一話
窓の外、淡い紫色の花が咲いている。
木になっていて、紫陽花をもっときめ細かくしたようなあの花は、なんという名前なのだろう。
今朝方降った小雨の雫がまだ残っているのか、きらきらと輝いて見えた。
店内の雰囲気は落ち着いていて、騒がしいところは微塵もない。
席と席の間隔もあり、誰かが話している雰囲気は感じ取れるが、声までは聞こえなかった。
ここは、高校で『純喫茶』とあだ名されている喫茶店だ。
高校生が放課後に立ち寄るにはハードルの高く、デートの締めに少し背伸びして足を運ぶような、そんな店。
窓から視線を戻し、正面を見据える。
そこに座っているのは、同い年の男子高校生。
衣川衣織。
高校では幼馴染扱いされるけど、現実には違う。中学二年のクラス替えを機に出会ったから、まだ三年と一ヶ月の付き合いでしかない。
彼の小学校時代は、写真でも見たことがなかった。
細身の体格に、あまり日に焼けないらしい白めの肌。
ほんの僅かな垂れ目にフレームの薄い眼鏡をかけ、普段は物静かで知性的な印象を抱かせる。
どんな小学生だったのか、興味がないわけがない。
でも、聞けずにいた。
聞いてしまっていいのか分からない。
どうしてそんなことに興味があるのかと訊ねられたら困る。
君のことをもっと知りたいから、なんて正直には答えられない。
けど、少しは期待してしまっていいのだろうか?
願望が叶うことはないと知りながら、それでも期待しそうになる自分がいた。
大人びた雰囲気の喫茶店。
らしくもない、どこか緊張した様子の彼。
注文したまま忘れていたかのようなコーヒーにようやく口を付け、彼が見据え返してくる。
「悪いな。なんて言えばいいのか、よく分からなくて」
「気にしなくていいよ」
この店は少し入ってみたかったし、と心の中で添える。
口にしてしまってもよかったけれど、それが彼の言葉を邪魔してもいけない。
どんなに言いづらいことでも、一度心の整理さえ付けてしまえば淀みなく言える。
衣織とは、そういう男だった。
「本当は電話とかメッセージで済ませてもよかったんだ。けど、こういうことは面と向かって言った方がいいと思ってな。わざわざ、来てもらった」
「うん。良いお店だよね」
「そうだな。周りの目がなきゃ、普通に来たい」
伊達に純喫茶などとは呼ばれていない。
店に入るところを見られたら、あることないこと噂されかねなかった。
それでも今日、彼はここを選んだ。
我知らず唾を飲む。
次の一言だと、理屈ではなく確信できた。
「怜乃、俺とケッコンしてほしい」
沈黙は、一拍。
「……えっ? 結婚?」
脳の理解が追い付かない。
「あぁ、そう、ケッコンだ。突然、こんなことを言って悪い」
「あ、謝らなくてもいいけど。……けど、でも、えっと」
湧き出てくる思いは、上手く言葉になってくれない。
だって、まだ高校生だ。
高校二年生。それも、まだ五月。
お互い、十七歳にもなっていない。
それに――。
「僕たち、男同士だよ……?」
衣織は男だ。
僕も男だ。
ただ性別が同じというだけなのに、僕たちの間に横たわる溝は果てしなく深い。
「分かってる。だから少し悩んだ。や、それだけじゃないんだけど」
少し?
少しで済む話なの?
立ち塞がる障害は、少しどころじゃない。
そもそも法律的に不可能だ。僕たちは男同士で、しかもまだ子供。
けれども、しかし。
衣織は馬鹿じゃない。
要領が良くて、大抵のことは教わってすぐに理解する。
そんな衣織のことだから、社会の道理を知らないわけじゃあるまい。
その上でなお、その答えに辿り着いたのなら――。
「僕でいいなら」
理屈なんて、どうでもいい。
叶うはずのない願望だとしても、手を伸ばさない理由がなかった。
「衣織が僕でいいっていうなら、僕は全然、構わないけど」
けど?
けど、なんなの?
なんで僕はこう、大事な時に捻くれるの?
もっと素直に、僕も衣織のことが好きだって言えたら。
「本当かっ?」
まぁ、いいか。
衣織が心底嬉しそうに、どっと安堵が溢れ出した声音で言う。
そんな顔を見せられてしまえば、あとのことなんて気にしていられない。
「助かる。……いやぁ、怜乃に断られたらどうしようかと」
「どうしようかって。どうにかしようがあるの?」
「そりゃまぁ、どうしても他に手がないなら、俺一人でどうにかすると」
……ん?
衣織一人で? どうにか? できるの?
「本当に助かった。流石に一人でやるってなると、何かと大変だからな」
一人でやるって、いったい何を?
あれ?
ちょっと待って、もしかしなくてもこれって、まさか。
「い、衣織?」
「なんだ、どうした」
「えーっと、万が一ね? 万が一僕の勘違いとか、何かの手違いで話がすれ違ってたらまずいからね? 一応ね、一応確認するんだけど」
混乱する脳が、全身全霊の理性でもって言葉を紡ぐ。
「結婚って、なんのこと?」
数瞬、衣織がきょとんと首を傾げた。
そして直後、得心したりと鷹揚に頷く。
「そりゃ当然、HGRのことだ。怜乃は知ってると思ってたけど、ほら、そろそろジューンブライドだろ? それで《ケッコンリング》のセールが始まるらしくてな。ケッコンクエストのタキシードを割安で手に入れるチャンスだ」
ヘブンズゲート・リベリオン――略して、HGR。
衣織に誘われ、僕もプレイしているMMORPGだ。
「あのタキシード、カッコいいだろ? やっぱ欲しくてなぁ」
「うん、そうだね。街とかで時々見るよね」
衣織のキャラクターは、本人は決して認めないものの、衣織自身によく似た美青年だ。
課金アイテムの《ケッコンリング》を所持した二人のプレイヤーが揃うことで初めて受注できる特別なクエスト、その名もずばり『ケッコンクエスト』の報酬で手に入る男性用装備、《新郎のタキシード》は確かに似合いそうだ。
うん。
まぁ、うん。
知っていたとも。
叶わない願望が叶うのではないかと期待した僕が馬鹿でした。
「まぁ、ああいうのって惚気だとか言って嫌う人もいるけどね」
「知らん。俺は《ワイバーンコート》と合わせる。もう決めた」
「決めたって……。僕が嫌って言ったらどうするつもりだったの?」
「サブのPCで始めて一気にケッコンクエストまで進めようかと」
なんていうか、そういえば衣織とは、こういう奴だった。
要は馬鹿なのだ。
頭が良いのに、時々、わけの分からないことを真顔で言い出す大馬鹿者。
「あぁ勿論、《ケッコンリング》は俺が買うから、そこは心配しないでくれ」
気遣いの方向性まで少し間違えている。
というか、それは要するに結婚指輪……じゃなくてリングを僕相手に贈るってことなんだけど、そんなことは微塵も気にしないのだろう。そうなのだろう。知っているとも。もう三年の付き合いだ。
「いいよ、僕も《花嫁のドレス》は欲しいと思ってたし」
「あー、レナにな。似合いそうだよな。レナ可愛いし」
「いおりぃ」
「なんだよ、いきなり変な声出すなよ」
驚いた顔で言う衣織だが、こいつは本当にどこまで無自覚なのか。実は全て確信犯じゃないのか。誤用的な意味でも、正しい意味でも。
レナとは、僕がHGRで使っているキャラクターの名前だ。
衣織とは違って現実とは違う性別……女キャラでプレイしている僕は、当然ケッコンクエストでお嫁さん側の立場になる。
一応、社会の移ろいに考慮して男同士や女同士でも進行可能だけど、今回はお互いに欲しい装備と性別が一致しているからオーソドックスに進めるだけでいい。
……あれ?
オーソドックスに進めるって、もしかして。
「衣織」
「なんだ?」
「ケッコンクエストってさ、確か宣誓シーンのムービーあったよね?」
現実の結婚式でもある、病める時も健やかなる時も……というアレ。
ラストは、これまた王道、誓いのキスだったはず。
「あったな」
「衣織はいいの? あれ、き……キスとか、するじゃん?」
しまった。
噛んだ。
いや噛んだのとは少し違うか?
まぁいい。そんなことを考えている場合じゃない。
「……? するな」
「気にしないの?」
「え、そりゃまぁ、うん」
知ってたよ、知ってたともさ。
「怜乃は気にするのか? 気にするなら全然飛ばす……ってか、リアル時間考えたら飛ばす一択なんだが」
夢も希望もないなぁ……。
多分、この感じだとフレンドを招待する気もないのだろう。
ゲーム内といえど本気の恋愛をする人は少なくないし、その末にケッコン――現実的な感覚だと恋人同士になることも珍しくはない。
しかし、衣織が言っているケッコンとは、あくまでクエストの報酬目当て。
そんな結婚式――否、ケッコンシキに人を呼ぶ必要はないし、むしろ呼ぶだけ迷惑になってしまう。
だから、それが普通だ。
二人きりでさっさと進め、時間のかかるイベントシーンは全てスキップして、報酬を受け取ったら、はい終わり。装備として残る《ケッコンリング》には相手の名前が刻まれ、互いに装備していると特殊効果も発動するけど、その演出も見ることはないだろう。
何もおかしなことはない。
欲しい装備が、たまたまケッコンクエストの報酬だっただけ。
そして二人でないと進められないクエストだから、リアルでも付き合いのある僕にお株が回ってきた。
それだけのこと。
男同士での結婚なんて――。
それ以前に、男同士で恋情を抱くなんて、普通じゃ有り得ない。
分かっていたのに、期待した。
勝手に勘違いして舞い上がって、現実に叩き付けられた。
それだけのこと。
衣織が僕を見据えていた。
見ないでほしい、と思うから余計、彼は僕を見る。
どこか心配そうに、それでいて優しげに。
「衣織」
「ん、どうした?」
僕は気持ちを隠すのが下手だ。
反面、衣織はそういうのが得意分野である。
名前も知らない同級生に告白されて、そのことを悟らせないまま穏便に断ったこともあった。その優しさは、だから残酷だ。優しく微笑んでいる時、その裏側にどんな感情だって隠してしまえる。
「そのシーン、全部しっかり見たいって言ったら、どうする?」
「どうもしない」
「……どうもって」
ギルドメンバーやフレンドは、僕が男だということを知らない。
実際には衣織自身も特に性別は明かしていないのだが、何故か衣織は男で、僕が女みたいな扱いになっている。キャラクターの性別も要因の一つだろう。
ともあれ、僕たちがケッコンするといっても、彼らは驚きこそすれ違和感は持たないはずだ。
しかし衣織は違う。
僕が男だということを知っていて、それどころか互いの顔も知っている間柄だ。
そんな相手と、あくまでバーチャルのキャラクターとはいえ、分身同士が誓いのキスを交わす。
そこに嫌悪感を、……抱かないのだろうな、衣織は。
ドライな奴だ。
知人と友人を区別し、友情と恋情に明確な線引きができる男だ。
僕には、できない。
有り触れていたはずの友情や尊敬は、いつの間にか恋情を帯びてしまっていた。
「見たいなら見ればいい。理由はなんであれ、普通にプレイしてるだけじゃ見られないイベントだからな」
衣織は静かに言って、それから笑ってみせた。
「つうかまぁ、こっちから頼んでんのに、イベントは見たくねえから飛ばせ、だなんて言える筋合いじゃないわな。怜乃の要望は最大限聞く。時間とかも合わせる。他に何か、言いたいことはあるか?」
思っていることがあるなら、言ってくれればいいのに。
いっそ言ってしまおうかと思ったけれど、直後に気付かされる。
そういう僕こそ、思ったことを口にしてこなかった。今だって目の前にいる衣織に、本当の気持ちを伝えられずにいるのだ。
「衣織に……ううん、オリベにはタキシード、似合うと思う」
「おう、ありがとう。絶対似合う」
「だからコーディネート、僕にも見せてね。それでドレス姿のレナと一緒に、撮影しよ?」
ツーショットなんて、リアルでは絶対に言い出せない。
でも、ゲームの中なら、それくらいの我儘は許してもらえるだろう。
「ん、頼んだ」
「僕が撮るの?」
「俺はスクショ撮るの苦手なんだよなぁ」
なのにキャラクターの服装には気を遣うのか。
まぁタキシードは、本当に似合うと思うけど。
「RPGなんだし、静止画じゃなくてアクションの中でこそ映えた方がいいだろ?」
「まぁ衣織は、そういう奴だよね」
「そういう怜乃はスクショ撮るの好きだもんな」
「そりゃあ、だって――」
ほんの一瞬、言葉に詰まる。
けれど一瞬は一瞬だ。
すぐに笑って、続きを紡いだ。
「ゲームはゲームだけど、それでも思い出は思い出だから」
現実で叶わない夢なら、ゲームの中でくらい見たっていい。
声もなく衣織が笑っている。
笑えばいいさ。
いつまでも、笑っていてくれればいいさ。