六話・後
「二人って、実は付き合ってるんじゃないの?」
豊が吐き捨てる。
問うというより、突き付けるような物言い。
どう、答えればいいんだろう。
付き合ってはいない。
全くの思い違いだ。僕の感情がどうあれ、事実として付き合ってはいない。交際関係では――恋人同士ではない。
だが、そう答えれば済むのか?
胸中を探られたら?
ただの友達と言うことはできる。
好きじゃない、と答えるのも容易い。
本当に?
それは踏み絵だろう。
かつてキリシタンが迫られたそれを、果たして僕に踏み抜けるのか?
分からない。
舌の根が喉に張り付き、息も上手くできない気がした。
何分が過ぎた?
いや、何秒も過ぎてはいまい。
微かに動く表情筋さえ見えるかのようだ。今なら走馬灯も見えるかもしれない。
口を開くも、ただ開くだけ。
胸中に言葉なんて浮かばず、必然、声も出ない。
どうしよう。
どうすればいい?
僕の弱い心は、衣織に助けを求めてしまった。
それを汲み取った、わけもないだろう。
衣織の表情は、ただただ呆れていた。
「馬鹿か、お前」
一言、言い捨てられる。
「つくづく馬鹿だな、お前は」
「いや、ひどくね?」
「お前の発想力がな。いや、むしろ素晴らしいと褒めるべきか?」
「嫌味だろ」
「いやいや、その妄想力は本当に素晴らしいと思う。想像の翼をもっと広げるべきだと勧めようか、矯正した方が生きやすいと諭そうか、少し悩んだくらいだ」
「結局貶してるだろ、それ」
「いや貶してないって」
「貶してるって」
「俺がいつ貶したって」
「はぁ? 何時何分何秒地球が何回回った時に貶したんですかー?」
「……いや、だから貶してないんだって」
「ん……? あ、そうか、そうだな。すまん」
「本当だ。もっと丁寧に謝れ」
「マジですまん。俺がお前を貶したばっかりに……っておい」
「気付いたか」
「気付かないとでも思ったか」
「いやまぁ、豊ならあるいはと」
「期待されてたとこ悪いが、俺は気付いたぞ!」
なんだ、これ。
豊の目が衣織と僕、それから教室中をぐるりと見回す。
えっと……何を堂々宣言されたんだ、僕たちは。
ていうか、あれ、もっと深刻な話をしていたんじゃなかったのか。
少し思ったけれど、よくよく考えればなんてことはない。
衣織からすれば、どこをどう切り取っても言い掛かりである。衣織は僕のことを恋愛対象とは見ていないだろうし、付き合っていないことなんて、確かめるまでもない初歩的な事実だ。
「え、二人って付き合ってないの?」
「俺が聞きたい。なんでそうなった」
僕も聞きたい。
「昨日――じゃなくて一昨日、君ら純喫茶行ったよな?」
一昨日というと、ゴールデンウィーク最終日。
まぁ、行った。
中で何を話したかは言えないけど、行ったことは行った。
「誰かに見られてたか」
「駅前だからな。平日ならともかく、休みの日なんて普通に目立つぞ」
「暇な奴もいたもんだ」
そういえば、夏乃にもミカちゃん経由でバレていた。
豊がどこから情報を得ているのかは知らないけど、思春期の若者たちは色恋の噂が大好きだ。純喫茶はちょっと背伸びしたデートスポットとして知られていて、そこに誘われたいという声も度々耳に入る。
にしても、まさかゴシップ屋気取りの物好きたちが張っていたのか?
「で、昨日だ」
「昨日?」
と声を挟んだのは僕だ。
純喫茶はまだ分かるとして、昨日は何もなかったはずだけど。
昼間は教えられていなかったものの、衣織はバイトだった。僕も寄り道せず帰っている。
「そうだ、昨日。朝の電車で抱き合ってたってタレコミが」
「ぶふっ」
思わず吹き出してしまう。
「だだ抱き合うっ!? 僕が? 誰と? 衣織とっ!?」
いやいや、誰が何を見たらそんな誤解を、誤解……を?
……。
……ちょっと待った。
「ええと、写真などありますか」
「なきゃ信じねえよ」
言いながら、ポケットからスマホを取り出す豊。
サッサと画面に指を滑らせ、一枚の写真を僕たちに見せてきた。
電車の隅っこ、紙コップ片手に僕の肩に手を回す衣織の姿が映し出されている。
「……そもそも抱き合ってなくね?」
僕の隣から覗き込んでいた衣織が一言。
ていうか、近い。反射的に顔を離しそうになり、やっぱり我慢する。顔が少し熱いのは、きっと気のせいだ。
「いやまぁ、そう言われりゃそうなんだが」
「ていうかこれ、僕が転びそうになって衣織が押さえてくれたとこだよね?」
昨日の朝、登校するために乗った電車での一幕を思い出してみる。
考え事に気を取られていた僕が電車の揺れで転びそうになり、衣織が支えてくれたのだ。
すぐに恥ずかしくなってコーヒーのことを指摘して……と、指摘するまでに一口飲んでいたから、ただ支えたにしては長すぎる時間、僕の肩に衣織の手があったことになる。
「あー、ほらここ」
画面を指差し、落ち着いた声を作る。
「僕の脇の辺りに衣織のジャンパー見えるじゃん?」
「ジャンパー? あ、確かに。……それで?」
「いや、昨日って雨降ってたじゃん? なのに衣織は傘差してなくて、このジャンパー着て駅まで歩いてきたんだよ。でも濡れてるから、駅に入る時に脱いだ」
「ふむふむ、なるほど?」
「それを衣織はずっと手に持ってたわけで。咄嗟に押さえたんじゃなきゃ、濡れたジャンパー持ったままの手で人に触らないでしょ」
我ながら素晴らしい説明である。
豊も「おー! おー、なるほど」と頻りに納得の声を上げていた。
「見た目はちっちゃい、頭脳はそれなり、名探偵レイノ」
「ふふふ、それほどでも」
「や、名探偵も何も共犯者だろ。そりゃ種くらい知ってるわ。お前ら揃って馬鹿かよ」
衣織の両手が僕と豊の頭をぺしんと叩く。
「つうか、見た目ちっちゃい頭脳それなりで喜ぶな馬鹿」
僕の方だけもう一度ぺしり。
僕の扱い、豊以下か!
けど豊に比べてちょっと優しく叩いてくれてるのが分かるから、正直そこまで嫌な気分じゃない。むしろ嬉しい。にへぇ、と頬が緩みそうになるのを堪える。
「えー、で。二人は結局、付き合ってないの?」
「ねえよ」
「じゃあなんで純喫茶なんて行ったん?」
「打ち合わせに決まってんだろ」
「なんの」
「ネトゲの」
豊と衣織の会話は、どこかクロウとオリベのチャットに似ていた。
一度勢いに乗ってしまうと、割って入る隙がない。
「あー了解。よーく分かった。眼鏡属性そこそこイケメンの衣織が何故かモテない理由ナンバーワンの趣味ネトゲ」
「何故かモテないのにランキング付いてるのか。ちなみに第二位は」
「いつも隣にボディガードがいる」
「あー分かる」
「分かるのっ!?」
え、それって僕のことだよね?
「でもてっきり、腹黒そうとかそういう理由かと思ったんだけど」
「そこはまぁなんだ、モテる理由に換算される」
「なんでじゃ。よく分からんなぁ」
「謎多き男はモテるんですよ、くそったれ死ね腐れ」
後半の罵詈雑言はともかく、前半には同意したい。
「結局モテてないんだからクソじゃないし腐乱死体晒さなくていいな」
「フラン? え、なに、オタク用語?」
「もういいわ」
「どうもっ、ありがとうございましたーっ!」
ぱちぱちぱち……と何故か教室から拍手が起きる。
「いや漫才してたんじゃないよっ!?」
今度は、おーと感心の声。
ノリツッコミと違うわ。
ていうか、皆さん聞き耳立てていらっしゃったんですか、そうですか。ほんと油断ならないな、このクラス。
「あー……。でも二人、付き合ってないんかー」
いくらか声のトーンを落とし、豊が残念そうに言う。
その事実については少しくらい同意したいけど、なんで豊が残念がるのか分からない。
「なんで残念そうなの?」
気が緩んだのか、思ったことがそのまま口を衝いて出てしまった。
「いやー、もう二年になって一ヶ月経ったわけじゃん?」
「……? そりゃそうだね、ゴールデンウィークも終わったしね」
一学期の祝日は残すところ海の日のみと言えば、この先に待つ月日の長さを感じられる。
「目玉イベント、特大スキャンダルかとワクワクしたんだけどなぁ」
いくら祝日がないからって、人のスキャンダルでワクワクしないでほしい。
僕がため息をつくと、ほとんど同時に衣織も呆れた声を零す。
「スキャンダルってなぁ」
「悪いかよ」
「悪いも何も、スキャンダルの意味分かってんのか、お前」
「ボクにはオマエじゃなくてミノルっていう名前があるんだゾ!」
「あぁはいはい、豊さん」
「ん、よろしい」
「では答えよ。スキャンダルの意味は?」
沈黙。
それから、サッサとスマホを操る音。
「スキャンダル。名声を汚すような不祥事、不正事件」
この野郎、ネットで調べやがった。
ただの日常会話でそこまでやるか、現代っ子め。
「なぁ豊」
「お、おう、どうした?」
「豊がモテないことは知ってる。顔フツー、勉強フツー、性格ウザい。そりゃモテねえわな」
「十秒我慢してやる」
「けど俺はな、豊。もう四年目になる付き合いで、お前のことを信用したつもりだったんだ」
「うぇマジ? やった」
その気持ち、分かる。
こうやって人を素直に褒めることを、衣織はあまりしない。
人としてどうなのかと思う反面、だからこそ褒めてもらえた時には一際嬉しいのだ。
「けど、俺は失望した」
「……すまん」
豊が神妙に頷く。その気持ちも痛いほどよく理解できた。
「ん? え、なんで?」
そこで聞き返せる胆力は理解できない。
「そりゃあ人の幸福は苦いだろう。不幸の方が甘いだろう」
「お、おう?」
「けど、それでも人の幸せを祝ってやれる男だと思ってたんだ。俺は、お前のことを」
「…………」
「誰かと誰かが付き合ってた。それが不祥事か? 不正事件か? 違うだろう? 恋愛はスキャンダラスじゃない。不倫ならいざ知らず、高校生同士の清い恋愛くらい、素直におめでとうって言ってやれよ……!」
衣織が拳を握り、熱弁していた。
僕でも豊でもない誰かが息を呑む音が聞こえる。
「……そう、だな。そうだったな。悪い。俺としたことが、人として大切なことを忘れていた」
豊が感極まった声で言い、衣織に手を差し出す。
衣織は、それを握って返した。
「ありがとう、衣織。我が友。俺に人の心を思い出させてくれて」
「いや、いいんだ。思い出してくれたなら……!」
二人が熱い握手を交わし、そして――。
「この茶番、いつまで続けるの?」
僕が一言、オチを付ける。
「期待通りの一言をありがとう」
「流石名探偵、空気を読む能力は伊達じゃない」
「誰が名探偵だ。あんなちっちゃくないわ!」
けれども、しかし。
たとえ冗談めかしていても、衣織の言葉に、僕は少し感動してしまった。
大袈裟に言っているわけじゃない。
僕と衣織は、互いに男だ。
もし本当に僕たちが――男が二人で抱き合っていたら、人は笑うだろう。奇異の目を向け、後ろ指をさすだろう。恥ずべきことだと、誰かは言うかもしれない。
それを衣織は、スキャンダルではないと言ってくれた。
冗談の上ではあっても、あくまで茶番の一幕であっても、何も思わずにいられるはずがない。
衣織がちらりと僕を見た。
咄嗟に目を逸らしてしまって、後悔する。
もっとちゃんと、正面から見据え返すべきだった。
そして一言、彼にだけ聞こえる声でいいから、お礼を言うべきだった。
首を傾げ、突然どうしたんだと笑われるかもしれないけれど、それでも。
「い……、衣織!」
「ん、なんだ?」
「後でちょっと、お話いいでしょうか」
「え、告白? ヒューヒュー!」
間髪容れず豊に言われ、さっと顔が熱くなる。
「違うし! ネトゲの話だし!」
「いや待て、まずい。そのテンションはまずい。余計に誤解される」
「っていう衣織の慌てぶりまで含めて、はい、ありがとうございました。お腹一杯です」
からからと無邪気に笑う豊の脇で、衣織が僕の方を見ていた。
軽く片眉を上げ、それから浅く顎を引く。
いい、のだろうか。
それなら、ちゃんとお礼を言おう。
たとえ伝わらなくても、遅すぎても、ただの自己満足だとしても。
その時、不意に衣織が笑い声を上げた。
はは、と控えめな、近くにいなければ聞き取ることさえできなかったであろう、小さな笑い声。
それでも僕と豊が顔を見合わせ、声も出せずに驚く。
衣織がそんな風に笑うのは滅多にないことだった。
「衣織?」
思わず声をかけると、衣織は我に返ったような目で僕を見た。
次いで、豊を見やる。
「で、ラッパーはやめたのか、豊さんよう」
はぐらかされた。
そう気付いたのは僕だけで、もう一人の男はぽかんと口を開けた間抜け面を晒す。
「へっ、ヘイヨウ、忘れてないヨウ! ヨーヨー!」
分かりやすい嘘っぱちの声を上げ、衣織が笑う。
まぁ、いいか。
三年と少し前、中学一年だった頃の僕に教えてやりたい。
三年と少し後、高校二年になった僕は、教室で楽しく笑っているよ、と。