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四話

 騒がしい朝。

 それだけで今日は雨なのだと知る。

 もぞもぞと布団から抜け出て、カーテンと窓越しにサァサァと鳴る音を聞いた。

 やはり雨だ。

 途端、足から頭へ震えが走る。

 春は暖かいと人は言うけど、僕からすれば春どころか五月でもまだ寒い。

 とはいえ、暖房を付けずに済むだけマシか。

 一晩で冷え切ってしまった制服に着替えて洗面所へ行けば、長い髪と悪戦苦闘している夏乃と出会う。

「おはよ」

「あ、おはよ! ねぇレイ君!」

「やだよ。自分で伸ばしたんだから、自分でやらなきゃ」

「昨日の優しいお兄ちゃんはどこ行ったの!?」

「我が家にお兄ちゃんなんて呼ばれる兄はいません」

 横から手を伸ばして歯ブラシを取り、軽く磨く。どうせ朝ご飯の後も磨くから適当でいい。

 夏乃が避けてくれた洗面台で口を洗いだら、トイレを経由して回れ右。

 その後は部屋で鞄を取って、リビングに向かう。

「おはよ」

「あぁ、おはよう」

「おはようさん」

 母さんの声は台所から、父さんの声はソファから返ってくる。

「今朝はゆっくりだね」

「面倒なことになった」

「そりゃ大変だ」

 何がどう面倒になると朝から情報番組を見てくつろげるのか分からないけど、会社をクビになって朝から暇を持て余しているわけではなさそうだ。

 なら、首を突っ込むだけ野暮というものである。

「そういう怜乃はどうなんだ」

「何が?」

「昨日、かなり遅かったろう」

 なんのことだろう。

 暫し頭を捻り、可能性を見つけた。

「それ僕じゃなくて夏乃だね」

「夏乃が?」

「ほら、受験生だから」

「あぁ、そういうことか」

 まだ一年あるのにな、と父さんは笑うが、いや一年もないから。

 夏乃は僕と違う高校を第一志望にしていた。細かい話は僕も父さんも聞いてないけど、女子校だというので諸手を挙げて賛成している。どこに反対する理由があるだろう。

 しかし反面、受験は厳しい。

 学力的に難しいわけではないものの、あまり気は抜けないレベルの学校だった。

 受験まで半年以上あるといっても、油断大敵。まぁそもそも油断する余裕すらない状況と見るべきか。

 そんな時に兄の心配をするとは、泣かせてくれる。夏乃の趣味を知らなければシスコンになっていたかもしれない。

「はいはい。無駄話している時間があるのかしら?」

 と、母さんの声。

 そんなこんなで朝食を済ませ、残りの身支度を整えたら出発だ。傘を手に玄関を後にする。

「行ってきます」

 家から一番近い高校を選んだが、それでも中学よりはずっと遠い。

 夏乃より一足先に家を出て、駅に向かって歩くこと暫し。

「おう、怜乃」

 後ろからの声に、内心ではニヤニヤとした笑みが浮かんでしまう。

 現実の顔には、それなりの笑顔。

「ん、おはよ」

 振り返れば、果たして衣織が歩いてきていた。

 傘は持たず、代わりに薄手のジャンパーを羽織って、つば付きのフードを目深に被っている。

「相変わらずだな」

「何が?」

「朝から元気そうだ」

「なるほど。そういう衣織はダルそうだね」

 言うと、衣織はつば越しに空を見上げた。

「雨は嫌いなんだ」

 世界を呪わんとするかのような、暗澹とした声である。

「傘、貸そうか?」

「いや窮屈だろ」

 一瞬、首を傾げる。

 直後に意味が分かって、顔が熱くなった。

 そりゃそうか。同じ場所に向かう相手に、一本しかない傘を貸そうと言ったのだ。相合い傘のお誘い以外にどう受け取られるだろうか。

「ぼっ僕は、別に構いませんけど」

「……」

 声が詰まってしまった。

 衣織のじろりと冷たい眼差しを真正面から受け止めてしまい、逸らすに逸らせない。

「そりゃ、お前は窮屈じゃないだろうからな」

 またも首を傾げ、すぐに理解する。

「小さくて悪かったね」

「今ばかりは便利そうだ」

「つまり普段は不便そうだと」

「過ぎたるはと言うが、現実的に日本人の体格なら手足は長い方が便利だ」

 日本人ときましたか。

 まぁ実際、周りからの視線を無視できるなら、便利といえば便利だろう。

 ただ夏乃を知っているから、今一頷くに頷けない。

 苦肉の策だけど、話題を変えよう。

「ていうか、そんなに濡れて電車どうするのさ」

 僕が起きた時よりは弱まっているものの、まだそれなりに降ってはいる。少し雨粒の大きな霧雨といったところか。

「脱いで脇の方に立ってりゃいいだろ」

「寒くない?」

「もう春も終わったぞ」

 春イコール暖かいの方程式は、いい加減廃れていただきたいものだ。

「でも雨だよ?」

「雨なら余計、蒸すんじゃないか?」

 疑問形の理由は、そもそも気温など気にしない性格だからだ。

 性格というか、体質というべきだろうか。

 中学時代、珍しく雪が降った日にも、窓際の席で平然とペンを走らせていたのが衣織だ。その時、一つ内側の列にいた僕の手はひどくかじかんでいたのに。

「まぁ、行こう。俺より怜乃が寒そうだ」

「お気遣いどうも」

 そうして二人並んで歩くけど、傘のせいで少し距離ができてしまう。

 いっそ僕も、衣織みたいな上着を買ってもらおうか。

 でも見た感じ、高そうではある。それに実際着てみたら、僕には防寒性能が足りないだろう。

 中々、ままならないものだ。

「どした?」

「ん? や、なんでもないよ」

「そうか?」

 駅までは歩いて数分。

 話しながらだとしても、十分かかるかどうか。

 二人きりの時間は、ひどく短い。

「風邪とか引いてないか?」

「えっ?」

「昨日、調子悪かったろ」

 あぁ、そういえばそうだった。

「あれは結局、……そのー、ケッコンのことが原因ってことで落ち着いたんじゃ?」

「……?」

 首を傾げているのが気配だけで分かった。

「まさか本当にそれが原因だったのか」

「むしろ適当言ってたの?」

「いや、まぁどこかのタイミングで言わなきゃなーと思ってはいたんだけどな。理由が理由でも、コトがコトだ」

 ギルドメンバー同士のケッコンとなれば、流石にギルマスには報告しないとまずい。

 男女のそういう話は特に雰囲気に影響するし、もし破局を迎えればギルドを巻き込んでの大騒動になることもある。

 僕と衣織――レナとオリベの場合は恋愛ケッコンじゃないけど、話しておくのが筋なのは変わりない。

「それでまぁ、ちょうどいいタイミングができたなと。クロウも変なこと言い出したしな」

「あぁ、五月病ね」

「遠慮がない奴で悪いな」

 オリベとクロウの出会いは聞いていないけど、かなり初期からの付き合いだとは話しぶりから察している。

「知ってるから大丈夫だよ」

「そりゃ有り難い」

「ていうか、僕は衣織がああいう人と付き合ってることの方が意外だな」

 普段は言わないことだけど、傘越しに話しているせいか口が緩んでしまう。

「歯に衣着せぬっていうと聞こえはいいけど、気を遣わない人って好きじゃないでしょ?」

 といっても露骨に嫌な顔をするなんてことはない。

 ただ流石に、三年も見続けてきた相手だ。なんとなくの雰囲気で、ある程度の察しはつく。

「気を遣わないっつうか、自分が正しいと思い込んでる奴は嫌いだな」

「まぁうん、衣織こそ歯に衣着せぬ性格だけどね」

 直截というか、回りくどいのが嫌いというか。

「ただクロウに関しちゃ、あれで気を遣ってるんだよ」

「あれで?」

「あれで。自分は気遣い上手だと思ってる節まである」

 嘘だ。

 そんな馬鹿な。

「……すごいね」

「だからまぁ、嫌なことがあったら言えな。俺の気持ちってことで伝えとくから」

「いやー、うん。なんだろ、僕も今度から少しは気を遣うことにするよ」

 お互い様だからと極力気を遣わずにいたけど、まさか一方通行だったとは。

 そういう意味では、伊達に衣織のフレンドじゃないかもしれない。

「まぁ気遣いって意味でいうとチョコの方が……っと、悪い、ちょっと先行く」

「へっ? あぁうん……」

 急にどうしたんだと思ったら、もう駅が目と鼻の先だった。

 僕たちとは違う方向から制服の集団が来ている。このまま行くとちょうど同じタイミングで駅舎の入り口を通ることになるから、そのタイミングを外したかったらしい。

 小走りしていった衣織が駅舎の入り口で立ち止まり、ジャンパーを脱いでぱたぱたと雨露を払う。それを適当に畳んだ辺りで僕や集団が到着して、ほとんどそのままの足取りで衣織の背中を追い掛ける格好になった。

 しばらく背中を追い続け、はたと立ち止まる。

 来る方向を間違えた。

 紙コップの自販機でコーヒーを買って振り返った衣織が僕を見つけ、怪訝そうに紙コップを持ち上げてみせる。

「怜乃も飲むか?」

「いえ、結構です」

「なんで来たんだ」

 まさか衣織の背中しか見ていなかったとは言えない。

「いやまぁその、品揃えを確かめにですね」

「前は見て歩いた方がいいぞ」

 お見通しですか。

 いや、前は見ていたんですけどね? 視野が狭すぎただけで……。

 何はともあれ、幸か不幸か二人並んで改札を抜け、既に到着していた電車に乗り込む。

 座席は制服姿で埋まっていて、傘で来た僕も隅っこに立つことになった。普段は席に困ることはないんだけど……と、そうか、雨だから自転車組まで電車に乗っているのか。

 まぁ、いいけど。

 自然に衣織の隣にいられるし。

 なんて、考えていたのがいけなかった。

 不意に電車が動き出し、ガタンと大きく揺れる。

 我に返った時には既にバランスが崩れていた。

 転ぶ――、と覚悟した次の瞬間、しかし誰かが肩を支えてくれる。

 誰かというか、そんなの一人しかいない。

「……っ、ぁりがと」

 上手く声が出てくれない。そりゃそうだ。朝の電車、きっと知り合いも見ている中で、平然と肩を抱き留めるとか、そんなのずるい。

 しかも僕がこんなに意識しちゃってるのに、当の衣織は平然とコーヒーを飲んでいる。

 ていうか、電車の中でコーヒーを飲むな。

「ん? どうかしたか?」

 そういう台詞はせめて肩の手を離してから言ってください。

「……ありがと。でもその、電車の中でコーヒーはどうかと思う」

 結局、素直にお礼もできずに口を尖らせてしまう。

「あ? あぁ、悪い。完全に失念してた」

 言って、ついでに思い出したのか肩からも手を離す。

 衣織にしては珍しく、どうにも歯切れが悪い。

「雨、そんなに嫌いだっけ?」

「……? あぁいや、雨は関係ない。タイミングが悪いとは思うが」

「タイミング?」

「今日から少し忙しくなるんだ。せめて明日降るか、昨日のことを昨日のうちに教えてもらえればよかったんだが……」

 昨日のことを、昨日のうちに。

 また核心を避けた言い回しだ。衣織はこういう言い方が多くていけない。それで伝わるだろうと信頼されているのは嬉しいけれど、現実には理解しきれないせいで僕の方が申し訳なくなってしまう。

「ていうか、昨日? えっと、ごめん。大丈夫だったの?」

「何が?」

「ゲームとか。あとはそのー、昼間のこととか」

「あぁ、それか。昨日は知らなかったんだ。お陰で昨日の分まで今日やらなくちゃいけないってのに……この雨だ。嫌になる」

 それは雨が嫌なのか、昨日のことを昨日のうちに教えてもらえなかったことが嫌なのか。

 どちらでも構わない。気にしたところで答えは見つからないし、それに思考はもっと別のことに支配されていた。

 昨日のうちに知っていたら、あの純喫茶での一幕はなくなっていたのだろうか。

 答えはやはり、見つからない。

 とかく物思いに耽ると時間が経つのは早いものだ。

 駅に着き、ふと我に返れば同じ制服姿がぞろぞろと電車を降りていく。もう到着したらしい。十数分は揺られたはずだけど、ほんの一分、二分ほどに思えた。

「あっ」

「どした?」

 波に乗って電車を降り、ホームからの階段を上る途中。

 当たり前といえば当たり前の可能性に今更至って、階段の只中だというのに足を止めてしまう。

「今日から忙しいってことは、闘技場の練習はキャンセル?」

 ネトゲといえどゲームはゲーム。大抵の人にとっては所詮、娯楽に過ぎない。

 そして娯楽は、一般的に余暇で楽しむべきものだ。

 何が理由で忙しくなるのかは聞かなかったけど、雨で憂鬱になるということはリアルの用事だろう。ゲームとリアル。どちらが優先するかなんて、考えるまでもない。

「どうだろうな。ひとまず予定分は予定通りお願いしたいけど」

「大丈夫なの?」

 衣織はなんていうか、義理堅い男だ。

 約束を破ることが嫌いで、いつだったか急用が入ったにもかかわらず、かなりの無茶をして予定に間に合わせたことがある。

 そういうところは好きだけど、あまり無理はしてほしくない。

 きっと昨日も、HGRをログアウトした後、すぐには寝なかったんだろうし。

「言っとくけど」

 しかしその声を聞いて、杞憂を通り越して失礼だったと思い至る。

「俺だって暇潰しにやってるわけじゃないからな。クリアは見えてるんだ。下手に時間置いて感覚鈍らせても面白くないし、目指せ表彰台は変わらない」

 僕たちが挑戦する闘技場には、クリアタイムで順位を付けて公開するシステムがある。

 その三位以上を目標に頑張ってきたけど、今のところ最高成績は八位。今現在の最新コンテンツは僕たち破戒僧・楽師コンビが有利を取れる構成になっているものの、そう簡単に上へ行けるほどネトゲの世界も甘くない。

「ん。それじゃあ夜は待ってるよ」

「まぁ、言うほど時間に縛られるわけじゃない。間に合わせるさ」

 成り行きに任せていては約束の時間に間に合わないのは確定事項か。

 なんともはや、謎の多い男である。僕が知る中学二、三年の時には一度も親が授業参観に来なかったし、家庭に何かしら事情があることも噂されていた。

 本当に、大したことなければいいけど。

 深入りはしない。

 ずけずけと土足で踏み込めるほど、衣織との付き合いは長くなかった。

「だからって無理に間に合わせるのはダメだからね?」

 それでも幾つか、小言を言える立場にはあると驕りたい。

「体調悪かったらドタキャンしていいし、なんなら無断欠席でもいいんだから」

「それ、人としてどうなんだ」

「少なくとも僕は衣織相手なら許すよ。他でもない衣織なんだから。ただ億劫ってだけで約束破るような人間じゃないことは、よく知ってますとも」

 むしろ無茶するくらいならドタキャンしろと言いたい。

 流石になんの連絡もないと心配になるし、少し寂しくも感じるけど。

「分かったよ。最大限努力しても無理そうなら、連絡入れる」

 それは結局、大して変わっていないんじゃなかろうか。

 思ったけど、言うのはやめた。そういう男だ、衣川衣織とは。

「ん、それでよし。連絡待ってるからね」

「いやログインを待ってろよ」

 言い合いながら改札を出て、また傘を準備する。

 ……が、駅を出てみれば、雨は既に止んでいた。あるいは十数分の電車旅で雨雲を抜けたのか。

 いそいそと傘を仕舞う僕の傍ら、衣織は満足げに笑みを零す。

「良い一日になりそうだ」

「都合がいいんだから」

「いいや。元々雨だろうと、退屈できない一日になってたんだよ」

 なんだそりゃ。

 いつもの曖昧な言い回しは、気に留めない。

 気に留めて、ずっと覚えていたら、何か変わっていたのだろうか。

 些細な言葉を、小さな異変を見落とさずにいたら――。

 けれど、それに気付くのはずっと後のことで、この時の僕には曖昧に笑って衣織の隣に並ぶことしかしなかった。できなかった。

「ようやく、晴れた」

 曇り空を見上げようともしないで、衣織は意味深に笑ってみせた。

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