二十一話・前
ヒュウと吹き込んできた風が足を撫でる。
予想外の冷たさが身を震わせ、集中の糸が切れた。
もう冷え込む時間かと窓を見やるも、まだ外は明るい。
視線を画面に戻し、PCの時計を確かめれば、しかし既に六時を回っていた。
「……そういえば、そろそろ夏至か」
細かい日付までは覚えていないけど、確か六月だったはず。
日は長くなり、窓からの冷たい風も、突き刺すような寒さから撫でるような涼しさに変わりつつある。
時間は遅々と、けれど確実に進んでいた。
余裕は、ない。
とはいえ、急いては事を仕損じる。
大きく一つ伸びをして、意識をPC画面――HGRから引き剥がす。
夕飯にはまだ早い時間だけど、小腹が空いていた。チョコか何かあったはずだから、それを食べながらコーヒーでも飲もうか。
考えながら席を立ち、部屋を出る。
廊下を歩いていくと、リビングの方から賑やかな話し声が聞こえてきた。
母さんは買い物に出ていたはずだけど、もう帰ってきたのか。
まぁ六時なら帰っていても不思議はないか。集中していなら、気付かなかったのも無理はない。
……ん?
あれ、もっと根本的な何かを忘れている気がするけど、なんだったか。
何かあったかなぁ……、なんて呑気なことを考えつつリビングのドアを開け、ようやく思い出した。
そうだ、そういえばミカちゃんが来ていたんだ。
突然ドアが開いたからだろう、L字のソファの縦線と横線部分、それぞれに座っていた二人が揃って勢いよく顔を上げた。
そして、目を見開く。
「なっななな――」
「ほう……」
夏乃がパクパクと言葉になっていない声を上げ、ミカちゃんが何事か感心している。
急にどうした。
僕の顔に何か付いてる?
――なんて定番の冗談を口にしようとした時だった。
「れっ、レイ君! なんて格好してるのっ!?」
顔を真っ赤にして、夏乃が叫んだ。
それどころか、勢いのままに立ち上がってパタパタと走り寄ってくる。ミカちゃんも好奇心満点の顔で近付いてくるから、そこでようやく違和感が生まれた。
僕の格好?
至っておかしなところはない部屋着の……部屋着のはず、で――。
「あっ」
しまった。
と気付くも時既に遅し。
「ほうほう、レイさんって家じゃ裸ワイシャツで過ごしてるんですね」
「ちっ違うよっ!? 普段はもっと普通なんだよ? こんな変態さんじゃ」
「いや変態じゃないから!」
ぴしゃりと言い放って、ため息をつく。
別にそんな焦ることじゃないよ、取り乱すことでもないよ、と言外に伝える。
「ちゃんと下にショートパンツ穿いてるから」
言いながらワイシャツの裾をめくってみせる。
何も見られて恥ずかしいものではない、はず、なんだけど……。
すぐ目の前から、僕より背の低いミカちゃんにじっと見据えられると、なんだか悪いことをしている気にさせられる。
「裸ワイシャツのチラ見せたくし上げ。高得点」
「だから裸じゃないから!」
「レイ君! そういうはしたないのやめなさい!」
「何がっ!?」
まだ顔が真っ赤の夏乃が妙なことを言い出す。
恥ずかしさから目を逸らしているわけでもなく、僕が曲がりなりにもズボンを穿いているのは見えたはずだけど。
なおも何事か言おうとした夏乃は、しかし勢いが続かずに咳き込んでしまう。
傍目にも若干危なそうに見えるほどで、ミカちゃんに背中をさすられて落ち着いてからもぜえぜえと肩で息をしている始末だ。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「レイ君、ちょっと黙ってて」
言われてしまえば、流石に喋る気にはなれない。
お笑い番組で一度ツボにハマると、なんでもないことですぐに笑って腹がよじれるのと同じだろう。今の僕は、ただ喋るだけで夏乃の肺にダメージを与えかねないらしい。
「こうしてレイさんは一歩ずつ女装に慣れ親しんでいくんですね」
「うん、君が一回黙っててくれる?」
人が黙る気になった途端、これである。
僕も僕だけど、夏乃も夏乃だ。友達は選んだ方がいい。
「でもレイさん、想像してみてください」
「嫌だ」
「女装している自分自身を思い描くんです。ミニのスカートを穿いて、上もそんな地味なワイシャツじゃなくて、ふんわりしたブラウスなんか着ちゃって。髪は今のままでもいいですけど、もう少し長めのウィッグを付けてもいいですね」
人の意見なんかお構いなしに妄想を垂れ流す様は、敵ながら天晴と言うべきか。
「そのブラウスをオリさんの部屋で脱ぐんですよ。でもスカートだけは穿いたまま、パンツだけ脱がされちゃうんです。ウィッグも付けたままの方がいいですかね? 裸を隠すものはスカートだけって姿で優しく抱き締められて……。でも最後には、後ろから激しく突か――」
「はいストップ」
想像はしていたけど――いや、そっちの想像じゃなくて。
ミカちゃんの脳内が腐りに腐っているのは知っていたし、だとするなら話がこういう方向に流れていくのも想像に難くなかった。今更驚くことでもないだろう。
「人んちのリビングでなーに腐った濡れ場の音読会してんの?」
「止めるの遅くないです? ねぇ止めるの遅くないです? 実はちょっと想像しちゃってたんじゃないですか?」
してない。
心の中で即答し、現実には口を閉ざす。
そうしたら、
「……ボロが出ないように黙るの、ずるいと思う!」
妹に裏切られた。
君はそっちの味方だったか。いやまぁ、そりゃそうだ。彼女らは同好の士である。
「あ、もう落ち着いた?」
「やっぱり私のスカート貸すよ? お古だから汚しちゃっても大丈夫だし」
「よし、ちょっと落ち着こっか」
なんだって妹のお下がりをあんなことやそんなことに使わなくちゃいけないのか。
というか、そもそもの前提から間違っている。
後ろから激しく? 初めてくらい、やっぱり普通に前からの方がいいだろう。そりゃ、まぁ、衣織がそっちの方がいいというのであれば別だけど…………いやいや、しかし。
「このむっつりめ」
「いやー、レイ君の場合むしろオープンしちゃってるかなー」
はっと我に返るも、時既に遅し。
なんだか今日は、致命的に遅れを取りすぎている気がする。
いつもか。
ミカちゃん相手だと、どうにも調子が狂う。嫌いっていうのとは違うけれど、とことん苦手なタイプだ。自分のリズムが掴めなくなる、という意味では衣織にも近い。
「で、それで、えっと、そうだ、二人は何してたの?」
「下手くそか」
「話逸らすの下手くそか」
息ピッタリに攻めてくる二人だけど――いや、この子たちの前で攻めとか受けとかいうのは禁句だな。
息ピッタリに茶々を入れてくる二人だけど、流石にこれ以上この話題を引っ張る気はないらしい。
「ちょっと秘密の話があってですね」
ミカちゃんが僕の正面から半身を引いて、先ほどまで二人して座っていたソファの向こう、食卓にも使われるテーブルを示す。
遠目ではよく分からないけど、アニメ調のイラストが見えた。
いつものアレか。
「程々にね」
「……? 何かと誤解してませんかねぇ」
「誤解? 僕の想像と違うなら、それはそれでいいんだけど」
普段の行いが行いだ。
男の僕としては、あまり深入りしたいとも思わない。
「けど、安心してください」
何が『けど』なのか分からないけど、ミカちゃんが神妙に態度を改めた。
「ボクもそろそろ準備しなきゃなんで、お邪魔することも減ると思いますから」
準備?
なんの?
と、疑問符が浮かんだのも数瞬のこと。
彼女らは中学三年生、何はなくとも高校受験が待っている。
「なるほど、受験勉強か」
「えぇ、まぁ」
「ミカちゃんはやっぱり、この辺の高校行くの?」
ここら一帯の中学生は大抵、僕たちが通う高校か、その一つか二つ向こうの高校に進学する。それぞれ普通、商業、総合と科は違うものの、中学生の判断基準は学力と通学にかかる時間。
それ以外だと親の母校を選ぶとか、そんな程度だ。
重要なのは大学であって、高校なんてあくまで通過点。
そういう風潮が根強く、農業高校でさえ『学力が足りない生徒が仕方なく行くところ』みたいな扱いを受けることも多い地区にあって、わざわざ遠方の女子校を選んだ夏乃は少数派も少数派だった。
しかし、類は友を呼ぶという。
「いえ、高校は結構離れたとこですね。だから一人暮らしする予定です」
へぇ、と無意識の声が零れる。
らしいといえばらしいけど、高校生の一人暮らしなんて親御さんはよく認めたものだ。
特にミカちゃんは、趣味こそ特殊なものの女子中学生然とした小さく可愛らしい容姿をしている。不安に思うのが自然だろう。
そう心配しているのが怪訝に映ったのか、脇に立つ夏乃が目を細めた。
「……レイ君」
「えっと、なに?」
「なんで納得してる感じなの?」
「えっ……?」
納得したつもりはないんだけど。
なんて馬鹿正直に答えても話が前に進まないことは、十数年の兄妹付き合いで心得ている。
こういう時は反射的に否定するのではなく、具体的に言葉にするのが大切だ。
「いやいや、よく親御さんが許してくれたなって、そこはちゃんと疑問に」
「はあぁ~……」
けれどこれ見よがしのため息で返され、選択を誤ったことを知る。
「疑問を持つとこ、そこ?」
「他にどこに疑問を持てと?」
そりゃあ高校生の一人暮らしは珍しい。
そもそも、そんな遠方の高校を選ぶこと自体が珍しいのだ。
ただでさえ親を説得するなんて中学生にはハードルが高いのに、その先に待つ一人暮らしは、僕たち未経験者が憧れるほど楽しいものではないだろう。
しかし、そこはミカちゃんだ。
バイタリティの一点においてなら、僕は彼女以上の逸材を知らない。
「まぁ知ってたけどさ。レイ君はそうだよね、そうだったよね」
呆れ顔の夏乃が何を言っているのかまでは、僕には分からない。
ただ、どうもミカちゃんの表情も見るに、それは共通見解らしかった。
「レイさんって、ほんと他人に興味持たないですよね」
「興味持ったから高校のこと聞いたんだよ?」
「だったらどこの高校行くかまで確かめると思うんだよね、普通」
夏乃に普通を説かれたくはない。
それに今の時代、高校は義務教育ではないものの通うのが当然とされている。
その裏返しとして、周りと同じような進学ができない生徒は、卒業前から目立ってしまうことがあった。イジメというほどではなく、だからこそ余計、声を上げづらい腫れ物扱い。
特別深い仲でもなければ、わざわざ確かめるのも野暮だろう。
未だ現役中学生、本当の意味では受験前の緊張感を知らない二人には想像しづらいのかもしれない。
「まぁ、そういうのは深く聞かない方がいいのかなと」
「友達なのに?」
「いや夏乃は友達だろうけど、僕はあくまで友達の兄ってだけで――」
「えっ?」
「え?」
ミカちゃんが不意に素っ頓狂な声を上げ、僕も釣られて首を傾げる。
傍らで、夏乃が目をまん丸くしていた。
「レイ君?」
「……なに?」
「レイ君とミカちゃんの関係性って……?」
「そりゃ、ミカちゃんは妹の友達で、僕は友達の兄だよね?」
まだ何か、どこかに行き違いがあるのだろうか。
「あ、お兄ちゃん?」
「言い方の問題じゃないからね?」
何故か苛立ちを見せる夏乃と、その肩をぽんと叩くミカちゃん。
「大丈夫だよ、夏乃。ボクは知ってたから。知ってるから」
何をだ。
三人で話しているはずなのに、さっきから僕だけ話についていけない。
「なんだかよく分からないけど……とにかく、一旦座ろ? 家ん中で立ち話ってのも馬鹿みたいだし」
ひとまず二人をソファに座らせ、僕自身はキッチンに向かう。
帰ってきてすぐは暑いからとショートパンツに手を染めたけど、今は少し寒いくらいだ。
薬缶を火に掛けながら、リビングの方に向き直る。
「二人は何か飲む?」
「いつもので」
と、即答してきたのはミカちゃん。
「えーっと、ミカちゃんはいつも何飲んでるの?」
「それが答えだよ、レイ君」
「……?」
僕が首を傾げると、リビングには沈黙が漂う。
唐突になんの話をしているのか。
勿論、先ほどの話が続いていることは理解している。確か、ミカちゃんの進路や他人に興味があるないだったか。
しかし、それとこれと、どう繋がるんだろう。
最近はあまり来なかった、来てもすぐに夏乃の部屋に引っ込むミカちゃんの『いつもの』なんて、興味があったからといって覚えているものだろうか。
「ボクは生粋の紅茶党なんですよ、レイさん」
「へぇ、そうなんだ」
「『へぇ、そうなんだ』ってねぇ……」
またも夏乃は呆れているけど、それ以外にどう反応しろと。
そうなんだ、じゃあ紅茶入れるね、とでも答えればよかったのか。
「ちなみにオリさんは把握済みです」
「え、なんで?」
「はいここ、テストに出ます」
最早わけが分からない。
そもそも話が噛み合っていないのか、それとも単純に二人がふざけているだけなのか。
「要するに、レイ君はオリ先輩以外に興味持たなすぎって話ね」
そこまではまだ理解できる……というか、文脈から読み取れる範疇だ。
それと高校や紅茶とがどう繋がるのかは分からないけど、まぁ衣織ほどの興味を衣織以外に抱くかと聞かれれば、そんなの否に決まっている。夏乃ならまだしも、仮にミカちゃんであっても衣織と同等の興味なんて持てない。
けれど、そんなの当たり前じゃないのか?
好きな人、大切な妹。
その二つをニアリーイコールで繋ぐことはできても、他はどう足掻いても不等号、大なり小なりである。
そんな僕の内心を見透かさない夏乃じゃない。
「レイ君って、中一の時に友達いなかったでしょ?」
抉り込むような危険球だが、何も狼狽えるほどのことではなかった。
「そうだね。衣織と同じクラスになったのは二年からだし」
「そのこと、少しでも寂しいって思った?」
思い返すために要した時間は、ほんの数秒足らずだ。
「そりゃまぁ、退屈ではあったかなぁ」
「はぁ。そういうことだよ」
どういうことだよ。
即答しようと思えばできたけど、それ以上に黙るべきだと理性が訴えた。
言わんとするところが少しずつ見えてくる。
なんで急に、とは思ったけど、その考えすら間違っていたのか。
ミカちゃんは遠くの高校に進学し、一人暮らしを始めるという。家によってまちまちだろうけど、女子高生の一人暮らしとなれば、一年以上は前から入念な下調べをしたいと思うのが親心だろう。
もし昨日今日で決まったことでないとするなら。
ずっと前から一人暮らしを決めていて、更にはそれだけの行動を起こさせるだけの何かがミカちゃんの胸中にあったわけだ。
気兼ねなく女性向けの漫画を読むため、なんて理由で高校を選ぶはずはない。
他の何か、僕の知らないミカちゃんが存在するのは確かだ。
そして、それは今更言われるまでもない、一個の人間であれば当たり前のこと。
「僕とミカちゃんはさ、あくまで夏乃を介して知り合った仲だよね?」
「えぇ」
「だったら……あんまりこういう言い方は好きじゃないけど、別にいいんじゃない? 嫌い合ってるわけじゃなし。多少距離があるくらい、気にするほどのことでもないと思うんだけど」
ミカちゃんは良い子だ。
どんな趣味を持とうと、そこに異論を挟む余地はない。
彼女がいなければ、夏乃は今頃、笑顔の少ない少女になっていたかもしれない。
それは、裏を返せば。
あくまで夏乃に関わることでしか、僕にはミカちゃんを評価できないことになる。
当然だろう。
僕にとってミカちゃんは、いつ見ても夏乃の隣にいる少女に過ぎない。衣織と違って、彼女と二人で会うことなんて滅多になかった。夏乃以外といる時のミカちゃんを知らないし、ゆえに趣味以外と向き合っているミカちゃんを見たこともない。
「レイ君」
「レイさん」
夏乃とミカちゃんが同時に声を上げ、互いに譲り合う。
僕の背後では、未だお湯の沸かない薬缶がカタカタと揺れていた。
「それじゃあレイさん、白状しますけど」
どうやらミカちゃんが話すことになったらしい。
妙に冷静に考えていられるのは、こういう雰囲気に慣れているからか。
どうして、こんなことに慣れているんだろう。
考えてみれば、話に出てきた中学一年の頃からそうだった。周りが僕に気を遣い、僕は大して気も遣わず。それを咎められたところで、首を傾げることしかできなかった。
そもそも要らぬ気を遣われているのは僕だ。
ただ挨拶される程度ならいざ知らず、遣わなくてもいい気を遣われたがために手間を掛けさせられるのなら、そんなのは押し売りと変わらない。有難迷惑というやつだ。
そういうものには、慣れていた。
慣れていながら、迷惑だと突っぱねることもできずにいたのが僕だ。
そして一蹴してみせたのが、衣織だった。
「レイさん、リーナとは初対面じゃないって言ってましたよね?」
リーナ。
リナちゃん、カタリナのことだ。
僕のことをレイさんと呼び、衣織のこともオリさんと呼ぶミカちゃんにしては珍しく、夏乃とは違う呼び方だったから、なんとなく覚えていた。
苗字は確か阿久津……じゃなくて、圷だったか。こちらも珍しくて覚えている。
なんだ、意外と他人に関しても覚えているじゃないか。
「じゃあ初めて会った時、どんなこと話したんですか?」
「……へ?」
考え事をしていたせいで、言葉を一つか二つ、聞き逃しただろうか。
記憶を辿ってみるも、そんなことはない。
「話? なんの?」
僕とカタリナの、本当の初対面の時。
それは同時に、衣織が渚さんと歩きながら話す声を耳にした時でもある。
ちらと夏乃を見やれば、いつになく神妙な顔で俯いていた。
「ごめん」
「……別に、謝るほどのことじゃないけど」
けど、まぁ、あまり言い触らされて面白い話でもない。
片思いしている男が、知らない女と仲良く話しているところを目撃した。
そんな話、周りに知られて嬉しいはずがないだろう。
「でも、それなら話が早いかな」
思い返すほどのこともなく、答えは出ていた。
「ろくに何も話してないよ。そもそも、それどころじゃなかったわけだし。アトリエが夏休みにはオープンするとかで、カタリナが私たちでも楽しめるって言ったから、じゃあ同い年くらいなのかなーって思ったくらいで」
それもお互いに同じ誤解をしていたわけだが。
僕はカタリナを高校生と思い、カタリナは僕を中学生と思った。
高校生にしては小柄な僕と、中学生にしては育ちの良いカタリナだからこその不幸な行き違いである。
他には、本当に何もなかった。
僕はただ顔を隠すためにアトリエの方を向いただけで、カタリナもカタリナで手伝いか何かをしていただけだろう。
「本当にそれだけ?」
夏乃が訊ねてくるも、過去が変わることは有り得ない。
「レイさん、リーナのフルネーム、覚えてます?」
代わる代わる訊ねられても、やはりだ。
幸い、三角形に近かった先ほどと違い、今はリビングとキッチンとで向かい合う格好になっている。
気が散るということもなく、答えはすらすらと言葉にできた。
「圷カタリナ、だったよね? 流石に覚えてるよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……そりゃ、珍しい名前だし?」
「レイさんの方から聞いたんですか?」
「まさか。ほぼ初対面の女子中学生相手にいきなりあれこれ聞くわけないじゃん。聞く前に向こうから名乗ってくれたよ」
あの時はお互い、普通じゃないテンションに陥っていたはずだ。
そう仕向けたのが今まさに眼前にいる二人である。
「じゃあ、あの四国ネタをレイ君も聞かされたわけだ」
「そうだね。ミカちゃんが爆笑したんだとか」
「不覚にも」
「それでレイ君も自己紹介したと?」
「え、本州出身ですって?」
「いや、そうじゃなくて……」
夏乃が言い淀む――と、背後でシューシュー鳴る音があった。
目礼だけして背を向け、インスタントコーヒーを入れる。
キッチンに立ったままコーヒーを一口含み、続く夏乃の言葉を待った。
「単刀直入に聞くけど、レイ君ってリナちゃんに名前教えた?」
「名前……? 僕は清水怜乃ですって?」
「そう。フルネームで」
妙なことを聞くものだ。
しかし、ここまで露骨に根掘り葉掘り聞かれれば、僕でも違和感には気付けた。
「……いや、そもそも名乗ってないね。怜乃さんですかって話しかけられたから、夏乃が教えてるもんだと思ってたけど」
というか、教えるまでもなく兄の名前くらい知られているものと思っていた。
しかし、よくよく考えれば、夏乃もミカちゃんも僕のことは『レイ』としか呼ばない。それでも普通、どこかの場面でフルネームを呼ぶことはあるだろうけれど……。
ただ、この二人のことだ。
「教えてないんですよ、ボクたち」
ミカちゃんが、小さく呟く。
「ポリシーじゃないですけど、まぁ似たようなもんですね。夏乃はほら、ニックネームに一家言ありって感じじゃないですか。だからボクが横から割って入るのはどうかなと」
「一家言はないですが、レイ君のことはレイ君と呼ぶと決めています」
「んん? 時々ちゃん付けしない?」
「今はそういうややこしくなることには触れないでください」
都合の良い時だけ逃げるのはどうかと思うけど、今ここで掘り返すことじゃないのは確かだ。
深刻そうな二人を見ていると、なんだか本当に深刻なことに思えてくる。
ただ冷静に考えると、友達に僕の名前が知られていたからなんだっていうのか。
まさか妹の友人を装って高い絵画を売り付けるわけじゃあるまい。
いや、そういえばカタリナはアトリエで――まぁ、それこそまさかだ。
そもそも友達を装うも何も、カタリナには夏乃の方から接近したはずだろう。
「で、結局なんなの?」
そろそろ埒が明かないし、あまり友達を疑うような真似はしてほしくない。
思うところがあるなら、はっきり言葉にすべきだ。
「いえ、その……違和感はあったんですよ、ずっと」
「何に?」
「リーナの態度に、ですね」
ミカちゃんが前髪に隠れていない右目を細め、それっぽく呟く。
「けど、まぁリーナはアレですからね。大それたことなんて考えないだろうって思ってたんですけど」
「ですけど?」
「色々考えていくうちに、一つ心当たりができまして」
それはなんだ。
いつもの悪ふざけなら、どれほどよかったか。
「レイさん、オリさんのことって、リーナには話してないですよね?」
咄嗟には記憶を辿れず、暫し黙り込んでしまう。
その沈黙を、答えと受け取ったのだろう。
「それと、文化祭のポスターを描いた人のことなんですけど、あれってオリさんが教えてくれたんですよね?」
「えっと……そうだね。秋月渚さん。僕たちより二つ上の、中学時代の先輩ってことになるね」
イタリア行きにも関わってくる話だ。
歯切れが悪くなってしまったのは許してほしい。
「……って、ん?」
ポスターの絵?
――いや、まさか、それこそ出来すぎた偶然だろう。
「レイ君、こっち来て、これ見てくれる?」
夏乃が指し示すのは、テーブルに広がった薄い紙の束。
遠目にも綺麗なイラストが見えて、いつもの趣味のものかと思っていたけれど。
言われるがまま近付き、覗き込んでみれば、それが漫画やいかがわしいイラストではないと分かった。
拙い線で描かれた、黒い髪の青年。
どこかで見たことがある。どこだ。記憶を辿っても思い出せず、禁じ手に頼る。
純粋に記憶を辿るのではなく、話の流れからおよその見当を付ければいい。
ついぞ思い出せはしなかったけれど、候補は二つ、浮かんできた。
「何かのキャラクター、だっけ?」
確か、珍しく夏乃が早起きしていた朝のことだ。
早口であれこれ捲し立てられたから大筋しか覚えていないものの、公式グッズが出ないような作品なのにカタリナが缶バッチを付けていたとかなんとかで……。
「これ、ネットで公開されてる小説の挿絵なんだよ」
「ネットで? って、ネットマガジンみたいな?」
「違う違う。素人が趣味でやるようなやつ。だから挿絵があるだけで珍しいんだけど……」
まぁ、そうだろう。
多彩な芸を持つ人も中にはいるけど、天は大抵二物を与えない。
小説を書きながら挿絵まで自作できるような人が、一銭にもならないネットで趣味に明け暮れるなんて稀でなければ困る。
「それでね、この挿絵とポスターのタッチがすごく似てるんだけど……もう一つ、これにも似てるの」
そう言って差し出してきたのは、一枚の写真。
一目見た程度だけど、それは僕にも見覚えがあるものだった。
カタリナが鞄に付けていた缶バッチだ。言われてみれば似ている、ような気がしないでもない、黒髪の青年。
「これ、似てるの?」
「かなり上達してますけど、癖が抜けてないんですよね」
ミカちゃんが平然と言い捨てる。
「君、何者?」
「これでも一応、デザイン系の学校に進もうとしていますので」
そうだったのか。
意外性は、しかしなかった。どうしてだろう。
少し考えて、得心した。ミカちゃん自身の前髪だ。伸ばしっぱなしにしたせいで邪魔になった前髪を片側に寄せているように見えるが、何年も見ていれば気付かないはずがない。
ミカちゃんの前髪は、いつもこの長さだ。
片目だけ隠れているのは妥協の産物ではなく、計算された結果。
そうだとすれば、なるほどデザイン系に進むと言われても違和感はない。
「まぁデザインはデザインでも、絵じゃなくて服なんですけどね」
「おい」
「けど二次絵は散々見てきてますからね。匿名エロ絵も線と塗りで作者を特定してフォルダ分けしてきたボクの手腕、舐めないでいただきたい!」
「誇らないでよ、そんな手腕!」
頭が痛くなってきた。
彼女は、そして僕は、真面目なことを話していたのか?
それとも、なんてことはない世間話をしているのか?
「ちょっと待って、少し整理する」
言葉に出して言って、情報をまとめる。
中心人物はカタリナだ。
だけど、僕にとって重要なのは、彼女じゃない。
衣織だ。
この話に、衣織が絡んでくるとすれば、それはどういう形になるのか。
衣織は渚さんを憧れの人と言っていた。
彼女が描いたポスターと、リースとやらのイラストが似ている。
そのイラストと同じキャラクターを描いたであろうカタリナの缶バッチも、ミカちゃん曰く同じ人が描いたもの。
ただ夏乃曰く、公式でグッズ化はされていない……つまりは大量生産して見ず知らずの人たちの手に渡るような代物ではないらしい。
総合すると、どうなる?
妄想に過ぎないと、そう一蹴したかった。
「それで本題なんですが――」
ミカちゃんが神妙に口を開く。
「レイさんがオリさんと渚さんを見たのって、どこでしたっけ?」