十四話
「……はっ!」
寝てた。
今、絶対に寝てた。
頭がガクって落ちた。
目が覚めた瞬間、人のIQというか精神年齢は大きく下がる気がする。
なんて、益体もないことを考えていた時。
コンコンコン――ッと遠慮なく戸を叩く音が意識を微睡みから引き上げ、一緒に精神年齢も普段通りに持ち直させた。
「あ、ごめん。なに? ていうか、誰?」
戸に向かって声を投げる。
我が家の壁はそこまで遮音性に優れてはいない。張り上げるわけでもない声だったけど、十分すぎるほどに聞こえただろう。
「わーたーしー。今ちょっとだいじょぶ~? ゲーム中~?」
夏乃の声だ。
今の今まで、もしかしたら通話中かもしれないとノックだけに留めていてくれたのだろう。
申し訳ないことをした。
だって今は夜中の十二……時?
「あれ?」
「どうかした?」
戸の向こうから声が返される。
しかし僕の意識は、PCに釘付けになっていた。
正確には、その右下。画面全体からすれば小さすぎる、けれど時折ちらと目をやるのが癖にもなっている、そのデジタル時計。
その表示が、一時間ほど遡っている。
否。
認めるしかないのだろう。
今は十一時。
恐らくは、午前の。
「あー……っていうか、そもそも五時くらいまで」
思い出した途端、欠伸が漏れた。
昨日、というか昨夜は、そういえば朝方まで闘技場に挑み続けていたのだ。
ろくなタイムも出せないまま互いに集中力を失っていき、これ以上は不毛だろうと解散した辺りで記憶が曖昧になっている。最後には確か……やっぱりそうだ。HGRとは別に、その攻略サイトが開きっぱなしになっていた。
「えーっと、レイ君?」
「あぁごめん、大丈夫、大丈夫だから」
言うと、ガチャリと戸が開けられる。
部屋に一歩踏み込んだ夏乃が僕の顔を見て、何よりまずため息を零した。
「おはよ」
「……おはようございます」
どうやら一目で見抜かれたらしい。
「完徹?」
「いえ、その、十二時頃に起きまして」
「ほぼ完徹じゃないですか」
「でも朝から今まで寝ていたわけでして」
「机で? それ寝たって言わないから」
これじゃあ本当に、どちらが年上か分かったもんじゃない。
ただでさえ見上げる背丈の夏乃は、座ったまま見上げると尚更大人びて見えた。というより、これで本当に中学生なのか。実は双子だったりしないのか。
「……で、ごめん。かなり待たせちゃった?」
「右手の指の関節が痛いです」
「それはそれは、なんていうか、ごめんなさい」
けど、そこまでノックする前に諦めてほしい。
重要な用事なら、それこそ問答無用で起こしてくれてもよかったわけで。
そういうところで妙な気を遣ってくれる妹だ。お兄ちゃんは鼻が高い。
「レイ君、最近精神年齢下がった?」
「いや、寝起きってそういうものじゃない?」
「最近って言ったつもりなんだけどなぁ……」
露骨に呆れられた気がするけど、気にしたら負けだ。
夏乃もその話題を引っ張るつもりはないらしく、後ろ手に戸を閉めてとことこと歩み寄ってくる。
そして、なんの躊躇いもなしに僕のPCの画面を覗き込んだ。
「お、レナたん。相変わらず可愛いですなぁ」
おっさんかよ。
「って、今は一人なん?」
「僕も今起きたところだから……っと」
言いながらキーボードに手を伸ばし、メインメニューからギルドの項目を確認。
幸い、オンライン状態なのは僕一人だった。最後にログアウトしたのはオリベらしく、最終ログイン時刻は五時間前となっている。
「一人みたいだね」
「そっか、それは都合がいい」
「え、なんで?」
「そりゃ話をしに来たからですよ」
話か。
まぁそうだろう。
わざわざ居眠り中の僕が起きるまでノックし続けたほどだ。日常の何気ない、例えば「お昼どうする?」くらいの確認だったら、そこまではしない。
「……で、レイ君は大丈夫だった?」
「今まで寝てた人にそれ聞く?」
「いやぁ、なんか寝落ちするまで調べ事してたみたいだから」
と、向けられた視線の先にあったのは、レナの姿ではなく攻略サイトの文字の羅列。
細かい数字がずらりと並んだページは、一見しただけではかなり小難しいことが書いてあるように映るだろう。
「これ、なんなの?」
「閾値」
「ん?」
「いや、だから閾値」
「生き血……?」
「閾値だって」
なんでイントネーションを変えた。
「理科の授業で聞いたことない?」
「ナントカ値って多すぎて分からん」
大丈夫なのか、受験生。
まぁ、ほんの一年と少し前まで中学生だったはずの僕も覚えてないけど。閾値を中学で習うかどうかなんて。
とはいえ、万が一高校受験に関わる問題だったら放置してはおけない。
「閾値っていうのは、まぁ今回は攻撃力だよね」
「おっ、急に親しみやすい用語が出てきた」
それでいいのか、女子中学生。
ともあれ興味を持ってくれたなら何よりだ。夏乃の受験勉強に貢献できるとなれば、僕のネトゲ趣味にも意味があったというものだろう。
「ええっと、そうだな……あ、例えば、このレナね」
「ふむふむ」
「レナの攻撃力は今、約五〇〇あります」
「ほむほむ」
「これでサンドバッグを攻撃すると……はい、この通り三六六ダメージが出ました」
「なんで?」
「なんでって、なんで?」
「いや、攻撃力五〇〇なら、ダメージも五〇〇じゃないの?」
あ、はい、そこで躓きますか。
まぁそうだよね、スマホでできるカードゲームとかって大抵そうだし。
「じゃあうん、もっと単純なところで例えようか」
何もゲームシステムの解説をしたいわけじゃない。
単純に閾値のお勉強ができればいいのだから、それこそゲーム自体は架空のものでもいいのだ。
「えっと、攻撃力の他にも防御力ってあるじゃん?」
「あぁ、あるね」
「その防御力もダメージに影響してくるから、攻撃力がそのままダメージになるわけじゃないんだよ」
「なるほど?」
ここまでがスタートライン。
「で、例えば攻撃力が十あれば一ダメージ与えられる敵がいるとします」
「攻撃力が二十なら、ダメージは二?」
「そうそう。そのまま攻撃力の十分の一がダメージになる感じ。でも小数点以下は切り捨てです」
「小さい数字は無視されるんだね、世知辛いね」
話がややこしくなるから変な茶々は入れないでほしい。
これ、一応夏乃の受験のために説明してるんだよ?
「それじゃあ問題。勇者の攻撃力は素で十あります。そこに攻撃力が五の棍棒を装備しました。敵に与えるダメージは幾つになりますか?」
夏乃が一瞬、嫌そうな顔をする。
あまりに算数の問題文を真似すぎたかと思ったけど、表情はすぐに明るくなった。
「一でしょ? 十五を十で割って、余りをゴミ箱にぽいっ」
ゴミ箱て。
ただ見方を変えれば、冗談めかすほどには余裕というわけだ。
そりゃあ算数レベルの割り算なのだから、余裕でなければ困るけど。
「じゃあ、この五は丸々無駄だよね?」
「そうだね、棍棒なんて武器の風上にも置けない産廃品だね」
産廃なんて言葉、どこで覚えてきたんだ。
「でも、仮に勇者の攻撃力が五だったとしたら?」
「それなら意味はあるんじゃない? 五に五を足して十、なんとか一ダメージ出せるわけだし」
「はい、その攻撃力十が閾値です」
「へっ?」
「定義を言えば小難しくなるけど、要は『ここまで攻撃力を上げたらダメージに影響が出るよ』っていうラインのこと」
閾値なんて、日常生活では気にもしないだろう。
Xキロ走ったらYカロリー消費します、と言われ、ぴったりXキロ走る人なんていない。近場のランニングコースに出向いて、大体Xキロくらい走る。現実においては、走りすぎたからといって切り捨てられるわけではなく、その分だけ厳密にカロリーが消費されるからだ。
逆もまた然り。十キロの減量と九・九九九キロの減量に大きな差異はない。
だけどネトゲにおいて、数式によって動く世界において、そこには天地の開きがある。
「えっと、つまりですね、レイさん」
「はい、なんでしょうか、夏乃さん」
「レイさんが寝落ちするほど見ていたこの数字は、全てその閾値ということでしょうか」
「そうなりますね」
「でもこれ、よくよく見ていくと十とか二十なんて桁じゃないんですが」
「ネトゲのステータスですからね。閾値も指数関数的に大きくなって、参照する場面によって事細かに変動しますとも」
夏乃が絶句している。
というか、見間違いでなければドン引きしていた。
「それマジ?」
らしくない若者言葉に、思わず笑ってしまう。
「いや僕がやってるのはこうやって数字見て、それに合わせてステータスポイント振るだけだけどね。本当に頭おかしいのは、こういう数値を自力で算出するネットの有志であって」
「そんな的外れな謙遜されましても……」
どんなに呆れられようとも、これがネトゲ……特にMMORPGの世界だ。
昔はもっと大変だったらしいけど、幸か不幸か触れる機会には恵まれなかった。
「けどまぁ、楽しそうで何よりだよ」
「楽しそう? これが?」
「だって、こんなの楽しくなきゃやらないじゃん?」
晴れやかな笑顔で言ったからなんだか良い台詞っぽくなっているが、この子は今、兄の趣味を『こんなの』呼ばわりしたのだ。
尤も、そんなことで腹を立てるほど狭量ではない。
なんなら僕自身、こんな睨めっこの何が楽しいのか説明はできないし。
しかも寝落ちするまでやっていたのは、ステータスポイントの無駄を探す作業。
必要なステータスに届かせるために振ったポイントが閾値を大きく超えていれば、その分だけ他に回せる。煉獄闘技・焔に合わせたスキル回しを決めた時に一緒に振ったポイントだが、改めて見返せばどこかに無駄があるかもしれないと思ったのだ。
しかし気分的には、部屋中をひっくり返して小銭を探すようなもの。
こういう地道な作業は嫌いじゃないけど、一般的なゲームの楽しみ方とはかけ離れているだろう。
少なくとも夏乃に説明したら、今以上に引かれて兄の威厳が底をつくに違いない。
「……と、そうだ」
そもそも夏乃は、閾値の勉強をしに僕のところに来たわけじゃなかった。
「ごめん、何か用があったんだっけ?」
「あ、ようやく思い出してくれた?」
けろりとした顔で言われ、なんだか申し訳なくなる。
「ええっと……これなんだけど、ちょっと見てくれる?」
ただ夏乃は気にした素振りも見せず、スマホに何やら画像を表示させて差し出してきた。
受け取り、まじまじと覗き込む。
絵だった。
中心に描かれているのはアニメチックな美少女で、こう言ってはなんだけど、どこかで見たことのあるような感じがしてしまう。
座り込んで本を読んでいるらしい美少女の頭上では、きらきらと光る糸か何かを咥えた小さく黒い鳥飛んでいた。細かすぎて読めないけど、糸からは垂れ幕のようなものが伸びていて文字らしき模様も見える。
あとはまぁ、飛んでいるのと似た鳥が美少女の足元で丸まっていたり、花吹雪のようなものが舞っていたり、どうにも統一感がない。
美少女と鳥でタッチも違って、果たして同一人物が描いたものなのかと疑問にすらなる。
「これは……、なに?」
ぱっと見た印象では、夏乃の部屋で見かけた漫画に似ている。
確かアンソロジーコミックといったか。
複数の作者が集まって同じテーマで短編を描くものらしく、一度夏乃に勧められるがままパラパラとめくってみたことがある。
正直、僕には合わなかった。
感情移入するには短すぎるとか、急に違う作風で始まるから付いていけないとか、理由は色々あるけれど。
何より苦手だったのは、作者の画力の差が露骨に見えてしまうことだ。
この絵からも、似たものを感じる。
だから、だろうか。
「文化祭のポスターらしいよ。勿論、うちの中学の」
夏乃に言われて、納得してしまった。
失礼を承知で白状すれば、美少女の絵は決して上手いとは言えない。もし本屋に平積みされている漫画の表紙なら、作画だけ別の人に担当してもらえなかったのかと首を傾げるほどだ。それでも中学生が描いた絵だとすれば上手い方だけど……。
一方で、正体不明の小さく黒い鳥は、素人目にも相当な画力だと直感させられる。
せめて配役が逆なら……美少女を描いた人が周りの装飾を描き、鳥を描いた人がメインの美少女を描けば、どこぞの企業広告と言われても納得する出来になっていたかもしれない。
これでは脇役がメインを食ってしまって共倒れである。
「コメントする前に聞くけど、もしかして誰か友達が描いたの?」
だとすれば心の声を薄めて薄めて感想を述べなければならないが、幸い杞憂だったようだ。
「いんや、今年のはまだ誰が描くかも決まってないって」
「それじゃあ、これは誰が……? ていうか、いつの?」
「五年前のポスターだって。っと、ほら、拡大するとちゃんと五年前じゃん?」
そう言って夏乃が第何回と描かれた垂れ幕部分を拡大してくれるが、生憎と母校であっても創立何年で文化祭が何回目なのか覚えていない。
というより、五年前ってなんだ、五年前って。
「それ、僕まだ入学してないよね?」
引き算に少し手間取ったけど、五年前といえば僕は十二歳だ。
ちょうど中学に上がる前、小学六年生の頃である。
「ん、そだね」
そだねって。
「だけどこれ、二年生が描いたらしいんだよ。だからレイ君が一年だった時、この人は三年生だったはず」
なるほど、そういうことか。
そこまで聞けば、何を求められているのか察しも付く。
「でも残念、僕に縦の繋がりなんてないよ」
「知ってる。一年の頃は友達もいなかったもんね」
唐突に剛速球を投げないでほしい。
しかもデッドボールだ。僕の心が出血している。
「けどまぁ、ダメ元で聞いてみようかと」
「何か重要なこと?」
「さぁ? でもリナちゃんが気にしてるんだよね。先生もすごく絵が上手い二年生がいて、それでポスターを担当してもらったってことは覚えてても、その人の名前までは覚えてなかったみたいで……」
リナちゃん?
記憶を辿っていき、なんとか思い出す。
夏乃のクラスに来た転校生だ。随分と早起きして仲良くなろうとしていたけど、顛末は聞きそびれていた。
「記録とか漁れば出てきそうなもんだけど……来たばっかじゃ、そんな時間もないか」
むしろどうやって五年も前の文化祭ポスターを引っ張り出したのかが謎だ。
記憶違いでなければ、転校してきたのは今週――じゃなくて先週の半ばだったはず。二、三日しか登校していないだろうに。
「まぁ本人は隠してるつもりみたいだけど、どうも心当たりがあるっぽいんだよね」
「え、そうなの?」
知り合いとか、あるいは有名人とか?
五年前に中二だった人だから、今では十九歳。今の時代、漫画家やイラストレーターなら十代のプロでも驚きはない。
「見てた感じ大したことはなさそうだけど、折角友達になれたんだし力になれるならなりたいじゃん?」
我が妹ながら、熱いことを言ってくれる。
何がキッカケで友情が芽生えたのかは、この際気にしないでおこう。
「あ、ちなみにリナちゃんは腐ってませんでした」
「その情報、いる?」
「いやレイ君のことだから、そこは気にするかと」
今しがた気にしないと決めたところだったんですがそれは。
「でも親戚みたいなもんだから問題ないよ」
「興味ない知りたくない」
そもそも腐敗の親戚ってなんだよ。発酵か何か?
想像したくない、ぶっちゃけ女の子としてそれはどうなんだと言いたくなる可能性が脳裏をよぎったけど、夏乃が問題ないと言うんだから問題ないんだろう。
いや、なんなら本当に何一つ問題ないのか?
アイドルやバンドのライブなんかに誘われるより、女の子同士で仲良くしていてくれた方が僕としては安心できる。
「正直よく分かんないままだけど、了解した。一応、衣織にも確認してみるよ」
「お、急に乗り気になったね。やっぱり腐ってないのが大きかった?」
「別に腐ってても構わないよ。どこの馬の骨とも分からんクソ野郎を夏乃に近付けさえしなければ」
「……うん、知ってた。知ってたけどレイ君、目がマジだからね?」
微塵も混じりっけのないマジなのだから当たり前である。
「けどオリ先輩に確認してもらえるのは有り難いね」
「時々どうなってるのか分からない情報網してるからねぇ……」
なんでもミカちゃんとも知り合いという話だ。
僕は夏乃を介して知り合ったけど、衣織に妹や弟がいるなんて話は聞いたことがない。
まぁ奇しくも二歳差、ポスターの作者よろしく僕たちが中学三年生だった時に夏乃とミカちゃんは一年生だったわけで、どこかで知り合っていても不思議はないんだけど。
「……ん?」
そういえば――。
その当時中学二年生だった生徒って、一人なのか? 鳥を描いたのと少女を描いたのが同一人物?
「ん? どかした?」
「あぁいや、大したことでは」
と首を振ってみたけど、一応確認してみた方がよかったか。
「……? 大したことじゃないならいいけど……」
けれど、わざわざ言い直すほどのことでもないな。
人探しというならまだしも、知っているかどうかの確認をするだけだ。知っているなら一人なのか二人なのかも知っているはずで、そもそも知らないなら一人だろうが二人だろうが関係ない。
「その画像、送ってもらっていい?」
「りょーかい。ついでにリナちゃんの連絡先も送っとく?」
「個人情報の取り扱いには気を付けてください」
「大丈夫だよ、ここで教えてって言ったらレイ君の好感度が下がるだけの選択肢だから」
流れるように罠を置かないでほしいんだけど。
「まぁなんにせよ、リナちゃんと仲良くなれたならよかったよ」
夏乃もそうだけど、それ以上にミカちゃんの性格は人を選ぶ。友達が少ないことを苦にするような性格でもないとはいえ、それでも新しい友達ができたなら僕は嬉しい。
背が高いことを気にしていた夏乃に、そんなことお構いなしに接してくれたのもミカちゃんだ。
人を選ぶけど、決して悪い子じゃない。
「あ、そうだ。ついでなんだけど」
「ん?」
「来週の日曜日、みんなで遊び行くことになったんだよね」
なんと、それはいいことだ。
色恋にしか興味がない男ならともかく、趣味を共有できる女友達と出掛けるなら諸手を挙げて賛成したい。
「レイ君も一緒に行くってことでいいよね?」
「……ん?」
「いやー、レイ君が可愛い服着て帰ってきたってミカちゃんに言ったら、是非に見たいと切望されまして。じゃあ三人で遊び行こっかー、ちょうどいいしリナちゃんも誘おっかーってことで、リナちゃんとも既に約束済みです」
「んんん?」
ちょっと待った。
あまりに唐突すぎる『ついで』に頭が追い付かない。
それってつまり、決定事項なのでは?
あと聞き逃したことにしたいんだけど、昨日の今日で僕の女装紛いの格好がミカちゃんに筒抜けになり、更には初対面の女の子とその服を着て会うことになっているような……。
「レイ君」
「な、何かな……?」
元々僕より背が高く、加えて今は立っているために見上げるしかない夏乃が、器用に上目遣いめいた視線を下向きに送ってくる。
「私、レイ君のこと好きだよ」
「僕も勿論、夏乃のことは好きだよ?」
普段はこんなこと、こっ恥ずかしくて口にできないけど。
恐らくは続くであろう、避けようのない惨劇に比べれば、なんてことはない微温湯である。
「だからレイ君と一緒に、遊びに行きたいなぁ」
「それはいいんだけどね? いやでも、わざわざあんな格好する必要――」
「これから受験の準備で、遊びに行く余裕もなくなるんだろうなぁ」
「…………」
「折角できた友達に、嘘つくことになるのは嫌だなぁ」
分かっている。
全て分かっている。
そこに僕が女装しなければならない理由はないはずだし、受験生だろうがなんだろうがお構いなしに新刊が出たらミカちゃんと買いに行くんだろうし、遊びに出掛ける人数が四人から三人に減った程度で亀裂が入る関係を友達とは呼ばないんだけど、しかし、それでもなお――。
僕には。
兄には。
この、たった一つの答えしか紡げない瞬間が、確かにあるのだ。
「……分かったよ。今回だけだからね?」
「わーい!」
全く感情の籠もってない、いや本来あるべき喜びとは別種の感情がありありと溢れ出す笑顔を前に、僕の心中の肩がガクリと落ちる。
笑えばいい。
これが兄という生き物の、生来背負う宿命である。