る。

「今朝の約束は取り付けてあるの。だからあとは、リーベル派かベルリー派か確かめるだけなの!」

 妹よ、目玉焼きには醤油をかけるものだよ。

 ソースでも塩胡椒でも、なんならオーロラソースでも自由だけど、多数派は醤油である。

 それを忘れて横からタバスコをかけるような真似はしてはいけない。

 その先に待っているのは、不毛な戦争でしかないのだから。

「それじゃあ私、行ってくるね!」

「あぁうん、くれぐれも落ち着い――」

「レイ君も頑張ってね! お姉ちゃん応援してるから!」

 妹よ、人の話は聞くものだよ。

 まぁいいか。

 今日学校から帰ってきたら、骨くらいは拾ってやろう。

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