十五話
「……ということがありまして」
月曜日。
普段なら少なからず陰鬱なこの日。
しかし僕の心は晴れやかだった。
なんてったって、今週の中で最も来週から遠い平日である。
素晴らしい。
この上なく素晴らしい。
きっと来週の日曜日に刑が執行される死刑囚は、こんな気分で月曜日を過ごすのだろう。
「いいじゃん。ハーレムだと思えハーレムだと」
「衣織は僕の立場だったら喜べますか?」
「悪いが年下に興味はないなぁ」
「僕も妹と同い年の女の子には全くなんの感情も抱かないよ!」
朝――、家を出て、最寄り駅に向かう最中。
またしても鉢合わせた僕たちは、二人並んで歩道をゆく。
「しかしリナちゃんときたか」
衣織が呟く。
「ミカちゃんは確か、ええっと」
「ウミカな、海に叶うで海叶」
「そうそう。よく覚えてるね」
「お前が覚えなさすぎな。妹の友達くらい覚えてやれよ」
そういう衣織は漢字までばっちり覚えているのか。
「いやぁ、ミカちゃんとしか言われないから、ついね……」
言い訳を述べつつ、夏乃の付ける手抜き……もとい規則的なニックネームを思い浮かべる。
僕こと怜乃はレイ君。
衣織はオリ先輩。
海叶はミカちゃん。
では、リナちゃんはなんていう名前なんだろう。
リナという二文字だけで女の子の名前として普通に聞くし、前に一文字だけ付けるにしてもエリナ、カリナ、サリナとパッと浮かぶだけでも候補は相当数だ。
「まぁ遊び行くなら、その時にでも聞けばいいだろ」
「え、わざわざ?」
「初対面の女子中学生相手にいきなりあだ名って方が厳しくないか?」
言われてみれば、その通りかもしれない。
しかし会って早々に名前を聞くというのも、ハードルが高い気がする。
なんなら、いっそ先に夏乃に確かめておくのも手だ。
「ま、それもこれももとを正せば衣織のせいなんだけどね」
口を尖らせてはみたものの、衣織は悪びれもせずにハハと一笑するだけだった。
なんとも意地悪な男である。
尤も、僕だって帰り道の公衆トイレなりなんなりで着替えられたものを、律儀に家まで着て帰ったのだから同罪といえば同罪だ。そもそも女物の服を着て男子トイレに入れるか、という難題はさておくとして。
駅に着き、他愛のない言葉を二、三交わしながら、いつも通りの電車に乗り込む。
雨じゃない今日は、必然いつか写真を撮られたあの日より空いていた。
衣織と二人、並んで座る。
話す言葉はなかった。
僕も衣織も、喧騒は好きじゃない。人混みに負けじと声を張り上げるのも、相手の声を聞き逃すまいと耳を澄ませるのも苦手だ。
学生が多い今の時間は、いかに静かにするのが常識の電車内とて喧騒に包まれる。
必然、僕たちが口を開くことはない。
何かアクシデントでもあれば別だけど、生憎と座席に腰を下ろしていてアクシデントなど起きようもなかった。
早くも分厚い本を開いている衣織の横顔をちらと見て、また前に視線を戻す。
どんな本を読んでいるのかは気になったけど、盗み見るのは気が引けた。ただ目に入ってしまった限りでは、どうも小説の類いではないらしい。だとしたら訊ねることも躊躇われる。
衣織の進路なんて、気にしてこなかった。
当たり前に大学に進むものと思っていたのに、なんとイタリアに行くという。
イタリアといえばイタリアン、その程度の知識しかない僕だ。下手に突付いて藪蛇になっては困るし、積極的に話したがらないことを無理に聞き出す真似もしたくない。
それで結局、何も言えないまま電車が停まった。
いやまぁ各停だから何度も停まるのだが、今とうとう高校の最寄り駅に着いたのだ。
学生の波が落ち着く頃合いを見計らって、いつの間にか本を仕舞っていた衣織が立ち上がる。僕も続く。
何も意に介さぬ様子でホームを後にしようとする衣織だけど、その歩幅だけは彼本来のものと違っていた。少し狭め、ゆっくり歩いてくれている。無言の気遣いは、当たり前に受け取ってはいけない。
「い、衣織!」
背後から声をかけ、しかし振り返った顔を見ると言葉が詰まる。
ありがとう、とでも言うつもりか?
大袈裟と笑われるのが関の山だ。それでも伝えるのが人として正しい選択なのかもしれないけど、どうにも恥ずかしさが先行してしまう。
「どうした?」
呼び止めたまま何も言えない僕を見透かしたかのごとく、小さく笑う衣織。
その表情を見て、ほんの少しだけ吹っ切れた。
「いや、衣織は優しいなーって」
「夏乃を相手にする時の怜乃には負ける」
「そりゃそうだ。兄の気苦労を舐めないでほしいね」
笑いながら隣に並んで、続く言葉を探す。
……と、そうだ、ちょうどいい話題があった。
「ね、衣織」
「ん?」
「えっと、ちょっと待ってね……」
言ってからスマホを準備していなかったことに気付き、慌ててポケットを漁っているうちに改札まで来てしまう。
定期券で改札を抜け、ようやく落ち着けた。
スマホで昨日保存した画像を出して、それを衣織に見せる。
「これなんだけど、知ってる?」
けれど今度は言葉が足りない。
僕たちが小六だった年の中学の文化祭の……と脳内で説明台詞が駆け巡るも、声に出ることはなかった。
「また懐かしいもん引っ張り出してきたな」
ニヤリと笑った衣織が、然もない風にそう呟いたからである。
「え?」
「中学の文化祭のポスターだろ?」
「え……うん、そうだけど」
「どうやって見つけてきたんだか。いやまぁ、察しは付くか?」
どうだろう?
然しもの衣織とて、この変な時期にやってきた転校生がどうしてか見つけ出したなんて、果たして想像できるだろうか。
「ていうか、衣織はこれ知ってるの?」
「あぁ。直に見たからな。当然、小六の時だよ。家で暇してたら、行くかもしれない中学で文化祭やってるからって親に勧められたんだ。それで暇潰しに行って、これを見た」
行くかもしれない中学。
どんな言葉より、その部分だけが鮮明に響く。
裏を返せば、行かないかもしれない中学だ。僕たちの母校は、それこそ特別な理由がない限り近隣の小学生全員が進学する中学だった。そこに行かない選択肢があるなんて、本当にどういう家庭事情があるんだろう。
というか、もしかしたら中学で出会えていなかったわけだ。
そう考えると、ぞっとしない。
「じゃあ、これを描いた人も知ってる? 夏乃が……じゃなくて、夏乃の友達が知りたがってるみたいで」
とはいえ、今の話だと流石に知らないか。
たまたま出向いた文化祭で、たまたま見かけただけのポスターだ。
しかし――。
運命なんてものがあるならば、それはあまりに皮肉に笑ったものだ。
「わざわざ俺に確かめるかね」
衣織は呆れた声音で呟き、やはり何気ない調子で言い捨てた。
「秋月渚。俺たちより二つ上、……だから俺たちが一年の時に三年だった奴だよ」
ナギサ。
偶然ではないと、本能が叫ぶ。
単なる偶然の一致だろうと、理性が呻いた。
正解なんて、分かりきっている。
「ナギサさん……?」
「ん? 字か? よくあるナギサだが……あれ、どんなだっけ、さんずいに者だったかな。ブツじゃなくて、シャの方のモノな」
秋月渚。
その名で浮かぶ人物は、一人しかいない。
「知り合い、なの?」
喉が乾く。
当たり障りのない、ただ兄として妹との約束を果たすためだけの、なんでもない話題だったはずなのに。
「知り合いも何もなぁ」
衣織は珍しく、困ったように笑った。
「言ったろ? イタリアに行くって。それ言い出したのが渚だよ。海外行くって勇み足しかけて、落ち着いたと思った矢先にイタリアだ。尻拭いとまでは言わんが、追い掛ける俺の身にもなってほしい」
一昨日……いや、もう昨日だったか。
衣織は確かに、言っていた。
憧れの中学の先輩がいると。その人が帰ってきて、イタリアに行く。だから衣織も行く。
結び付いてほしくなかった点と点が繋がって、想像もしたくない現実が明瞭な姿を映し出すようだった。
あの人が、やっぱり、そうなのか。
「絵、描く人なの?」
「あぁ。一応補足するなら画家だな。イラストレーターでも漫画家でもなく、画家。その絵、カラスだけ妙に上手いだろ?」
「カラス……? って、この小さい鳥?」
ポスターの中、素人目にも段違いにレベルが高く見えるそれら周囲の装飾。
「渚は人物画が嫌いでな。それも元々カラスしか描く予定なかったのに、どうしてもってポスターを頼まれたから嫌々描き足したんだ。笑えるくらい下手くそだろ?」
衣織は楽しそうに笑っていた。
だから僕は、思わず目を逸らしてしまう。
「嫌いでも本気になれば、それなりにはできたはずなんだけどな。嫌いだからって手を抜いたせいで、五年も経った今になって掘り返されてやがる。見せてやったら顔真っ赤にするぞ。怒るか恥ずかしがるかは別としてな」
後で俺にも送ってくれよ、と衣織が言った。
どんな顔だったのかは、想像もできない。したくない。
そんな僕を、どんな目で見ていたのだろう。
それさえも当然、僕に知る術なんてなかった。
「怜乃にも、いつか紹介するよ。ちょうどいい機会が、そのうちあるだろうさ」
嬉しそうに、楽しそうに、朗々と言う衣織。
その声だけで笑った顔が想像できてしまって、嫌になる。
僕の知らない、中学一年生の衣織。
当時の彼を、彼女――秋月渚は知っているのだろう。
脳が沸騰し、喉を詰まらせる錯覚。
けれど、なおも止まらない。止まれない。
刻一刻とジリジリと思考が焦げていく。
集中力は有限で、しかし休憩を挟めば、それは届きかけた指の間から零れ落ちていくだろう。
答えのすぐそこまで近付いているように思えて、その実、見当外れの方向に来ているのではないか。
恐怖が脳裏をよぎる。
今までの歩みの全てが無駄だった?
近付いたと思っただけで、いや事実近付いていたとしても、最初から求める答えに辿り着ける可能性なんてなかったとすれば――。
それは徒労などという言葉では足りない、喪失であり絶望であり、筆舌に尽くしがたい何かだ。
「――」
あと一歩。
その一歩を踏み越えるだけの力がないことを、僕自身が嫌というほど知っていた。
知ってしまっていた。
だからこそ、ダメで元々と身を躍らせることが叶わない。
「レイ君っ?」
夏乃の声が聞こえ、集中力がぷつりと途切れた。
いいや、逆だな。
集中力が切れてようやく、夏乃の声が耳に届いた。
「……ごめん」
「こちらこそ?」
PC画面から顔を上げ、二つ下の妹の顔を見上げる。
僕たちを知らない誰もが、夏乃の方が姉だと誤解するだろう。
実際、そうなのかもしれない。
僕が二年早く生まれただけで、肉体的には勿論、精神的にも夏乃の方が成熟している気がしてならなかった。
「大丈夫?」
「分かんない」
「大丈夫って断言しない程度の判断力は褒めてあげます」
そりゃどうも。
声に出したつもりの言葉は、唇を動かすほどの気力を持たなかった。
「ありがとね」
何が?
「お礼、言ったは言ったけど、ちゃんとは言ってなかったから。ありがとうございますって、リナちゃんからも言伝を頼まれています」
「ん」
「私からはそれだけです。レイ君から言うことはありますか?」
何もない。
僕はただ寝て、起きて、ご飯を食べて、それ以外に糖分を補給して、またPCに向かうだけだ。
勿論、学校には行く。それが僕の本業で、衣織と直に接する唯一の場と言ってもいいから。
ただし、学校で真面目に勉強しているかといえば、そんなことはない。
脳内で巡るのは、記憶に焼き付けた数字の羅列だ。
暗転に一秒と少し。
暗転が明けたら、オリベがスキルの下準備を始める。
弾薬強化で徹甲弾に酸化炸薬を詰める作業だ。
それが終わってから一秒の猶予もなく、翼竜・焔に攻撃が通るようになる。
酸化徹甲榴弾がスキルの発動と同時に着弾し、同じタイミングで発動するレナの疾風迅雷はキャラクターの移動にかかる時間の分だけ遅れてダメージが発生。徹甲榴弾によって被ダメ増加のデバフを受けた翼竜に、普段より大きなダメージを与える。
と、そこから始まるのは慣れたスキル回しだ。
対空特効スキル――空を飛んでいる敵に大ダメージを与えられる攻撃スキルも存在するけど、煉獄闘技・焔では有効な相手が少ない。限られたスキル枠を圧迫するには効果が薄く、結果として汎用性の高いスキルたちが選ばれている。
だから開幕、ほぼ全てのスキルがリキャストを待たずに使えるタイミングでは、いつも通りのスキル回しが可能となっていた。
俗に手のミスと言われる、集中力やら何やらが原因の失敗は犯さない。何年も暮らす自室なら、たとえ真っ暗だろうと足をぶつけずに歩けるのと同じだ。
超の付くインファイター気質な破戒僧は、忙しい時には一秒単位でスキルを連発するが、そこは心配しなくていい。
よほど体調が悪くない限り、開幕のスキル回しを乱すことはないと断言できる。
心配すべきは翼竜の咆哮、バインドボイスを心頭滅却で帳消しにした後だ。
破壊拳と引き換えに被弾する焔の息吹がクリティカルヒットするかどうか。
避けようと思えば避けることもできるが、そうすると距離的に事前の攻撃スキルを減らす必要が出てくる。当然、咆哮を受けるために心頭滅却を発動する位置も翼竜から離れ、焔の息吹のダメージ判定が消えるのを待ってから攻撃に転じたのでは、心頭滅却の恩恵を受けられない。
待っているのは、致命的な火力不足。
僕が火力を出せない分だけ敵のヘイトが散り、乱戦に持ち込まれる。ダメージを減らすために無駄なダメージを受ける本末転倒に陥るのは言うまでもなく、そもそもタイムアタック形式の闘技場において、火力低下はそれだけで取り返しの付かないデメリットだ。
焔の息吹を回避するという選択肢は、ない。
かといって、そこでクリティカルを引かれたら、次の神狼・焔の初撃で沈む。
あちらはどれだけ離れていようと回避不能の必中効果持ちだ。仮にレナが闘技場の端まで逃げたら、レナよりもっと耐久力の低いオリベに飛び掛かる。そしてオリベは、その一撃で戦闘不能だ。
どう足掻いたところで、クリティカルに当たらない可能性に賭けるしかない。
「レイ君」
「……?」
なんだろう。
顔を上げたら夏乃がいて、直後、我に返った。
「少し寝たら?」
嫌な顔の一つも見せず、夏乃はそれだけ言った。
まるで母親のような、諦観と不安の入り交じる表情。
「何かあったのは分かるよ。それで必死になってるのも知ってる。だけど、休まなくてどうにかなるの?」
ぐうの音も出ない正論だ。
元々、休憩はしっかり取るつもりだった。
つもりだったけど、気付けば思考が全速力で駆け回っている。
ふと時計を見やれば、もう一時だ。そろそろ寝ないと、明日の朝が辛い。
「おやすみ」
寝なね、と言外に突き付けられる夜の挨拶。
「……おやすみ」
寝よう、と自分に言い聞かせる。
いつか想像した三年後。
その時、僕がどうしているのかは知らない。想像もできない。僕は未だ、将来の展望を描けていない。
けれど確かなことが一つある。
その時、僕の隣に衣織はいない。
イタリアにいて、彼の隣には渚さんがいる。
僕の知らない衣織を知っている、あの女の人が。
それは避けようのない未来。
けれども、今。
まだ高校生でいられる、この瞬間。
僕は衣織の隣ではないにせよ、すぐ近くにはいるのだ。
そして残すところ一ヶ月、オリベの隣には確かにレナがいる。僕の分身。僕じゃない、私。
だったら、もう、他に選択肢はない。
夢とか目標とか、そんな綺麗なものじゃなかった。
ただの執着だ。
衣織の傍にいられる間に、その分身たるオリベの隣にいられる間に僕の、私の存在を示したい。
あるいは、叶うならば。
せめてゲームの中のケッコンシキくらい、晴れやかな気持ちで見つめていたい。
「おやすみ」
夏乃が同じ言葉を繰り返す。
「おやすみ」
僕も繰り返し言って、それまでの思考をかなぐり捨てた。
寝よう。
それが目指すべき場所に近付くための最善手なら、他の選択肢なんて存在しない。