十一話
「で?」
で? ――とは。
相手の言論を問答無用で切り捨てる、凶器の言葉だ。
「で、まさかそのまま服と帽子だけ買ってもらって帰ってきたの?」
その言い方は語弊を招く。
買ってもらったっていうか、プレゼントしてもらっただ。
いやまぁ同じか、同じだな。
一応は誕生日を言い訳にしていたけど、実情はただただ純粋に奢ってもらっただけである。それに、いくらアウトレットとはいえ、千円二千円なんて額ではないはずだ。
夏乃が憮然とするのも無理はない。
「で、でもだよ? この埋め合わせはちゃんとするから! それに見てみたら案外その、なに? ばっちり可愛い風って感じじゃなかったし! 猫柄も隠れ気味でオシャレだったし! 中古でも未使用品だったら、そりゃいいのかなーって思うじゃん?」
「本音は?」
「衣織に面と向かって似合うって言われて、悪い気はしませんでした」
「はあぁ~……」
兄相手に面と向かってどデカいため息をつく妹の姿なんて見たくなかった。
原因が僕にあるのは流石に自覚してるけど、そこまで露骨に呆れるほどだったか。
「レイ君、私は状態とか仁義について兎や角言いたいわけじゃないの」
「じ、じんぎ……?」
仁義を切るとかいう、あの仁義ですかい?
心の声まで変な語尾になってしまったが、まさかそんな言葉が夏乃の口から出てくるとは。
「そうです。仁義は大切ですよ? それにキャップは頭に密着するものだし、使うのも汗をかく場面が多いんですから状態を気にするのは重要です。その点、未使用品なら安心でしょう」
「ですよね?」
「ですが、私が言いたいのはそういうことじゃないんです!」
敬語の妹というのは、ご存知だろうか、物凄く恐ろしいものなのだ。
よく母親が子を叱る時、敬語になったりするだろう。あれの強化版と考えてもらえると分かりやすい。
とにかく、目を逸らすことさえ躊躇われた。
「レイ君」
「はい……」
「似合ってるって言ってくれたんだよね、その服」
「……ぃ」
声が消え入りそうになる。
そりゃそうだ、無理もない。
僕は今、というか今まで、あの試着室で試着させられた服を着たままだった。
近隣の中高生が当たり前に使う駅から自宅まで、この格好である。どんな羞恥プレイだろうか。足なんてほとんど隠せていない。猫ちゃんキャップを一緒にプレゼントしてもらったお陰で顔は隠せたけど、そんなの知り合いに見つかったら一発でバレる。
また特殊なルートで豊の手に写真が渡っていなければいいけど、今はそれどころじゃないか。
「レイ君は友達少ないから知らないかもだけど、服のプレゼントなんて相当なんだよ?」
「知ってるよ! 一言余計だよ!」
「……しかもだよ、その女の人が着るにしても若干エッチ寄りの服なんだよ?」
頬をほんのり赤く染め伏し目がちに言われると、なんだか悪いことをしている気になる。
なんだって実の兄のこんな姿を見なくちゃいけないのか、というのが夏乃の本音だろう。
「まぁなんていうか、似合ってるけどさ」
違ったらしい。
「似合ってるんだよ、ほんとに」
「そんなに何度も言わないで……」
僕にだって羞恥心というものがある。
「分かってないから何度も言ってるの。その服はレイ君に似合ってるの。レイ君の武器を最大限に活かす装備なの。なんなら最強の装備なの! 攻撃力最高なの!」
「僕の趣味に例えてくれるのは有り難いけど、ごめん、防具は防御力を高めるためのものだよ?」
この服の防御力、きっと初期装備より低いよね?
初期レベルでも装備できる、見た目全振りのオシャレ系アイテムだよね?
僕と衣織――レナとオリベもそういう装備はそれなりに持っていて、戦闘区域外では普段着として愛用している。
「いいえ、攻撃力を高めるんです」
しかし夏乃は頑として譲らない。
「いいですか、レイ君。髪が女の命であるように、笑顔と服は女の武器なんです。服は武器なんです」
「僕は男なんですがそれは」
「じゃあ聞くけどさ、レイ君は男として見られたいわけ?」
見られたいとか見られたくないとかじゃなくて、僕は男だ。心と身体で性別が違うわけでもない。どこをどう取り上げても男である。
そんな僕の内心は、見透かすまでもなく知っていたのだろう。
夏乃がため息をついて立ち上がった。
ここは夏乃の部屋。僕はベッドに座っていて、部屋の主は勉強机の椅子を反対に向けて座っていた。
つかつかと淀みない足が向かった先は、中身が判然としない本棚。
迷いのない手付きで二冊の本が取り出され、そのまま僕に向けられる。
片方の表紙にはザと前置きしたくなるイケメン。日本人っぽい顔立ちだけど、髪の毛は金色。
もう片方には、丸顔の美少女。……いや美少年か。髪は深い青で、俯きがちな視線をどこかに向けている。
「一巻の表紙がヒーローで、二巻の表紙がヒロインです」
「あれ、女の子なんだ」
「いや男だけど」
「……今ヒロインって」
「は? こんな可愛いオトコノコがヒーローなわけないじゃん」
ぴしゃりと言われ、あ、はい、そうですか、と反射的に頷いてしまう。
「ところでレイ君、話を戻しますが」
「今のがなんの話だったのか分からないんですが」
「レイ君は攻めがいいの? それとも受けがいいの?」
「……僕の知らない言語で喋らないでください」
「知ってるくせに」
知りたくなかったよ。
僕の人生で知るべきじゃなかった概念の筆頭だよ。
「レイ君はオリ先輩に押し倒されたいんでしょ?」
「そこまでは思ってないよっ!?」
「押し倒されたら嬉しいんでしょ? 親が帰ってこない夜にベッドに押し倒されたら、満更でもない気持ちで股開くんでしょ?」
そんな台詞、妹の口から聞きたくなかった……。
しかも場面設定が妙に具体的で、その気がなくても想像できてしまう。
ごくり、と我知らず唾を飲んでいた。
「い……いけませんか?」
「いけなくないよ? オトコノコとして正しい反応だよ?」
いや絶対間違ってるんだけど。
「でもさ、レイ君。オリ先輩はノンケなわけじゃん?」
ノンケ。
何語なのかも知らないけど、俗に『普通』とされる人のこと。
一方の僕は、ノンケじゃない。
普通じゃ、ない。
「レイ君は可愛いんだよ。そりゃ美少女同然のヒロインとは違うけど、でも他の一般男子と比べたらずっと可愛いんだよ」
「嬉しくないです」
「嬉しめ」
「それ何語?」
「と、に、か、く!」
何を怒られているのか、夏乃が何にそこまで呆れたのか、なんとなくは分かっていた。
夏乃の性格を知らないはずもなくて、だから続く言葉は容易に想像できる。
「なんでプレゼントに何が欲しいか聞かれて、結局そんな帽子なんて買ってもらっちゃったの! 違うでしょ! そこはオリせんぱ……衣織が欲しいって答えるところでしょ!」
無茶を言わないでほしい。
真剣に、そう思う。
夏乃は真剣だから、僕も勢いに任せて叫んで返すだけじゃいけない。
だから余計、思ってしまう。
「そんなこと言って、引かれたらどうするの」
「引かれないよ」
「なんで断言できるの?」
夏乃は一切、僕から目を逸らそうとしなかった。
痛いくらいの視線が、僕の両目を捉えて離さない。
「可愛いって言ってくれたんだよ? レイ君のこと直接じゃなくても。可愛いのが似合うって。そんなエッチな女の子みたいな服着せて。それで何が欲しいって、確かめたんだよ?」
決め付けが過ぎる。
事実は小説より奇なりと言う。
けれど裏表紙を読めば大筋が分かる小説と、何もかもが不確かな現実とでは、その重みは違うのだ。
作者がこうしたいと描くままの恋と、少なくとも二人の人間が互いに違う心に抱く恋とでは、全く比べ物にならない。
「悪ふざけかもしれないじゃん」
「オリ先輩がそんな人を傷付けるような悪ふざけすると思う?」
衣織だって完璧じゃない。
ちょっとした悪戯のつもりで、人の大事なものを傷付けてしまうことだってあるはずだ。
「なんだかんだで僕が嫌がらないって、お見通しだったのかもよ?」
「知った上でやったなら、別に女装して人前歩いて喜んでたって引くわけないじゃん」
人をそんな変態みたいに言わないでほしい。
僕は普通じゃないかもしれないけれど、それでも普通の心は持っている。
「けど――」
「けどじゃないの!」
夏乃が叫んだ。
張り詰めた声が決して壁が厚いとは言えない部屋の中に響いて、しんと落ちていく。
「レイ君はいつもそうだよ……」
一転、静かな声だった。
我に返ったというより、更に奥深くへと沈み込んでいくような。
「変わらなくちゃいけないんだよ? 今のままが嫌なら、もっと違う何かが欲しいなら、手を伸ばさなくちゃいけないんだよ?」
たった十五年にも満たない人生に、何があったのかは知らない。
知っていることの方が多いはずなのに、本当に大切なことは知らないままだ。
「慎重なのはいいことだと思う。誰彼構わず無遠慮に自分の趣味をひけらかしたって、誰も良い気持ちになんかならない。自分が傷付いて、人に嫌な思いをさせるだけ。だから慎重なのは、レイ君の長所だよ」
でも、と夏乃が呟く。
何かを拾い上げる、そんな声で。
「でも、それだけじゃダメなんだよ。傷付けたくないって、傷付きたくないって立ち止まってたら、オリ先輩はどっか行っちゃうよ? もう二年も残ってないんだよ? 大学になったら、同じとこ行けるとは限らないんだよ?」
これから高校受験という妹に、大学の話を持ち出されるのか。
なんだか、とても罪深いことをしている気がする。
「だからって、そんな突然衣織が欲しいなんて、言えるわけないじゃん」
「言っちゃえば、それで幸せになれたかもしれないのに?」
「かもしれない、だよ。そうはならなかったかもしれない。普通に考えて、そっちの方が可能性は高いだろうね」
男は普通、女を好きになるものだ。
男同士の恋なんて、想像もしない人の方が多い。
「オリ先輩でも?」
「衣織は完璧じゃないよ。万能でもない」
「じゃあ、尚更じゃん……」
完璧じゃなくて、万能でもない、衣川衣織の心の中。
いっそ完璧で万能だったら、見透かすのも簡単だったかもしれないのに。
「……オリ先輩にだって、怖いって気持ちはあるかもしれないじゃん」
そりゃ、何一つ怖いものがない人間なんていないだろう。
夏乃が僕を見て、口を開いて、それから閉じた。
小さく首を振る。
ため息は、零されなかった。
「その服、ちゃんと着てあげてね?」
「家で?」
「だったらお父さんがいる時はやめた方がいいね」
家以外の、どこで着ろっていうんだ、こんな服。
……こんな、なんて言いたくはないけど。
なんにせよ、話はこれで終わり。
ベッドから腰を上げ、夏乃の部屋を後にしながら、何気なく考えてみる。
まぁ、埃を被せても困るか。
他に合わせる服があるわけでもないし、部屋着にでもしようか。
……いや、やめた。
この服を何度も洗濯に出すのは、息子として罪悪感がある。
いっそ、この際だから洗濯を覚えようか。
進路はまだ決まっていないけど、いずれ一人暮らしをすることもあるだろう。炊事洗濯くらいできて損はない。
部屋に戻る前、なんとなく洗濯機の前まで来て、ちらと横を見やる。
我が家の洗濯機がある場所は、イコール脱衣所でもあった。
体重計の奥に置かれた姿見を一目確かめ、キャップを目深に被る。
「……可愛い、か」
よく分からない。
夏乃は可愛いと思うし、さっきの表紙のヒロインも可愛かったと思う。
クラスにも可愛い女子はいるし、夏乃を沼に引きずり込んだミカちゃんも容姿だけは可愛い系だった。思い返してみれば、あのアトリエの外国人もかなりの美少女だったはずだ。
けれど。
そのどれと比較しても――否、比較しようとした時点で、どうしようもなく気付かされる。
僕は男だ。
可愛いという言葉は、似合わない。