三話
お風呂から上がって、ドライヤーで髪を乾かし。
けれどそのまま寝る気にはなれず、リビングのソファに身を沈める。
「レイ君、大丈夫?」
途端、上から声が降ってくる。
背もたれに体重を預けながら見上げれば、果たして覗き込んでくる瞳があった。
大人びた顔。
ということはつまり、まだ子供らしさを残す顔。
「大丈夫」
「えー、絶対大丈夫じゃないよー。だって部屋から唸り声聞こえてたし!」
「うっ……」
「こう『うー!』みたいな。なんていうか、絶妙に可愛くない感じの!」
「別に可愛さとか求めてないし」
「可愛かったらオリ先輩、好きになってくれるかもよ?」
「うぇっ!?」
「そこは『ひゃいっ?』がいいね!」
「……それはない」
どこまでも遠慮なく、淀みなく言ってくれるのは、夏乃。
清水夏乃。
僕の妹。
中三にして高二の僕より背が高い、生意気な妹。
中学に上がってから伸ばしている長い髪には未だタオルを巻いていて、よくもまぁ億劫にならないなと、それだけは感心している。
「でもさーレイ君」
「なんだよ……」
「いやー、何かあったんでしょ? オリ先輩と」
「別に。何もないけど」
夏乃に僕の胸中を知られたのは、今から二年半ほど前、小学六年の冬のことだった。
対する僕は中学二年、衣織と出会った年の瀬でもある。
なんの前触れもなく、本当に突然「レイ君ってオリ君のこと好きなんでしょ?」などと言い出したのだ。
最初は勿論、小学生らしい友達的な意味合いだと思った。
しかし話を聞けば聞くほどに正鵠を射ていることが分かって、はぐらかしてもしつこく食い下がってくるからと認めてしまったのが運の尽き。
結局、後になってみれば友達から借りた漫画に影響されただけだった。
それがどんな漫画だったかは、まぁ言うまでもないだろう。子供には少し早く、男には永遠に用のない、そういうやつだ。
「でもレイ君、今日はオリ先輩と純喫茶行ったんだよね?」
「えっ、なんで知って――」
「ミカちゃんが二人で入ってくとこ見たって教えてくれた」
また君か。
自分のせいで僕が苦境に立たされたことを、ミカちゃんは知らないのだろう。
「んーで、何あったのー? お姉ちゃんに聞かせて聞かせてー!」
「いつから夏乃が僕のお姉ちゃんになったのかな?」
「一昨年?」
「……また伸びたもんねー、ほんと」
平均を優に超す長身だ、気にしないはずはないだろう。
けれど、それを気にかけるのは僕の役目じゃない。気遣いと腫れ物扱いは違うのだ。
「でさ、話戻すんだけどね?」
「ちっ。折角逸らしたのに」
「相変わらず舌打ちが下手っすなー」
からからと笑う夏乃は僕の後ろに立ったまま、上半身だけソファに寄せる。
耳の後ろで吐息が漏れて、ドキリとはしないけどむず痒くはあった。衣織への想いを知って以来、夏乃は距離が近い。元々仲の良い兄妹だったところに加え、同性が好きとバレては異性と意識されないのも頷ける。
意識してほしいわけでもないし、されたらされたで困るけど。
「まぁその、なんといいますか、ケッコンを申し込まれたんですよ」
「まだ十七じゃん」
「その前に男同士なんだけどね?」
「じゃあ結局、またゲームの話ですか」
「そうなるねぇ……」
呆れがちの声を零すのも当然だろう。
出会ったその年には好きになって、もう三年だ。幼馴染の十年越しの恋、なんて話はドラマ的だけど、現実にそれだけ長いこと想いを告げられないなら奥手どころの騒ぎじゃない。
こと中高生にとっての三年は、あまりに長いものだ。
半年でさえ想い人が変わり、一年もすれば人間関係そのものに大きな変化が生まれる。
クラスが別々になっただけで恋人と疎遠になり、そのまま破局……なんて話さえ珍しくはなかった。
「それで、どうしたの?」
「どうしたって?」
「オッケーしたのって話」
誤解は、どうせしていないのだろう。
「したよ、そりゃ。断る理由もなかったし」
「でもさーレイ君? そういうのって、余計に動きづらくなりません?」
「なんか人生の先輩ヅラがムカつくんだけど」
「私は日々ちゃんと勉強してますから!」
何を教材に誰と勉強しているのかは聞かないし、聞きたくもない。
僕はナマモノというのは嫌いだ。妄想するのは勝手だけど、それは現実と線引きすべきものである。
「まぁ真面目に言うと、こういうのは外野の方がよく見えるからね」
後ろから半ば抱き着く格好のまま、夏乃は優しげに呟く。
僕は母に似て、夏乃は父に似た。
それだけの差が、僕たちの距離を縮めている。
「私はさー、本気で応援してるんだよ? レイ君。昔から友達少なかったのに、中学入ったらもっと引っ込み思案になっちゃうし。そういうとこ心配してたから、家にオリ先輩連れてきた時は嬉しくってさー」
とかなんとか言っている夏乃だが、僕は知っている。
衣織が初めて家に来た時は緊張して、我が家にもかかわらず借りてきた猫のようになっていた。今でも実際に会えば、前ほどではないにせよ緊張する。要は夏乃自身、ただ兄の友人とは思っているわけじゃないのだ。
「それ、どこから母さんの受け売り?」
「えーっと、昔から友達少なかったの辺りから?」
「僕は泣いた方がいいのかな?」
なんだって実の母と妹にそんなことを言われなくちゃいけないのか。
「でも応援してるのは私の本心だよ」
「で、その更に奥の本心は?」
「レイ君が本当にオリ先輩と結婚したら、オリ先輩のことお兄ちゃんって合法的に呼べるんだよね?」
ダメだこいつ、手遅れだ。
呆れてため息をつき、ふと笑いが零れる。
うん。
そろそろ、本当に大丈夫。
「ま、もしリアルでプロポーズされても、日本じゃ結婚できないけどね」
こんな馬鹿馬鹿しい話にでも付き合ってくれる相手がいるというのは、素直に有り難いことだろう。
それが妹で、妹のくせに僕より背が高いとしても。
「海外行けば?」
「んな無茶苦茶な」
「恋の前には些細な問題でしょ!」
全然些細でもなんでもない。
第一、言葉とかどうするんだ。僕は英語なんて、絶対に無理だし。
「あー、でも」
「ん?」
「衣織が英語ペラペラだったら、それはそれで嫌だな」
「えー、なんで。カッコいいじゃん!」
「顔が良くて頭が良いのに運動も悪くなくて、その上英語までできるとか反則です」
「なるほど。……なるほど?」
「考えなしの相槌どうもありがとうございます」
まぁ実際問題、衣織も英語はダメなんだけど。
そもそもやる気がある時とない時の落差が激しいのが衣織だ。英語に関しては「できなくていい。できない方がいい」と宣言までするほどだった。
英語の何がそこまで拒絶反応を引き出すのか興味はあるけど、兎にも角にも衣織とて完璧ではない。それこそゲームに万能職が存在しないのと同じだ。世界に完璧超人は存在しない。バランスをぶち壊す偉人がいなかったとも言い切れないけど、それはバグか何かだろう。
そうやってゲームに例える自分を見つけ、また笑ってしまった。
「どしたん?」
「んー、そういえば衣織の趣味がネトゲってのも今思えば意外だったなって」
HGR――。
ヘブンズゲート・リベリオンに初めてログインしたのは、中学三年の時だった。キッカケは僕が高校入学を前に自分用のPCを買ってもらうと話したことで、それならデスクトップがいい、面白いゲームがあるから一緒にやらないかと誘われたのだ。
当時は衣織に誘われたってだけで嬉しくなって一にも二もなく頷いたけど、あの頃のクラスメイトなら誰でも、衣織の趣味がネトゲといえば驚き、疑うだろう。
学校とはとかく排他的なものだけど、中学のそれは高校よりひどかった。
悪いものが悪いとされる風潮は良いことだと思う反面、それが時に過剰な排斥をも招く。
衣織も、その重圧を受けた一人だった。
「僕のこともいいけどさ、夏乃は大丈夫?」
可哀想とは思わない。
何故だか知らないけれど、衣織は自ら重圧を背負っていたように思う。
完璧でもなんでもないのに、人から望まれれば完璧超人でも演じてみせた彼。
僕もまた、彼に何者かを演じさせている一人かもしれない。
「私はまぁ、大丈夫だよ」
「本当に?」
「信用してくれないの?」
「そりゃね。夏乃は大人びた見た目してるから、中身まで大人びてるみたいに見られちゃう」
対して僕は、小中高と変わらぬ子供扱い。
嫌気が差すことはあっても、煩わしくなることはなかった。
「あーね。でもそれはダイジョブ。生意気なこと言ってくる男はミカちゃんが黙らせてくれるから」
どんな手段で、と口から出かかった言葉を呑み込む。
「程々にね」
代わりに返した言葉の意図は、果たして理解してもらえただろうか。
「んじゃーま、髪乾かしてくるかなー」
ソファから身を離し、最後にぽんぽんと頭を撫でてくる二つ下の妹。
そういう扱いを嫌と思っていたのは、どれほど前のことか。
たったの三年で人は変わるものだ。
「手伝おうか?」
「レイ君、女の子の髪なんて乾かせるの?」
「女の子のは無理でも、妹の髪くらい乾かせます」
あの頃の僕が今の僕を見たら、一体どんな顔をするのだろう。
驚く?
それとも、怒る?
まぁ、いいか。なんでも。どうでも。
「んー……。じゃあ、お願いしちゃおっかな」
「はいはい」
ぱたぱたと駆け出す背中を追って、洗面所に向かう。
夏乃は早くもタオルを解き、洗面台の前で引っ張ってきた丸椅子に座っていた。
リビングにいた時とは反対、僕が後ろに立つ。大人びた、それでいて無邪気な顔が、頭越しの鏡に見えた。
「伸びたね、ほんと」
肩甲骨を半ばまで隠す後ろ髪。
「まだまだ伸ばすよ」
「手入れが大変そうだ」
「それはまぁ、そうだけど。……っていうか、そういうレイ君は?」
「僕?」
僕は別に伸ばしちゃいない。
小学校の頃は伸ばしていた、というより切ってからかわれるのが嫌だったから極力切らなかった。けれど、高学年になってもまだ女の子に間違われることがあって、そっちの方が嫌だったから伸ばすのはやめたのだ。
まぁそれでも、男子にしては少し長めではある。
「レイ君は伸ばさないの?」
「えっと……、なんで?」
既に耳が隠れる長さだ。これ以上伸ばすのは、ちょっと抵抗がある。
いや、長さそのものは今でも衣織と大差ないんだけど、僕はアレだ、背が低い。
「だってレイ君、そこそこ女の子っぽい顔してるんだしさ。髪伸ばしたらワンチャンいけない?」
「いけるって、何が……?」
薄々察しは付きつつも、認められずに訊ねてしまう。
「オリ先輩とのことに決まってるじゃん。髪伸ばしてスカート穿いたら、普通に手とか繋いで歩けると思うんだよ」
まさかの予想の上だった。
手を繋ぐも何も、僕と衣織はそういう関係じゃない。
「あのさ夏乃、こんなこと言わなくても分かってると思うんだけど」
「分かってるよ? まだ付き合ってないって言うんでしょ?」
「まだって何!?」
反射的に叫んでしまい、はっと口を押さえる。
母さんも父さんもとっくに寝た後だ。起こしてはいけない。
「僕と衣織は、そういうんじゃないし……」
反動で必要以上に声を潜め、独り言つように零す。
「そういうんじゃないけど、そういうんになりたいんでしょ?」
「そりゃ……まぁ、そうだけどさ?」
妹相手に、僕は一体なにを言っているんだろう。
力なく手を置いたところが湿っていて、髪を乾かしに来たのに未だドライヤーすら準備していないことを思い出す。
「じゃあレイ君は、このままでいいの?」
「良いとか悪いとかじゃ、ないじゃん」
「そうやって逃げるのがレイ君の悪い癖だよ。逃げたってオリ先輩は追い掛けてきてくれないよ?」
「別に、追い掛けてきてほしいわけじゃないし」
「だったら追い掛けなくちゃ。レイ君から。積極的に!」
他人事だからって偉そうに好き勝手言ってくれる。
「積極的に追い掛けて、それでフラれたら? 嫌われたら?」
「すっぱり諦める!」
それができたら苦労しない。
言おうと思ったけど、やめた。鏡越しに目が合ってしまって、咄嗟に逸らす。
「それじゃあ、ずっと隠しておくの?」
静かな、落ち着いた声音。
いつの間にこんな大きくなったのかと、鏡をじっと見てしまう。
「男同士だって。ただの友達なんだって思ってるオリ先輩のこと、一番近くからそういう目で見てるの?」
グサリと突き刺さる言葉。
いいや、突き刺す言葉か。
鏡の中から、二つ下の妹が優しく笑いかけてくる。
「私ね、昔はレイ君のこと、お嫁さんにするんだって思ってた」
「えっ? 僕のお嫁さんじゃなくて?」
「うん。レイ君がお嫁さん」
そして、いきなりとんでもないことを言い出す。
というか、そんな風に思われていたのか。
「……聞きたくないんだけど、どうして?」
「レイ君、可愛いから」
なんだそりゃ。
鏡の中の僕が口をへの字に曲げていた。
「レイ君は可愛いね、夏乃ちゃんはカッコいいねっていつも言われてさ。じゃあ私が旦那さんで、レイ君がお嫁さんなんだって思ってた」
なるほど?
分かるような、分からないような。
そもそも僕たちは兄妹で、結婚なんて想像もしないと思うんだけど。
「レイ君のこと守るんだって、ずっと思ってたの」
「あぁ、なるほど」
「え、今の納得されるところ?」
「いやごめん、こっちの話」
守らなくちゃ――。
それで、お嫁さんか。なるほど。夏乃は良い旦那になると思う。だから是非とも、可愛いお嫁さんを連れてきてほしい。どこの馬の骨とも分からん男なんて断固反対だ。
「でもさ、小学校に上がったくらいかな? もうちょっと後かな? あ、私とレイ君って結婚できないんだって気付いたの。しかも私、旦那さんじゃなくてお嫁さんになる側なの」
「そういや夏乃、一昨年までサンタさん信じてたもんね」
「……ッ! そういう話はいいの!」
多分、ミカちゃんと出会わなければ、未だに赤ちゃんはコウノトリが運んでくるものだと信じていただろう。おのれミカちゃん。
「けど、レイ君さ。あんまり思い出したくないかもしれないけど――」
夏乃は一瞬、目を伏せた。
大人びた姿によく似合う、物憂げな表情。
「中学に上がってからさ、あんまり笑わなくなったじゃん?」
「えっ……?」
そう、だっただろうか。
思い返してみる。
そうだったかもしれない。
「学校で何があったかは教えてくれなかったけど。聞かなかったけど。聞かないけど」
「何もなかったんだけど」
「いや、大丈夫。私はレイ君の味方――」
「ごめん、本当に何もなかったんだけど」
沈黙。
それから、恨めしげな眼差しが鏡越しではなく、直接向けられる。
そんな目で見ないでほしい。
「何もなかったんだよ、本当に。悲しいこととか、辛いことはなかった。でも同じくらい、楽しいことも嬉しいこともなかった」
それが僕の中学一年生。
振り返ってみれば、小学校も似たようなものだった。
「……けど、二年になってからは笑うようになったじゃん?」
「うん。衣織と出会った」
衣織とは隣の席だった。衣川と清水は、揃って前から三番目。衣織は一番奥の窓際で、僕はその隣、奥から二番目の列だった。
あれは中学二年の、春のことだ。
静かで、落ち着いていて、中三になった今の夏乃よりよほど大人びていた。
いや、大人だった、と言ってしまっていいだろう。
「オリ先輩が初めてうちに来た日のこと、覚えてる?」
「夏乃が借りてきた猫みたいになってた」
「だ、か、ら! そういう話じゃないんだって!」
真っ赤にした顔をぷんぷん振って、夏乃が僕からも鏡からも目を逸らす。
「カッコいい人だなって思った」
「うん、そうだね」
「昔の私よりカッコよかった!」
すごい自信だ。
……って、そういうことか。
「良い旦那さんになりそうだった?」
「ん。レイ君のこと、大切にしてくれそうだって思った」
当時はまだ小六だったはずだけど、早くも親目線である。
「だから二人には、末永く幸せになってもらいたいんです」
そっか、とだけ頷いておいた。
でも、そう単純な話じゃない。簡単なことじゃない。
「可愛いからお嫁さん、カッコいいから旦那さん」
何気なく呟いて、ドライヤーを手に取る。
髪に巻いていたのとは違う、乾いたタオルを夏乃の頭に置いて、風を当てる前に軽く拭く。
「そんな子供じゃなくなったんだよね。僕たちは、とっくに」
タオルの下、表情を隠す前髪の奥。
夏乃の瞳がどんな色をしているのか、僕に確かめる術はなかった。
「まだ、子供だよ」
「そうだね」
「でも、大人になっちゃう」
ドライヤーのスイッチを入れる。
フオオゥと唸り声を上げ、ドライヤーが温風を吐き出した。
「もっとずっと、言い出しづらくなっちゃうんだよ……?」
夏乃の声は聞こえなかった、振りをした。