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七話

「あれ、今日も一人か……」

 放課後、家に帰って着替えやら何やらを済ませ。

 粗方やることもなくなり、午後の五時を回った頃にログインしたHGRには、しかし僕一人しかいなかった。

 といっても当然、MMORPGなのだから他のプレイヤーが全くいないわけではない。

 単に三羽烏……僕が所属するギルドのメンバーが誰もいなかっただけだ。

 それでも、珍しいことに変わりはない。

 三羽烏の活動時間帯は大抵が午後の七時から十時ほどと、ネトゲにしては浅めだった。夜遅くまでネトゲに没頭できない、ということは必然、もっと浅い時間帯のログインが増える。

 学校から帰ってすぐにログインしたにもかかわらず、レイドダンジョンに潜っているチョコさんを見つけて「この人の職業はなんなのだろう?」と首を傾げたことは一度や二度じゃない。

 まぁ、そこは詮索しないのがネトゲ……特にMMORPGの不文律だ。

 学生だろうと主婦や主夫だろうと、あるいは無職だとしても、ゲームの腕と最低限のコミュニケーション能力さえあれば関係ない。

 それに僕だって、HGRの世界では『僕』ではなく『私』。

 高校生の清水怜乃ではなく、破戒僧のレナなのだ。

 衣織はオリベだし、クロウさんとチョコさんもリアルで鳥やお菓子なはずはない。

 だから気にはしないけど……、

「こういう日ってみんな揃ってインしないんだよなぁ」

 時々、こうして示し合わせたかのごとく人が揃わないことがある。

 今日、衣織はバイトだという。昨日始めて今日も出勤とは精が出るが、この調子でこれから先HGRにログインする時間は取れるのだろうか。

 兎にも角にも衣織がログインしないのは知っていたわけで、だから闘技場は諦めてクロウさんかチョコさんとどこか行けたらいいな、と特にプランもなくログインした次第である。

 しかし、二人もいない。

 クロウさんはマイペースだし、チョコさんはレイド勢だし、ログインしていても一緒にプレイするとは限らないんだけど。

 でも同じギルドに所属するメンバー同士、オリベがいなくても互いに誘うことはよくあることだ。それを当てにしてログインし、見事に空振ってしまった。

 二日連続で一人の闘技場に潜る気にはなれず、ポチポチとメニューを操作して遠征に出発。

 遠征といえば、その響きでなんとなく察する人もいるんじゃなかろうか。

 スマホゲームなんかに多い、一度出発させたら数十分から数時間は操作しなくても勝手に探索を進めてくれる便利なシステムだ。

 ただしHGRはスマホゲームではなくMMORPG。

 ダンジョンを全自動でクリアしてくれるシステムなんて導入されるはずもなく、この遠征も経験値に関しては僅かたりとも得られない。代わりに経験値ボーナスというポイントが手に入り、これを消費することで普段のダンジョン攻略で得られる経験値が増加する。

 経験値は、言わずもがなレベルの上昇に必要なポイントだ。

 またレベルが上限に到達し、経験値を得られなくなった状態だとスキルポイントが入手でき、こちらはその名の通り、スキルを獲得するために使う。

 スキルの獲得上限はレベルによって決まるため、スキルポイントを稼いだ分だけスキルを獲得できる……とはならないけど、獲得したスキルを全てリセットして一から振り直すには膨大なポイントが必要になる。

 HGRにおける遠征とは、むしろレベルがカンストした後にこそ役立つシステムだった。

 最長六時間単位で回せるため、帰還は二十三時過ぎ。今日のHGRは寝る前にもう一度ログインして帰還を見届け、また出発させるだけでいいだろう。

 やることは済んだ。

 普段より気持ちゆっくり操作するも、やはり誰もログインしてこない。

 諦めてログアウトして、画面の前で一人、小さく伸びをする。

 退屈だ。

 別にやることがないわけじゃない。

 もう高二なんだから受験勉強を始めるのに早すぎるということはないし、ネトゲの常として、HGRも暇潰しになるコンテンツくらい探そうと思えばいくらでも見つかる。

 ただまぁ、なんというか。

 やることはあっても、やりたいことがない。

 小腹が空いて、なんとなくサンドイッチが食べたい気分になって、コンビニに行って、でも好きなサンドイッチが売り切れていた、みたいな気分。小腹は依然、空いている。けれど他の何かを買って食べる気にはなれない。

 中の人である衣織がバイトなんだから、オリベがいないのは分かっていたはずだ。

 クロウさんやチョコさんがちょうどよくログインしていて、暇潰しに付き合ってくれるとも限らなかった。

 なのに漠然と、いたらいいなと思ってしまう。

 依存と言えば依存だけど、何一つ依存しない友人関係、フレンド関係があるとも思えない。

 結局のところ、タイミングが悪かった。

 こういう日は得てして、ずっとタイミングが悪いままだ。

 夏乃がいれば夕方の情報番組なりドラマの再放送なりを見ながら無駄話に興じることもできたが、今日はまだ帰っていないらしい。かといって一人で見ていて楽しい番組でもないし、さてどうするか。

 勉強机には似合わない、安めのゲーミングチェア。

 どちらかといえばデスクチェアと呼んだ方がしっくり来るそれに体重を預け、ぼんやりと天井を見上げる。

 いっそ、出掛けようか。

 時々忘れるけど、僕はもう高校生だ。

 子供だけで電車に乗ってはいけませんと言われる小学生ではなく、放課後は遠出しないようにと言われる中学生でもない。学校帰りにそのままカラオケに行くような生徒も珍しくないし、一度家に帰って着替えたなら尚更、なんの問題もない歳だった。

 しかし、僕とて伊達に灰色の中学一年生だったわけじゃない。

 二年になってからは衣織に誘われて出掛けることも増えたし、時には僕から誘うこともあったけれど、根本的に出不精なのである。

 そもそも衣織が相手だったから喜んで出掛けていっただけで、一人なら休みの日だってわざわざ出掛けようとは思わない。なんなら豊の誘いは何度となく断り続けてきた。夏乃の頼みなら、そりゃあ断る理由はないけど。

 とはいえ、夏乃は僕が外出嫌いなことを知っている。

 気を遣ってくれることが多かったお陰で、僕の出不精は治らないままだ。

 でも、出掛けよう。

 こういうタイミングの悪い日は、何か普段と違うことをした方がいい。

 経験則ですらない、突然の思い付きだ。

 それに、このまま家にいて何ができるだろう。

 攻略サイトや有志が投稿している動画に齧りついて、闘技場の戦略でも考えてみるとか?

 いや、それだと暗中模索にしかならない。何もしないよりはマシにも思えるけど、下手の考え休むに似たりとも言う。闇雲に考えても泥沼にハマっていくだけで、却って良くない。

 やっぱり出掛けよう。

 夏乃の言葉じゃないけど、いつまでも変わらずにいられるわけじゃない。

 今のままでいい部分と、今のままじゃいけない部分。

 出不精を悪いこととは思わないけど、衣織がバイトを始めたなら僕が放課後に一人になることも増える。その度に退屈するくらいなら、放課後に遊びに出掛けるのを趣味にするとか、いっそ僕もバイトを探すとか、そういう建設的なことをした方がいい。

 善は急げ、思い立ったが吉日だ。

 着たばかりの部屋着を脱いで、少しは外出向きのラフな服装に着替える。

 熱中症予防のつば付きキャップは夏乃に子供っぽいと笑われるけど、暑さにやられるよりはいい。

 そうだ、新しい帽子を探す旅に出よう。

 長くても二時間ほどの、短い旅。それでも目的があると分かりやすい。

 服装よし、財布よし、寝癖とか諸々は学校帰りなんだから当然よし。

 念入りに確認して玄関に向かい、そして僕は、今日という日のタイミングの悪さを思い知らされる。

「ただいまー。……って、うわ、レイ君が出掛ける気満々だ! 珍しい!」

 ちょうど帰ってきた夏乃と鉢合わせ、いきなりの剛速球を土手っ腹に貰う。

 心が痛い。多分きっと恐らく致命傷。もう出掛けたくない。出掛けられない。

「ってごめん、いいよ、似合ってるよ、カッコいいよ、可愛いよ!」

「全っ然、心が籠もってない。やっぱやめる」

「大丈夫! いやうん、そのキャップは相変わらず高校生らしからぬ幼さだけど、レイ君ならいけるって! むしろ需要あるって!」

「心が籠もりすぎててやだ。やっぱやめる」

「面倒臭いなぁ。知ってたけど。知ってたけどレイ君、面倒臭い」

「まぁうん、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。帰りは明日の朝?」

「夕飯までには帰りますー」

 この子、本当に女子中学生の自覚あるんだろうか。

 僕が気付いていないだけで、きっとメイクなんかにも手を出しているんだろう。早いと思うな。お兄ちゃん、まだ君には早いと思う。

 妹とは気付かぬうちに成長する生き物だ。

「あ。ていうか、夏乃も一緒に行く?」

「残念でした、今日は勉強の日です」

 真面目だ。そういうところは真面目だから、心配しなくて済むんだけど。

 でももう少し、僕に心配させてくれてもいいんじゃないだろうか。

 心配したいけどしたくない、けどやっぱりしたい。

 これが親心というものだ。親じゃなくて兄だけど。

「ん。じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃ~い」

 すれ違った夏乃に手を振り返し、その手で玄関のドアを閉める。

 さて、タイミングの悪い日よ。

 タイミングが悪いのは、もう諦めた。だから――。

「せめて楽しくあってくれよ」

 誰に言うでもなく独りごち、つばを下げる。

 それは十六年余りの人生で身に付いた癖。

 衣織が眼鏡を、親指と人差し指ではなく、親指と薬指で直すアレに似ている。

 そう思えば、どうしてだろう、この高校生らしからぬ幼さらしいキャップも悪くない気がしてきた。



 そうは言っても、帽子の専門店なんて洒落たものがあるはずもなく。

 キャップを探すとなればスポーツ用品店に行くか、アウトレットモールまで足を伸ばすしかなかった。

 流石にモールまで行く時間はないし、懐事情も芳しくない。

 必然、ほんの数十分前に降りた駅に向かって、来た道を戻ることになる。

 通学定期を通学以外で使う時のなんとも言えないスリルを味わいながら、また電車に揺られること十数分。

 降車するのは、ここらで一番大きな駅だ。

 近隣の中高生がこぞって週末に待ち合わせる駅であり、あの純喫茶も歩いて数分のところにある。

 駅前は大きな交差点になっていて、駅舎を出てすぐに三つの大通りが見渡せた。

 大通りはそれぞれが全く別の街かのように違う顔色を見せる。

 向かって左に行けば、若者……というか中高生に人気のエリア。

 ハンバーガーや牛丼など安い美味い入りやすいの三拍子揃ったチェーン店が何軒か並び、路地にはジャンク屋まである。少し歩くと映画館もあるから、駅前で待ち合わせた中高生の行き先は大抵この通りだ。

 真ん中の通りは、対照的な落ち着いたエリア。

 他に比べ個人営業の店が多く、途中のちょっとした広場では地元出身のアーティストが演奏やら何やらをしていることも珍しくない。総じて中高生には足を踏み入れにくい通りだけど、純喫茶はここにある。

 そして最後、右手の通りが僕の向かう先だ。

 良くも悪くも古い街並みを残した地区で、飲食店より銀行などのお堅い建物が多い。他の通りが遊びに出掛ける場所だとすれば、こちらは仕事やら何やら、明確な目的があって向かう場所だった。

 今の僕もそうだ。

 スポーツ用品店という目的があって、右の通りに足を伸ばす。

 平日の夕方だからか、珍しく人通りが多い。普段、というか休みの日に駅前から見ると閑散としていて、余計に他の通りとの雰囲気の違いが目立って見えたけど、単に休みの日に休んでいただけか。

 まぁ、そりゃそうだ。

 でなければとっくに再開発されている。事実、他の通りは僕が小さい頃と今とでは全然違う街になっているらしく、「昔ここに来て遊んだんだよ」と父さんに言われても全然ピンとこなかった。

 十年一昔と人は言う。

 十年前といえば僕がようやく小学校に上がった頃で、そういえばスマホが出始めたのもそれくらいだったか。

 携帯電話……所謂ガラケーが画期的だった時代など想像もできない。

 いつでもどこでも電話ができると言っても、いつでもどこでも電話に出てよかったわけじゃないだろう。

 そういう時にはメールを送り合っていたんだろうけれど、メールはメールで不便だ。なにせ会話の流れを見返そうとしたら、一々下書き保存しなくちゃいけない。

 十年前なんて、一昔どころじゃない気がする。

 この通りも、この街も、きっと十年どころか五年、いや三年もすれば変わっているはずだ。

 三年後の僕は、一体どうしているのだろう。

 順調にいけば大学の二年生だ。流石に衣織と同じ学校に進むことはない、と思う。いくら僕でも大学をそんな理由では選ばない、はずだ。

 そもそも衣織は進路を決めたんだろうか。

 なんとなく進学、それもそこそこ上の大学を目指しているものと思い込んでいたけど、そういう話は全然してこなかった。

 家庭事情のこともある。

 もしかして、バイトも遊ぶ金欲しさとか社会勉強じゃなくて、純粋にお金に困っているとか?

 下世話も下世話の、勘繰るのも気分が良くない話だ。

 頭を振って、意識を切り替える。

 と、その時ちょうど目に留まるものがあった。

「……アトリエ?」

 それだけ書かれた、小さな立て看板。

 こんなところにアトリエなんかあっただろうか。記憶にない。というか、ここは確か違う店があったはずだ。

「……あれ? なんの店だっけ?」

 確かあれがあったはず、とは思うものの、肝心の『あれ』の中身が出てこない。

 飲食店……ではなかったはずだけど、それさえ不確かだ。

 考えれば考えるほど分からなくなって、もう一度頭を振る。

 なんの店だっていい。覚えてもいない店が潰れて、よく分からない店……というかアトリエができた。それだけのこと。そう、それだけの――え?

 一瞬、時間が止まった。

 全身の血が動きを止めて、直後に凄まじい勢いで流れ出す。

 アトリエと書かれた、アトリエとしか書かれていない立て看板に寄って、視線を下げる。我知らず伸ばした手が、キャップのつばも下げていた。

 どくどくと流れ続ける血流の音の向こうで、足音が二つ、こちらに近付いてくる。

「そういうとこ、ほんと全然変わってないな」

 知っている声。

 忘れるはずのない声。

「別にいいだろ、どうせアタシにゃお前がいるんだ」

 知らない声。

 聞き覚えすらない声。

「あのなぁ……。いや、確かにそうなんだが。それってどうなんだ」

「つうか、お前に言われたくねえわ。アタシがいなきゃどうしたんだ」

「どうもしねえよ。平凡で平和な日常を送り続けましたとも」

「いいや無理だね、絶対に無理だ。お前には――」

 言ってほしくなかった。

 呼んでほしくなかった。

 あまりに唐突で、なんの前触れもなく、こんなところで。

「なぁ、衣織。お前にだけは、絶対に無理ってもんだ」

 全てを――、何もかもを知り尽くしているかのように、その声は言い捨てた。

 綺麗な声だった。

 乱暴な口振りとは裏腹の、透き通った声。

「お前にゃ無理だよ、無理だ無理」

 それは勿論、女の人のもので。

 そして答える声は、好き放題言われている割には楽しげで、優しくて。

「んな何度も言うなって」

 まるで、そうするのが当たり前かのように、彼は笑った。

「別に、渚のこと否定してるわけじゃないんだ。出会えてよかったと、それは心底思ってる」

「あぁ知ってるとも。その上で……っと」

「ん?」

 足音の間隔が伸び、止まる気配を感じさせる。

 お願いだから、今だけは――。

 今だけは顔を、合わせたくない。

 願いは、通じたのだろうか?

「んにゃ、行こう」

「そうかい? ――まぁ、それでもいいか」

「なんだ、歯切れが悪いな」

「いやなに、こっちの話だ」

 二人は何事か話しながら、僕の後ろを通り過ぎていった。

 耳に届く声は、脳まで結ぶ言葉にはならない。

 ただ、ただただ漠然と、二人が楽しそうに話していることだけが脳の奥に、心の底に沈んでいく。

「……」

 帰ろう、かな。

 ほんとに、どうしようもなくタイミングが悪い日だ。

 いっそ来なければ、聞かなければ、知らなければよかったのに。

 涙は、けれども零さない。

 立て看板から顔を上げる。

「あのー……」

 知らない人の顔が、そこにあった。

「えっ?」

「えっ?」

 思わず声を出してしまって、それからちゃんと相手の顔を見る。

 美人だ。

 というか、外人だ。

 あれ、外人っていう言い方、最近は良くないんだっけ?

 とにかく、どこからどう見ても日本人じゃない、綺麗な女の人が目の前に立っていた。

「あぁえっと、すみません。まだ開いてないんです」

 僕より高い背丈に、少し不釣り合いの控えめな声。

 金というよりオレンジに近い髪が肩口で揺れている。当然、前髪も同じ色だ。オレンジ色の向こうに空色の瞳があって、おずおずと見つめてくる。

「開いて……? あっ、いえ、僕はっ」

「僕? えぁ、すっすみません!」

 二人でペコペコと頭を下げ合って、行き場を失った視線を彷徨わせる。

 逃げた先には、アトリエだという建物。

 良く言えば街に溶け込んだ、悪く言えば特徴のない建物だ。

「ここ、アトリエになるんですか?」

 何を言えばいいのか分からなくなって、結局そんなことを言ってしまう。

 彼女は困ったように微笑み、小さな声で答えてくれた。

「はい。まだ準備中ですけど、夏休みにはオープンする予定です。えっと、機会がありましたら是非お越しください」

「ええっと……機会があったら、はい」

「ふふっ。いえ、ごめんなさい。私たちくらいの年齢でも楽しめる絵が多くなると思いますから、暇潰し程度に足を伸ばしてみてください」

 私たちくらい?

 もしかして、彼女も高校生なのだろうか。

 日本人からすると外国の子供は大人びて見えるというし、案外有り得るかもしれない。そう考えると、なんだか同い年くらいに見えてくる。

「はい。では」

「ではでは!」

 彼女が手を振り、僕も反射的に振り返してしまう。

 初対面の女の子相手に何をやっているんだか、自分でもよく分からない。

 まぁいいか。

 どうでもいいか。

 彼女に背を向け、歩いてきた方向を見やる。

 小さくなった二つの背中が、並んだまま遠ざかっていった。

 右側――車道側に立つのは見慣れた背中で、彼と肩が触れ合う距離を歩く背中は見覚えもない。

 ラフなジーンズを穿いていても、そのシルエットは女性で間違いなかった。

「……ん。帰ろっかな」

 どうにか声を絞り出す。

 ゆっくり、ゆっくり歩いてみたけど、そんな必要もなさそうだ。

 顔を上げた時、二人の背中は既に見えなくなっていた。

 衣織は足が速い。

 というより、歩くのが速い。

 僕といる時は緩めてくれるけど、彼女は背が高かった。平均以上ある衣織と同じくらいだったから、彼女の方はかなりの長身と言っていいだろう。合わせるまでもなく、合うのかもしれない。

 ため息は、我慢する。

 背中で聞いた衣織の声は楽しげで、優しくて、そして初めて響きを帯びていた。

 衣織のことを、僕は何も知らない。

 だから今日、今まで知らなかった彼の幸福を知っただけだ。

 それだけ、たったそれだけのこと。

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