六話・前
中学生になっただけで何かが変わるだなんて、そんなことは思いもしなかった。
所詮は近隣の小学校を卒業した、一つか二つ年上の子供たちが集まっているだけの場。
義務教育であることも変わらず、小学校の延長線に過ぎない。
そこまで言語化できていたかは分からないけれど、当時の僕はそう考えていた。
そして、裏切られたのである。
いや、そんな大層な話でもないか。
単純に見通しが甘かった。何も変わらない、という認識は正しかったのかもしれないけど、言葉をありのままに受け取りすぎたのだ。
中学に上がっても変わらなかった僕は、だから浮いてしまった。
子供の一年や二年は大きい。
算数は数学に変わって、理科では危険な薬品を扱うようになり、委員会も生徒会と呼ばれるようになった。
何一つ変わらないなんてことは、有り得ない。
それでも変わったように見えないのは、全員が同じくらい変わるからだ。
みんなが変わっていく中、僕だけが変わらなかった。
当然だろう。
みんな中学に上がったら何かが変わると信じていて、変わるための準備も努力もしていた。
中学に上がって最初に習うのは、先輩との上下関係である。
去年まで小学生だった同級生たちが急に遠慮というものを覚えた。
サッカーの人数が足りないからと僕を校庭に連れ出していた男子が「乗り気じゃなさそうだし」と誘わなくなり、昨晩のドラマの感想を一方的に言うだけだった女子が「興味もないだろうから」と話しかけなくなる。
その時ようやく、僕は気付いた。
あぁ、僕に友達はいなかったんだ、と。
イジメがあったわけじゃない。悪気なんて欠片もなくて、むしろ善意ゆえに孤立した。
気付いてしまえば、待っているのは退屈な毎日だ。
果たして僕は、どうすればよかったんだろう。
答えは分かりきっていた。積極的に自分から話しかけ、人に声をかけられたら楽しそうに応じる。それだけでよかった。それだけのことが、ひどく難しいんだけど。
HGRでもそうだ。
フレンドが多い人は自分から人を誘うし、誘われた時は楽しそうにする。
一方、少ない人は自分からは声をかけず、誘われてもあまり楽しそうにしない。
そうなると「もしかしたら迷惑なのかも?」なんて遠慮されてしまうから、関係が発展しないのだ。
しかしまぁ、人の振りを見るのは簡単でも、我が振りを直すのは難しい。
そうして僕は、一年を一人で過ごした。
嫌な思い出は少ない。
同じくらい、楽しかった思い出もないけれど。
二年生になっても、それは変わらない。当たり前だ。僕に変わる気がなかったんだから。小学校から中学校に上がった時と同じく、変わろうという意思を持たない僕は周りに置いていかれる。
それでよかった。
下手に変わろうとして何かが壊れてしまうより、退屈なくらいがちょうどいい。
そう、思っていたのに。
新学期を迎えた、その日。
クラス替え直後の教室は不自然な活気に包まれていた。
期待、不安、あるいは焦燥。
誰もが誰かと何かを話していなければ落ち着かない感じで、わけもなく大きな声が飛び交っている、そんな中。
「おっはー! よっすー!」
間抜け……もとい底抜けに明るい声が響いて、反対に教室がしんと静まる。
とはいえ、ほんの一瞬のことだ。
どんなチャラい奴が現れたかと思えば、なんてことはない地味な男子。中肉中背、気に留めようにも意識に引っ掛かる部分なんて何もなくて、皆が皆すぐに自分たちの会話に戻っていく。
しかし僕は――誰とも話すことなく机で頬杖をついていた僕は、戻るべき会話もなく、ただ居心地の悪さを感じながら教室を見回すことしかできなかった。
それまで意識していなかった会話たちが耳から脳へと入り込み、無に戻ろうとする思考の邪魔をする。
「おっ、リュージじゃーん!」
「でもまぁ、その先輩はもう卒業しちゃったんだけど」
「うっわ、俺マジ嬉しいんだけど!」
「いやーみのっち、相変わらずうっせーわ」
「えー、でも美術部なんでしょ? 誰かいたっけ?」
「それが口の固いのなんの。カンコーレイが敷かれてるレベルよ」
特に先ほどの間抜け男子……みのっちと呼ばれている彼と、あとは教室の入り口近くに陣取って話している女子組の声がやけに響いてくる。
無遠慮に発せられる声は互いの繋がりも曖昧で、会話というより音波となって意識を叩いた。胸に芽生えた不快感は精神的なものだけではないらしく、なんなら声に酔ってしまいそうだ。
気分が悪い。
時間になるまで、トイレなりなんなりで時間を潰してしまおうか。
本気で検討し始めたが、結局席を立つ必要はなかった。
美術部がどうたら先輩がどうたらと話していた女子たちが急に黙り込んだのだ。
なんだろう、と思ったのは僕だけではなかったようで、クラスの意識が会話から逸れて女子たちの方に向けられる。
彼女たちは入り口の向こう、廊下に目をやっていた。
必然、僕たちの視線も廊下に……否、今まさに教室に入ってきた人物に注がれる。
眼鏡をかけた男子だった。
去年まで中一、小学校を卒業したてだった僕たちの学年にファッション感覚で眼鏡をかける生徒はいない。だから眼鏡といえば野暮ったいものが多いんだけど、彼の場合は違った。
遠目では今一判然としないものの、暗い銀色のフレームはかなり細く、重たい印象がない。全体のシルエットも細めで、レンズも理科で使うプレパラートのような横長の四角形をしていた。
眼鏡というだけで知的なのに、大人っぽいそれは尚更惹かれるものがある。
ただまぁ、僕が同じ眼鏡をかけても、あそこまで知的には見えないだろう。背伸びして見えて、むしろ滑稽かもしれない。
翻って、眼鏡の奥にある彼の眼差しは、なんとも静か。いっそ冷たいほどだった。
ほんの僅かに足を止めたのは、自身の席を探すためだろうか。教室は不自然に静まり返っていたけれど、それを不愉快と受け取った様子はない。意に介さず、といった感じ。
流石に知り合いがいないということはないだろうが、誰も話しかけられなかった。
いや、訂正しよう。
彼の纏う空気は、普通なら誰も話しかけられるものではなかった。
「よっすー! おっはー! 眼鏡クンっ!」
教室中の静寂を切り裂いて、あの間抜けが叫んだ。
ピリリと走った緊張は、彼らではなく、一部始終を見ていた僕たちが発したものだろう。
眼鏡の奥で瞳が動き、彼の冷たい眼差しが間抜けを射抜く。
「ハジメマシテ、だよなっ!? んじゃあ自己紹介! 俺は――」
「裸眼だろ、見りゃ分かる」
たった二言、彼は言い捨てた。
それだけで視線を外し、僕の方へ……違う、僕の隣の席へと歩いてくる。
向けていた目が合いそうになって、咄嗟に逸らしてしまった。けれど、逸らさずに挨拶する勇気なんて僕にはない。
「あっれ~?」
おどけた間抜けの声には気も留めず、彼は自分の席に着く。
窓際の列、前から三番目。
出席番号は五十音順だから、ア行の後ろかカ行の始めなのだろう。
衣川衣織。
後で……数分後に始まったホームルーム中の自己紹介で知った名前だ。
衣織は、贔屓目に見てイケメンである。
しかし主観を差し引き、客観的に評するならば、まぁそこそこ整った顔立ち程度。教室に入ってきた時の印象も顔立ちより、眼鏡や纏う雰囲気の方が大きかった。
だから、言い訳したい。
僕は決して、最初から同性が――男が好きだったわけじゃない。
一目見た瞬間に惚れてしまったわけじゃない。
ただ。
彼の、あの間抜けの失礼な挨拶を一言で切って捨てた瞬間にこそ、僕は惹かれたのだ。
どうにか言葉を探すなら――。
僕は、衣織の強さに一目惚れした。
周りの雑音を意に介さずにいられるその強さに、憧れた。
×××
「ヘイ、ヨウっ! おはようサン、お二人サン!」
間抜けが何か言っている。
下手なリズムに乗せたそれは、まさかラップのつもりだろうか?
「あぁうん、はいはい。おはよ」
「なんだ、朝から暑苦しいな。昨日のヒップホップ特集でも見たのか?」
「おっ、分かるぅ? やっぱ分かっちゃう!? ヘイヨウ、俺はヨウ」
「いやお前、それしかできねえのかよ」
「……?」
「お前のラップの範囲、狭すぎねえか……?」
間抜け……もとい四十万豊の間抜け面に、衣織が呆れ果てた顔で返す。
そんな顔でもカッコよく見えてしまうのだから、恋は盲目と言われるのだろう。あるいはアバタもエクボ? アバタってよく知らないけど。正直、エクボもあんまり好きじゃない。
と、そんなことを考えている間にも豊と衣織の会話は続く。
「つうかヨ、衣織もヨ、昨日のヨ」
「ヨを付けりゃいいってわけじゃねえぞ」
「え、そうなん?」
あっ、と素っ頓狂な声。
「そうなんヨウ?」
違うわ間抜け。
「ていうか、俺は見てねえから」
「えー、なんでー」
「なんでーじゃねえよ。子供かよ。俺はヒップホップよりジャズの方が好きなんだよ」
「ジャズ! かーっ! カッコつけやがって!」
「今まさにラップでカッコつけてた奴に言われたかねえ」
「え、マジ? 俺カッコよかった?」
「ほら忘れてるぞ」
「あやべ。ヘイヨウ、俺はラッパー、マジで……。えっと、マジで?」
「ぱっぱらぱー?」
「そーそれ! 俺はラッパー、マジでパッパラ……っておい、怜乃! 澄まし顔で何言わせてやがる!」
「いや自己紹介を」
「……怜乃ん中での俺って、どういう位置づけ?」
「世界一の間抜け」
隠すまでもない。
むしろ何を遠慮することがあるだろう?
「ふっふっふ……、やはりな、やはり俺は世界クラス!」
「まぁうん、お前の顔面偏差値は世界で平均出してもちょうど真ん中そうだ」
「おいおいソコソコイケメンクン、ちょいと口が悪いんじゃあないかい?」
「知らないのか。ラップは互いに褒めてるようで貶してることを言うバトルなんだぞ」
「えっ、マジで?」
「そりゃあシカゴ発祥の文化だからな」
「シ……シカゴ! マジか! ユーエスエーじゃん! ニューヨークじゃん! マジカッケー! フゥー!」
いやいや、どうすんだ、衣織。
この間抜け、完全に信じちゃってるけど。
息を吐くように適当な嘘をつくのは衣織の特技であり、やられる側にしたら堪ったもんじゃない悪癖だ。
それでも僕やクロウさん相手なら大抵はすぐに嘘だとバラして終わるけど、豊相手だとどうだろう。
あまりにも上手いこと引っ掛かるし、普段から適当なことしか言っていないために嘘を吹き込んでも実害が少ないし、騙す相手としては最適だ。
「……なぁ、豊」
流石に言い出しにくいのか、衣織が困ったように笑う。
「オ? なんだなんだ? 褒めちゃうか? 褒めてくれんのか?」
「やーまぁ、お前って実は爪を隠すタイプなのかなと今一瞬思ったんだが」
「爪? え、爪? 鷹の爪? 辛いやつ? それとも煎じて飲む奴?」
「思ったんだが、勘違いだって分かって安心した」
「……? まぁいいや、安心してくれたんなら何よりだ」
……? あれ、なんだったんだろう。
しかし、ここで真意を訊ねて豊と同レベルに思われても困る。
ふむふむ分かりましたそういうことですね、って顔でなんとなく頷いておく。
すると衣織が僕の方をちらりと盗み見て、曖昧な笑みを浮かべながらそっぽを向いた。
そういうの、やめてほしい。
なんか見透かされた気がするし、それ以上にこっそり見られている瞬間があると思うと気が抜けない。あとちょっと嬉しい。
いやダメだ。
間抜けに影響されすぎている。
落ち着いて澄まし顔を作り直し、そこではたと思い出した。
「そういえば、豊。なんか用があったんじゃないの?」
「えっ、用? ヘイヨウ?」
「違うわ」
こいつと話しているとIQが下がっていく気がする。
これで意外と勉強はできる……というか、あまり悪くない程度なのが驚きだ。
「用事だよ、用事。何かあって話しかけてきたんじゃないの?」
時刻は八時を回った、ホームルーム前の教室にて。
中学二年で同じクラスになって以来、なんだかんだで四年目の付き合いになる僕たちだけど、では無二の友人同士かといえばそうでもない。
互いに嫌いではないが好きでもない性格に、合わない趣味。
高校に入ってすぐの頃は同じ中学の出身ということで話す機会も多かったけれど、今では僕と衣織でいることは多くても、僕と豊、ないし衣織と豊でいることは少なかった。
朝からわざわざ話しかけてきたからには、何か用事があったのかもしれない。
「え、俺って嫌われてる?」
「今更気付いたか」
衣織が即答。
「あーうん、助かる。衣織のなー、そういう分かりやすい嘘はすげー助かる」
「お前はやっぱり鷹か……?」
「いや鷹の爪引きずりすぎな」
「やっぱり違うか、安心した」
……まぁ実際問題、衣織をここまで困惑させる相手も少ないだろうから、そういう意味では苦手なのも頷ける。
って、また話が逸れてるし。
こういうところが僕は苦手だ。行き当たりばったりの会話というか、会話することが目的の会話。それはそれで悪くないんだけど、大して仲も良くないのに突然始められると困る。
「んでー、用事な、用事」
今回は自分で思い出してくれたから、まぁ及第点。
「これ言っていいのか分かんねえんだけど、お前らって付き合ってんの?」
……?
「え?」
あれ?
今、なんて……?
「いやー、だからさ。衣織と怜乃って付き合ってんのかなーって」
「あははー、買い物に?」
「ちゃうちゃう、チャウチャウ。恋愛的な意味で」
チャウチャウ?
あぁ犬ね、犬。あの小さくて可愛い犬。
「はい?」
え、なんで?
なんで僕と衣織が付き合っ――
「えっ? んんん?」
まじまじと豊を見てしまう。
中肉中背。
これといった特徴が何一つ存在しないことが特徴の男。
そのくせテンションだけは異常に高く、クラスのお調子者どころか厄介者、ムードメーカーを通り越してトラブルメーカーな彼。
衣織の言葉が脳裏をよぎる。
爪を隠す鷹。
四十万豊とは、ただ道化を演じているだけで、実は優れた才覚の持ち主なのではないか。
道化姿で人々を欺き油断させ、その裏では誰にも気付かれずに秘密を暴くのではないか。
「まぁなんだ、こういうことって直接言うべきじゃないのかもしんねえけどさ」
なら、言わないでほしい。
背筋を冷たいものが這い上がる。
「色々なね、色々な情報が入ってきたわけで、どれも単体じゃ不自然なんだけど」
真面目な顔。
これほど真剣に豊の顔を見たことが、果たして僕にあっただろうか。
ただの間抜けと、あるいは見下していなかっただろうか。
「諸々組み合わせて考えると、なーんか辻褄合うんだよね」
笑った彼の顔は、こんなにもおぞましかったのか。
「二人って、実は付き合ってるんじゃないの?」