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十話

 そして、約束の土曜日。

 朝の九時過ぎ。

 いつもと同じ道を、いつもより少し遅くに歩いて、いつもの駅に到着する。

 乗る予定の電車は、まだホームに着いていない。

 少し早すぎるようにも思えるけど、こうでもしないと衣織を見失ってしまう。

 自販機コーナーまで足を伸ばして紙コップのコーヒーを買い、また戻る。

 改札前のベンチに腰を下ろして、ようやく一息つけた。

 有り体に言ってしまえば、衣川衣織とは変わり者だ。

 興味を持ったものや親しい相手にはとことん付き合う一方、興味のないものには極端なまでの無関心を貫く。あるいはドライと言い換えてもいいかもしれない。

 気を遣えないわけではなく、むしろ普段は微に入り細を穿つ気配りを見せるが、それは単純に僕との付き合いが長いからだ。

 それだって一事が万事とはいかない。

 特に今日の電車。

 夏乃はデートなどと言っていたけど、衣織にそんなつもりはない。

 暇潰しに僕の買い物に付き合うだけのことで、目的地がアウトレットモールと分かっている以上、なんなら他の用事のついでに先に現地へ向かっている……なんて可能性も捨てきれなかった。

 まぁ流石にそんな用事があったら連絡してくるだろうけど、もっと現実的なところでは、そもそも目的地に着くまで僕を探さない可能性がある。

 こちらは無視できない可能性だ。

 アウトレットモールはここらで一番大きな駅まで電車で行って、そこからバスに乗り継ぐことになる。そのバスに乗る客は、生活利用者でもなければ大概モール行き。

 だったら探さなくてもバスで会えるな、と独り言つ衣織の姿は想像に容易い。

 けれども、僕としては電車から一緒にいたいというのが本音である。

 というか折角の週末モールデートだ。デートじゃないけど。とにかく現地集合なんて風情もへったくれもない展開は御免被る。

 しかし裏を返せば、無頓着ゆえに読みやすくもあった。

 恋人との待ち合わせなら少しは早く来て相手を待たせまいとするかもしれないが、僕と衣織は単なる友人同士。少し早めに来て席を確保するならまだしも、電車も着いていない頃に来て相手を待とうとは思うまい。

 だからこそ僕は、こうして絶対に通る場所で待っていられる。

 そこだけ切り取るとなんだかストーカーじみている気がしないでもないけど、ちゃんと約束した上での待ち伏せ……もとい待ち合わせだから問題はない。

 と、そうこうしている間にホームの方でベルが鳴った。

 降車した人々が波となって改札から出てきて、元々静かとは言えなかった駅舎が一層の喧騒に包まれる。

 時間的に、これが僕たちの乗る電車だ。

 この駅も一番ではないにせよ、それなりに大きな駅だった。ここで乗り換えになる電車も多く、停車している時間は長い。

 といっても、十分も二十分も停まっているわけがなかった。

 そろそろだろう。

 思っていれば、人の波の中にあっても見落とすことはない。

 目が合って、向こうもこちらを見つけたのが分かる。

「よっ、待たせたな」

 片手を軽く上げ、待ち合わせていた相手、衣織が僕の傍まで歩いてきた。

 ジーンズに、あれはなんというのだろう。

 コートではないはずだけど、それに似たシルエットの羽織りを着ている。なんとも暖かそうだ。

 同じように僕を上から下まで一瞥した衣織が、肩を竦めて呟く。

「また寒そうな格好してるな」

「今日は晴れてるし」

「寒がりのくせによく言う」

 そう言われましても、現に寒くはないのだから仕方ない。

 僕の服装は半袖長ズボン。上は夏乃が渋々選んでくれたシャツで、下は毎度お世話になっているジーンズを穿いている。同じジーンズだけど、僕の方が少しタイトだ。色合いも違うから、お揃いという感じはない。

「……と、そうだ。電車はちょうど来た頃だろ? 先に乗ろうぜ」

「まさか狙って来たの?」

 衣織なら有り得ると思ったけど、流石に違ったようだ。

「んなわけないだろ。いくら俺でもそこまではしねえよ」

「じゃあなんで……っと、そっか、これ僕待ちか」

「待たせてた人間が偉そうに悪いなぁ」

 衣織がニヤニヤと意地悪に笑いながら僕の手元を見る。

 手に持っているのは、飲みかけのコーヒーだ。紙コップだから、封もできない。衣織は登校前に買うことがあるけど、どちらかといえば待ち時間を過ごすお供に買うものだ。

 これから電車に、それもモールに行くために乗ろうという時に買うものじゃないくらい、誰だって分かるだろう。

 しかも相手は衣織だ。衣川衣織。

 何もかもお見通しと思った方がいい。

「……衣織なら先に現地に行きかねないと思いまして」

「場合によっちゃそうだろうなぁ」

「それは流石に、なんと言いますか」

 口籠るように呟いて、そこそこ残っていたコーヒーを一息に飲み干す。

「……ちょっと、味気ない気がしまして」

 それから誤魔化すように言えば、また笑われた。

「知ってる。怜乃はそういうやつだよ。だからちゃんとこっちに来た」

「そりゃどうも。まぁ結局ギリギリなんだけどね」

 残っていたコーヒーを飲み干し、少し遠回りしてゴミ箱に紙コップを捨ててから改札を抜ける。

 途中、ちらと振り返ると、衣織が欠伸を噛み殺していた。

「悪かったな、寝坊したんだよ」

 それは珍しい。

 すごく珍しい。

 どうも驚きが顔に出てしまっていたらしく、衣織が嫌そうにそっぽを向いた。

「いやごめん。……けど、それでも間に合わせる辺り、流石は衣織だよ」

「俺をなんだと思ってるんだ?」

「割と万能な人間?」

「んなわけあるか」

 言い合いながら、停まっていた電車に乗り込む。

 手近な席に腰掛けると、衣織は周囲を一瞥した後に僕の前に立った。

 なんとも自然な所作だったから、座らないのかと言いそびれた。別に聞かなくても想像はつくけど。大方、後から来た乗客に詰められるのが嫌なんだろう。あとは若干、まだ眠いとか。

「で、万能人間さんが寝坊した理由って聞いてもいいんですか?」

「何分か待たせただけでそこまで根に持つか」

 さらりと言ったけど、僕が数分しか待っていないことまでお見通しなのか。

「まぁなんだ、バイトが長引いてな」

「仕事、大変なの?」

「別に? ただアレだ、休みとか何してんだって聞かれて、ネトゲとは言えずに今日のこと話したら、その後が長くなった」

「今日のことっていうと……僕とモール行くこと?」

「そ。根掘り葉掘り聞かれてな、それだけで一時間は食った」

 嫌そうな口振りとは裏腹に、どこか楽しげな表情を浮かべる衣織。

 心中にモヤモヤとした気持ちが湧くのが自覚できてしまって、ほんの数瞬、気が滅入る。

 いつもならもっと長く、それこそ一晩だって自己嫌悪に陥れただろう。

 たったの数瞬しか落ち込んでいられなかったのは、ひとえに衣織の笑みが僕に向けられたからだ。

 この自己嫌悪まで見透かされては堪らない。

「なんていうか、お疲れ様だね」

 咄嗟に出たのは当たり障りのない、面白みに欠ける言葉。

 にもかかわらず楽しそうに笑い、吊り革に掴まったままの衣織が僕のことを見下ろしていた。

「そうだな。今日は存分に、英気を養わせてもらうとするよ」

 ……英気を養う?

 休むでも、気分転換でもなく?

 何か途轍もない恐怖が、そこはかとなく嫌な予感が――、



 的中した。

「おーい、怜乃~? れーいのー?」

 分厚くも頼りないカーテンを一枚隔て、衣織の悪戯っぽい声が聞こえてくる。

 しかし僕に、返事をする余裕なんてない。

 手には、あまりに小さなパンツ。

 否、パンツではない。パンツではないんだけど、パンツだ。

 下着的意味合いのパンツではなく、ズボン的意味合いのそれ。

 ただ、僕はこれをズボンとは呼びたくない。僕の中の何かが、これはズボンではないと悲痛な叫び声を上げている。

 直に見たのでは今一ピンとこないが、カーテンの反対、壁掛けの姿見を覗けば嫌でも理解できた。

「みじか――ていうか、小さすぎるでしょ、これは……」

 鏡の中、どうにか恥を押し殺して穿くべき位置に合わせてみるも、今着ているジーンズをほとんど隠せていない。

 丈だけで言えばボクサーパンツやトランクスと大差ないそれを、人はホットパンツと呼ぶ。

 なんでだ。

 ホットどころかクールだろ。

 寒いし冷たいし、なんならクレイジー一歩手前のクールでもある。

 こんなもの、仮に夏乃が穿いていたら父さんと二人で数時間掛かりの説教を始めるところだ。

 けれど悲しいかな、今まさに鏡の前に立っているのは、清水怜乃こと僕で間違いない。

 女の子でも穿くべきではない、膝上どころか股下、というか股スレスレの『パンツ』を、どうして男の僕が手にしているのか?

 仮にプレゼント用だとしたらまだ納得できるが、無論そんなはずもない。

『似合うと思うんだよね』

 そう邪悪な笑みを浮かべた衣織に手渡されるがまま受け取って、僕は試着室にいる。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 いや、そもそも受け取ったのが間違いなのは分かっている。重々承知している。

 とはいえ、僕とて高校生だ。空気を読むことが必須技能とされる高校生にとって、ノリの悪さとは致命的な弱点になりかねない。

 頑として嫌と突っぱねれば、衣織とて諦めてはくれただろう。それどころか、然しもの衣織とて良心の呵責に襲われたはずだ。

 なのに僕は、何故か僕は、これを受け取ってしまった。

 いやまぁ、うん。

 この期に及んでは認めるしかない。

 九十九パーセント悪ノリだと知っていても、残り一パーセントの本気に賭けたくなってしまったのだ。もしかしたら表向き冗談を装っているだけで、実は本当に似合うと思って選んだんじゃないか?

 そんなわけがないと今になれば分かる。痛いほど分かる。

 しかしまぁ、後になってみれば大抵そんなものだ。その時その瞬間には、自明のことも案外見落とすものである。

 電車からバスに乗り継ぎアウトレットモールで降りて、予想以上に多かったカップルや夫婦の群れに紛れながらキャップを売っていそうな店を探し。

 いくら選り取り見取りのモールといえど、高校生でも手が届く店となれば数は限られる。

 それで取り敢えず……と目に付いた店舗に入ったのだが、いつの間にか消えていた衣織が早々に持ってきたのがこれだ。

 ホットパンツと、ついでに少しサイズの大きなジップアップパーカー。

 いや上着の布面積を下にも分けてくれよ、と率直に言いたい。

「怜乃? 大丈夫か?」

 言ったところで後の祭りだ。

 大丈夫じゃないだろ、どう考えても、とカーテン越しに言ってやりたい……けれど。

「サイズ合わなかった? もうちょっと小さいの――」

「いえ大丈夫です」

 反射的に答えてしまって、心の中で膝から崩れ落ちる。

 全てを見透かしたタイミングだった。

 この鬼、悪魔、衣川衣織、僕の我慢が限界に達する瞬間を見極めて邪魔してきやがったのだ。

 英気を養うって、ただ僕で遊んでいるだけじゃないか。

 そんなに僕で遊ぶのは楽しいか。

 ……まぁうん、楽しいのだろう。

 昨夜の夏乃の笑顔が脳裏をよぎった。服を選んでと頼んだら、ミニスカを持ち出してきた鬼で悪魔な妹。

 同類だったか。

 やっぱり、着替えずに出ようか。

 ごめんなさい勇気が出ませんでした、と頭を下げれば、衣織とて怒りはしない。

 なんで僕が頭を下げなくちゃいけないのか分からないけど、今更「って無理に決まってんじゃん!」なんてノリツッコミ風に出ていくだけの心の強さを持ち合わせてはいない。

 仕方なく、きっと切腹する侍もこんな気分だったんだろうな、と現実逃避さえしながら、ジーンズのファスナーに手を伸ばす。

 脱いでしまえば、それまでだ。

 ホットパンツどころかマジのパンツだけで躊躇していられるはずもなく、まだしも社会的防御力の高い装備を身に纏う。

 心の中の土砂降りが目から零れ出ないうちに、パーカーも着る。

 前は……どうすればいいんだろう?

 パーカーのファスナーを上げるべきか悩み、何気なく鏡を見てしまう。

「……あぅ」

 変な声が漏れた。

 そこに映っている人物は、首から上を無視すれば、まず間違いなく女子にしか見えない。女性ではない、女子だ。背が低く、肉付きも悪く、男なのだから当然といえば当然だけど胸もない。

 すとん、という擬音が思わず浮かぶ姿。

 ただでさえ小さい身体が、大きめのパーカーのせいでより小さく感じられる。

 そのくせ出不精が祟って生っ白いままの足は全然隠せていなくて、余計に頼りないというか、情けない感じがした。

「……怜乃?」

 カーテンの向こう、衣織の声がどこか不安げなものに変わる。

 なんだかんだ言いつつ着てしまった僕が言うのもなんだけど、心配するのが遅くないか。

 鏡に背を向け、カーテンに手を伸ばす。

 開けてしまっていいのかと悩んだのは、それでも一秒足らず。

 シャッ――と勢いよくカーテンを開けると、目の前には普段と違う景色が見えた。

 衣織の視線が、少し低い。

 不思議に思った直後、トリックに気付いた。なんてことはない。試着室の床は店内より数センチ高くなっていて、その分だけ僕の視線が上がっただけだ。

 下らないことで困惑する僕を、こんな格好の僕を、衣織はどんな目で見ていたのだろう?

「うん、似合ってる」

 なんて、そう平然と言い切った衣織の笑みは一点の曇りもなく晴れやかで、内心を覗けない。

「……それ、褒めてるの?」

「似合ってるんだ。貶すわけがないだろう」

 この服が似合う男って、それはもう貶しているも同然ではないのか。

「じゃあ衣織的には、この服が似合うって言われて嬉しい?」

「問題ない。俺には絶対似合わないからな」

「僕にも似合ってないと思うんだけど」

 一言ごとに小さくなっていく声に頑張って力を込め、前を見据える。

 衣織は、やっぱり晴れやかに笑っていた。

「いや、似合ってるぞ」

 そして、意地悪にニヤリと微笑む。

「なんか、うん、申し訳ないくらい……」

「ちょっと待って、そのテンション怖いんだけど」

 そんな本気の、なんなら若干引いたトーンで言われると、嬉しさとか悲しさとか、そういう感情が置いてけぼりにされる。

「いやー、流石に冗談のつもりだったんだけど」

「でしょうねぇ!」

「これがなんでか結構似合ってる」

「……衣織、まさかそういう趣味が?」

「や、俺に女装の趣味はない」

「僕にもないよッ!!」

 なんで僕が好き好んで女装してるみたいに言われなくちゃいけないのさ!

 ていうか、女装させてる自覚はあったのか!

 もしかしたら案外本当に男女兼用くらいの服だと誤解してるのかと思ってたよ!

「……怜乃」

「なんだよ」

「記念に一枚、撮っていい?」

 とか言いながら取り出されたスマホを、人生最大の瞬発力で奪い取る。

「なんの記念だよ!」

「初女装記念?」

「どんな記念だよ!」

 再び叫んでしまってから、我に返って辺りを見やる。

 幸い、人の姿はなかった。

 雑然とした店内は棚が高かったり通路が細かったりと見通しが悪く、ただ見えないだけで誰かしらの耳には届いていたとは思うけれど。

「……残念」

「なんで……」

 どっと疲れた。

 軽く息切れしながら訊ね――、

「いや夏乃に送ってやろうかと思ったのに」

 返された言葉に絶句する。

 処刑方法が残酷すぎやしないか。

「まぁ仕方ない。写真は諦めるとしよう」

「そうしてください」

 そもそも最初から考えないでほしかったけど。

 もっと言えば女物の服なんて持ってこないでほしかったけど。

 とはいえ、受け取って着てしまった僕にも幾らかの非はある。

 まぁ、これで英気を養えたのなら――、ちょっと待った。

「あ、すみません、店員さん」

 なんて言った?

 さっき衣織、なんて言った?

 写真は諦める?

 写真は?

 言葉の綾……ですよね?

「この服、着て帰りたいんですけど、大丈夫ですかね?」

「ダイ――ッ」

 ジョウブなわけがあるかっ、と叫びそうになった喉を理性が反射的に抑え込んでしまう。

 店員さんの前で叫び声を上げるわけにはいかない。

 そんな場違いな良識が他ならぬ僕自身の首を絞めた。

 いつの間にか通り掛かって衣織に呼び止められていたらしい店員さん(若い女の人だった)が僕の方を見て、ほんの僅かに首を傾げてから向き直る。

「タグだけレジを通しますので、先に切らせていただく形になりますね。構いませんか?」

「えぇ」

「でしたら、少々お待ちください。ハサミと、それから袋をお持ちしますね」

 そそくさと去っていく店員さんの背中を眺め、真っ白になっていた脳が再起動を始める。

「……衣織?」

 逸らされた目の先に回り込んで、じっと覗き込む。

 衣織は観念したかのようにため息をついた。

「すまん、悪ふざけが過ぎたな」

 神妙に言われ、僕もため息をつく。

「まったく、ほんとだよ。店員さん行っちゃったけど、どうするの?」

 戻ってくる前に逃げる?

 と、そう確認したつもりだった。

「ん? いや手持ちで足りるのは確認済みだが」

「は?」

「え?」

「ちょっと待って? あれ? 僕の聞き間違いかな? さっき悪ふざけが過ぎたって」

「あぁ。度が過ぎた悪ふざけで満足した。ありがとう」

「んん? ごめん、話が噛み合ってない気がするんだけど――」

 まさか本当に買うの?

 と、そう確認するつもりだった。

「お待たせしました。タグをお切りますが、よろしいでしょうか?」

 なんていうか、あぁファッション関係っぽい人だな、と納得する雰囲気を纏った店員さんに訊ねられ、ようやく悟った。

 僕に残された選択肢は、二つ。

 はい、と頷く。

 自分で切ります、と首を振る。

 その二者択一だが、ほぼほぼ選択権などない。

「あ、えっと、自分で切ります」

 ホットパンツのタグ、どこにあったっけ?

 現実逃避するには、時間が足りなすぎた。

 ちゃんと持ち手を向けて渡されたハサミを受け取り、一度カーテンを閉める。

 このタグを店員とはいえ女の人に切らせたら、僕はセクハラで通報されかねない。

 再びカーテンを開け、ハサミと一緒にホットパンツとパーカーそれぞれのタグを手渡す。

 店員さんはそれを確かめ、小さく頷いた。

「ではレジの方へ」

 踵を返す店員さんの背後で、衣織が笑う。

 その手には、この店のロゴがプリントされた紙袋があった。

「ズボン、取ってくれ」

 最早文句を言う気力も残されてはいない。

 鏡の方を向いて脱いだから当然、僕がここまで穿いてきたジーンズは鏡の前に落ちている。

 振り返り、拾い上げようとしゃがんだ、その時。

 頭の上に何かが置かれた。

 眼前の鏡は、見るまでもない。

「気を悪くしたなら謝る。でも似合ってるのは本当だぞ」

 衣織の手が離れ、代わりにしゃがんだままの僕の横に紙袋が差し出される。

 簡単に畳んだジーンズを入れれば、紙袋を持った手は引っ込んでいった。

「そろそろ誕生日だかな。そのプレゼントだと思ってくれ」

 そういうところは、マメな男だ。

「全然嬉しくないんだけど」

「じゃあ、何なら喜んでくれる? 何が欲しいんだ?」

 平然と返され、言葉に詰まる。

 欲しいものなんて決まっているのに。

 言ってしまえば、途端に零れ落ちていく気がして。

「……今日の目的、忘れてないよね?」

「あぁ」

「じゃあ、それ。僕に似合うの、見つけてよ」

 衣織が笑う。

 見なくても、それくらいは分かった。

「さっき可愛い猫のがあったぞ。あれは絶対怜乃に似合――」

「却下で」

「なんでだ」

「えっと……、今のワードチョイスで変だって気付かない?」

 男物を選ぶ基準が可愛さなわけがないだろうに。

 相手が僕だからって、ちょっと悪ふざけが過ぎるんじゃなかろうか。

 まぁ似合うと言われたら、そんなに嫌な気はしないけども。

「怜乃?」

 振り返って僕を呼ぶ衣織の目には、いつもの曖昧な笑み。

 特別ではないそれが、けれど僕にとっては特別だった。

「ごめん、今行く!」

 靴を履いて追い掛けながら、何気なく背後を見やる。

 鏡に映るのは、外に出るには少し――いや、少しどころではなく恥ずかしい格好だけど、まぁいいか。

 もしかしたらこっちの方が、衣織の隣を歩くには自然かもしれない。

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