十三話・後
誘われるがままにHGRを始め、ようやく慣れてきた頃。
僕を誘った衣織は、闘技場というエンドコンテンツに挑み始めていた。
レイドと違い、その名前は初心者に毛が生えた程度の僕でも聞き馴染みのあるものだった。
闘技場は上位勢がタイムを競う一方で、レイドに挑むほどではないライトからミドルユーザーの力試しの場にもなっている。
煉獄闘技・焔で現在一位になっているタイムは二十分台。
しかし、単純にクリアするだけならタイムなんて気にしなくていい。
盾職に回復職という、絶望的な火力のコンビで一時間や二時間かけても、最後に七体目のボスさえ倒せればクリアはクリアだ。
そして闘技場には、申し訳程度のクリア報酬が設定されている。
設計上、どうしてもコンテンツに不向きの職業が生まれてしまうために強力な装備なんかは手に入らないようになっているけど、見た目重視のオシャレ着装備が手に入ることは間々あった。
そんな報酬のために一時間や二時間かけて攻略するなり、強力な新装備やスキルが揃うのを待ってから型落ち品を集めるなり、闘技場との向き合い方はプレイヤーの自由だ。
衣織に教えられていた攻略サイトでレベルに見合った装備を探し求め、かなり古い闘技場のクリア報酬に目を留めたのが、僕の入り口だった。
衣織がどうして闘技場に挑み始めたのかは聞いたことがない。
聞くまでもないからだ。
学生の僕たちはゲームに費やせる時間が限られていて、時間帯ともなれば尚更自由が利かない。
一回ごとの攻略に長い時間を要するレイドに挑むのは些か以上の無理が必要で、無理のない範囲で高難度を求めていくと必然的に闘技場に行き着く。
オリベは最初、僕以外の誰かと組んでいた。
誰か、というのは僕が知らない特定の一人ではなく、一々覚えておくこともできない不特定多数の『誰かたち』だ。
中にはクロウさんやチョコさんもいただろう。クロウさんは自ら進んでは高難度に行かないライト勢だけど、プレイ歴ゆえに知識や装備は豊富だ。チョコさんは言わずもがなレイド勢で、俗に言うガチ勢でもある。
勿論、MMOの醍醐味でもあるらしい、見ず知らずの誰かとのその場限りのコンビ結成もあった。
けれども、やはり闘技場とは連携が物を言うコンテンツだ。
同じ職業で募集をかけても、プレイスタイルごとに千差万別。
僕ことレナが良い例だ。超の付く攻撃的インファイターゆえに野良では嫌われがちな破戒僧なのに、あろうことか耐久面にがっつりポイントを割いている。これでレイドの攻撃職募集に手を挙げたら、地雷プレイヤーとして掲示板やSNSに晒されても文句が言えない。
まぁ僕はあくまで極端な例だけど、しかし一方で、この極端な例が頻発するのが闘技場でもある。
耐久振りの攻撃職や攻撃的な盾職なんて当たり前で、オリベのように支援偏重の攻撃職がいたり、逆に支援なんてオマケ程度にしか考えていない支援職もいたりするらしい。
闘技場において、毎回一緒に組む所謂『固定』の相方が存在することは、大きすぎるアドバンテージだ。むしろランキング上位を目指すなら必須事項と言ってもよかった。
けれど、特別なキッカケがあったわけじゃない。
自分でも驚くくらいHGRにハマった僕は早々にストーリーをクリアし、次の目的を探すようになっていた。
そんな時、いつものごとく闘技場に挑もうとしているオリベを見つけたのだ。
僕としては、ほんのちょっとした気遣いのつもりだった。
〈レナ:相手いないなら、私が行こうか?〉
ギルドチャットだったから、現実の僕とは違う一人称で。
しかし、それ以外はなんの気兼ねもなく、そう話しかけていた。
今になってみれば、顔から火が出るほどの思い違いだ。
レベルが上限に達したから。
沢山のスキルを覚えて、絶え間なく攻撃できるようになったから。
たったそれだけではスタートラインにすら立てないのが、タイムアタックの様相を呈している闘技場の世界だったのに。
当時の僕はそんなことも知らず、その相棒に立候補したのだ。
画面の前で、衣織は笑っていただろう。
教室で時々見せる、あの困ったような、それでいて楽しげな笑みを。
〈オリベ:じゃ、頼もうかな〉
それが始まりだった。
×××
そして、始まりがあるからには、終わりもある。
『本気で挑める闘技場は、今回で最後になるかもしれない』
唐突だった。
同時に、心のどこかで予想できていたことでもある。
深夜に通話すると言い出されたからじゃない。
ネトゲはあくまで趣味で、僕たちは高校生だ。
三年生が、その年の大会が全て終わらないうちから部活を引退するのと同じ。
大切なのは何より受験であって、進路であって、部活やゲームの優先度は低い。
HGRやその闘技場が優先されなくなる日は、いずれやってくる。
想像できないはずのない、当たり前の未来だった。
「でも、随分と急だね」
衣織もそれくらいは分かっているんだろう。
口を衝いて出た『でも』なんていう言葉を、小さく笑う声が聞こえた。
『急じゃないんだよな、実は』
「そっか」
『悪いな。さっさと言うべきだとは思ってたんだが、どう言ったものかと』
そこで衣織は、乾いた笑い声を零す。
『あとはまぁ、わざわざ言うことなのかと。所詮はゲームだろ? 時々引退宣言する奴もいるけど、あんなのも本当はいらない。読み終わった本を置くのに、前もって宣言する奴がいるか?』
これは相当、溜め込んでいるらしい。
普段は言葉が足りないくらいの衣織だけど、それが時々饒舌になることがある。
急じゃない、という言葉の通りだ。
彼の言葉に偽りはなく、ずっとどう言うべきか考えて、そもそも言うべきか否かも考えて、今に至ったのだろう。
「受験勉強、とか?」
まだ高二?
もう高二?
衣織の学力なら来年になってから焦る程度でも地元の大学には行けるだろう。
ただ一方で、例えば医学部なんかに進みたいと思えば、今からでも遅いはずだ。
『受験ではないけどな。まぁ進路絡みだ』
「そりゃ、それ以外ないよね」
インターネットは偉大だ。
日本中、いや世界中のどこにいても、一緒に遊べる。
親が転勤するから遠くに引っ越します、なんてことになっても、PCとネット環境さえあれば、HGRの世界のオリベは何一つ変わらない。
「ねぇ、聞いてもいい?」
妙に落ち着いている自分を見つけて、苦笑する。
取り乱すだけの繋がりさえ、衣織との間に持たないだけだ。
でも、あぁ、そうか。
ケッコンの話はどうなるんだろう。
引退、するのかな。
闘技場は最後だと言ったけど、他はどうするんだろう。
「えっと、進路っていうかさ。今から準備するって、やっぱり結構なことじゃん?」
いや、今からではないのか。
ずっと準備はしていて、そろそろ本腰を入れる程度だろう。
『……そうだな。これは口外しないでほしいんだが。あー、夏乃にも』
なるほど、洒落にならない箝口令だ。
「善処します」
笑ってみるが、果たして隠し通せるかどうか。
衣織も僕と夏乃の仲の良さは知っているはずで、信用できないと知っているはずだ。
『まぁ、最悪言ってもいいけどな』
「衣織の言う最悪は本当に最悪だからなぁ」
僕は笑う。
衣織の声は、これっぽっちも笑っちゃいなかった。
『卒業したら海外行くんだよ、俺』
そして、一拍遅れて笑う。
『あ、海外ってアレな、四国じゃないぞ?』
そりゃそうだろ。
そんな唐突にボケないでほしい。
けど、海外か。
四国でも九州でも、あるいは小笠原諸島でもないとすれば、どこだろう。
「もしかしてイタリアとか?」
なんとなく、だった。
ボケにどう返せばいいのかも分からず、適当な冗談として口にしていた。
『お、まぐれにしてもすごいな。当たりだ』
「へっ?」
『イタリアに行く。高校出たらその足で――ってのはまぁ、大袈裟だが』
まさか、まさかだ。
変な笑い声が自分の口から零れているのが分かった。
『ん? どした?』
最近のヘッドセットは高性能だ。
いや昔のヘッドセットなんて知らないけど。
本当に些細な、対面していても聞き取れないであろう笑い声まで拾ってしまう。
「いやまぁ、その、こっちも口外しないでほしいんだけど」
小さく笑って、天井を見上げる。
こんな偶然があるのか。
「うちの父さんも、イタリアに単身赴任するかもって話でね」
『ほう、そりゃすごい偶然だ』
「ほんとだよ。さっき聞いたところなんだ。目が覚めたら偶然、父さんと母さんが話しててね。まだ言うつもりはなかったのに、って」
けど、こんな偶然が何になるっているんだろうか。
『いつまでなんだ?』
「決まってないって。でも長くて二年だってさ」
『二年? ……あー、残念。ほとんど入れ違いか。ツテができると思ったんだが』
そう、入れ違い。
もし今が高校三年の冬なら、父さんに会いに行くという名目で衣織に会いに行けたかもしれないけれど。
偶然というなら、曲がりなりにも運命に例えられるものならば、せめてもう少し気を利かせてほしかった。
「けど、イタリアかー。イタリア。イタリアン?」
『今の語呂だけで言っただろ』
「あはは、シェフにでもなるの? それとも――」
それとも、一体なんだろう。
改めて、気付かされた。思い知らされた。
僕は衣織のことを、ほとんど何も知らない。
イタリアに行くと言われて、それだけの大事にもかかわらず、何一つ理由を見つけ出せないなんて。
『それとも?』
「ごめん。降参。僕は衣織のこと、なんにも知らなかった」
『聞かなかったもんな』
「……聞いたら」
口を衝いて出た言葉が、抑え込もうとしても溢れ出す。
「聞いたら、教えてくれた?」
『当たり前だろ、俺は嘘が嫌いなんだ』
どの口が言う。
豊は未だ、ラップをシカゴ発祥の文化だと思っていることだろう。
「じゃあ、なんでイタリア?」
聞いたら、本当に答えてくれた?
笑って誤魔化したり、しなかった?
分からない。
オリベの考えていることは思いを巡らせるまでもなく直感できたはずなのに、彼を操る衣織の思考は読み解けない。幾度となく見つめてきたはずの姿さえ、今では朧げにしか思い出せなかった。
『憧れの人がいてな』
ぽつり、呟かれた。
『……って、中学の先輩なんだ。怜乃も知ってるかもな。その人が最近、帰ってきたんだ。困った人でな。いや、悪い。こんな言い方するもんじゃないな』
あぁ、聞いた僕が馬鹿だった。
『困ったやつなんだよ、あいつは。本当に。憧れだなんて、面と向かって言ったら口が腐る』
一転、嬉しそうに笑っている彼の顔が鮮明に思い描けて、嫌になる。
聞かなければよかった。
『あいつがイタリアに行くんだ。俺が行かない理由がない』
本当のことなんて、知りたくなかった。
『つうか、わざわざ俺の卒業まで待たせたからな。これで準備できてません、なんて言ったら、あいつは明日にも一人ですっ飛んでくぞ』
あいつ。
誰だろう。
知らないはずの、分からないはずの、その声が何故だか想像できてしまった。
ナギサさん。
あの、随分と親しげに話していた、女の人。
背が高かった。年上だと言われれば納得できる。敬語ではなかったけど、今の衣織の口振りからして、敬語なんていらない間柄なのだろう。
海外にまで追い掛けていく仲で、相手の卒業を待つほどの仲だ。
「でも衣織、英語できないじゃん」
『イタリアはイタリア語だぞ』
「じゃあ、イタリア語ならできるの?」
『できたら困るさ。あいつ、俺ができることは俺に丸投げだからな』
あぁ、うん、もういいや。
聞きたくない。
何も知らなかった衣織のことを、何も知らない頃に戻りたい。
「……そっか」
小さく、それだけ呟く。
考えたくはないけど、考えたくもないけど。
あの人がHGRにいたら、今頃きっと、僕は闘技場になんか挑んでいなかったのだろう。
「じゃあ、大変だね」
『元々分かってたことだけどな』
何が楽しいのか、衣織はからからと笑っていた。
そういえば、深夜だというのに遠慮なく声に出して笑っている。
家族に気兼ねする必要はないのか。
知らなかったことが、見えてくる。
見ようと思えば、知ろうと思えば、教えてくれたかもしれない現実だ。
「それじゃあ、応援してるよ」
笑ってしまう。
何を応援するんだ、僕は。
なんのために衣織がイタリアに行くのかも、聞けなかったくせに。
『他人事だな』
「だって僕は、イタリアには行けないし」
『いやおい、忘れてないだろうな。今回の闘技場は最後までやり抜くぞ』
「へっ……? あぁ、そっか、そうだね、うん」
そうだ。
僕には、もう、それしかない。
『つうか、本気で詰める時間がないってだけで、次のも普通に行くからな。引退するわけじゃねえからな!』
らしくもない声をヘッドセット越しに聞いて、心の中でだけ小さく笑う。
卒業したら、衣織はもういない。
けど、今はまだいる。
そして今、衣織の傍にいるのが彼女でも、オリベの隣に立つのはレナだ。
「うん、頑張る」
それは他ならぬ僕自身、清水怜乃に向けた宣言。
闘技場に立っている時以外、僕が衣織の一番になれる瞬間なんてないんだから。
意識は既に、画面に集中していた。
今のままじゃ、きっと三位には――目標には届かない。
それじゃあ、どうすれば届く?
奇しくも、思い出されたのは夏乃の言葉だった。
――じゃあレイ君は、このままでいいの?
僕と衣織の関係を揶揄した、あの言葉。
けれど衣織の話を聞くに、きっと僕は最初から手遅れだった。衣織が中学で先輩と話している姿なんて、見たこともない。だから僕たちが一年の時の三年生……僕が衣織と知り合った頃には、既に卒業していた人だろう。
このままも何も、進展する未来なんてなかったのだ。
しかし、僕じゃない『私』は違う。
まだ先がある。
誰にも、まだ不可能だなんて言わせない。
『怜乃?』
「ごめん、大丈夫」
今のままで届かないなら――。
それじゃあ、今を捨てるしかないじゃないか。
「頑張らないとね。あと一ヶ月で」
『あぁ』
「もしかしたら、ちょっと相談に乗ってもらうかもしれないけど」
『もしかしたら? 馬鹿言うな、相談抜きで詰められるタイムじゃないだろ?』
その通りだ。
衣織が、それでいいと言ってくれるなら。
遠慮なんて、もうしない。
「じゃあ、衣織の時間、結構使わせちゃうと思うけど」
『気にするな。お陰様でバイト先の心配事も少しは減って、時間が取れる』
お陰様って。
日本人の悪い癖だ。
「僕は何もしてないけどね」
衣織が笑った。
『そうかい? まぁ、お前がそう言うなら、そうなんだろうな』
含みのある、いつもの衣織の口振り。
『けど、覚悟しておけよ』
けれど、今日はそれより一歩踏み込んだ言葉が待っていた。
『これから少し、忙しくなるぞ?』
どんと来いだ。
操作精度と集中力が落ちない程度に睡眠時間を削ってでも、今はまだ届かない手を、表彰台に届かせてみせる。
「大丈夫」
『それじゃ、楽しみにしてる』
「他人事だね」
『ん? あぁ、まぁなんだ、頑張れよ。大変になるから』
なんで僕だけが苦労する前提なのか。
衣織だって、まだまだ詰めるところはあるはずなのに。
……そういうところで手を抜く男じゃないと、それだけは自信を持って言えるけど。
それじゃあ、なんだ?
『さて、それじゃあ二回目といこうか』
ヘッドセットの向こう、衣織がパチンと手を叩く。
『通話はどうする?』
訊ねられ、思考が中断された。
再起動した思考が駆け巡ること、ほんの数秒。
「ごめん、流石に切るかな」
『了解。妹思いなやつめ』
「そりゃ今年は受験生ですから!」
『別に受験生じゃなくたって元々シスコ』
プツッ――と微かな音を立てて通話が切れる。
さて、それじゃあ二回目といきましょうか。