01.ラブロマンスは始まらない
「華岡さん、飲んで飲んで!」
「いただきます」
今日は新商品リリースの打ち上げ。
社運のかかった商品の初動は好調とあって、列席したお偉方の表情も至極にこやかだ。
そんな中、わたしは現在注がれた酒をへらへらと胃に流し込むマシンと化していた。
「華岡さん、すごく飲んでますけど、大丈夫ですかあ?」
わたしにビールを注ぎながら、広報のワンレン女が首を傾げた。間延びした声からは心配のしの字も感じられない。どうせ心配するフリでも、せめてその酒瓶を下ろせ。
酔った頭でも自分がダシに使われていることくらいはわかった。
「オレの酒で酔うはずないよな。大丈夫だろ?」
酔っていても顔色が変わらない体質が恨めしい。
営業出身のゴリゴリのパワハラ常務に捕まったわたしは、こみあげる吐き気を飲み下して苦笑いを浮かべた。
「はは、もちろん大丈夫ですよ……」
何一つ大丈夫ではなかった。
商品を早くリリースしたいという営業の圧力に負けて、ここ数か月続いた徹夜の日々。
ある時は椅子を並べて寝て、エナジードリンクを流し込み、ドライアイでぼやける瞳に一日の使用量を超えるほどの目薬を点し、風呂に入れない日々を耐え忍んで、ようやく解放されたのが昨日のこと。
そんな最悪のコンディションでも、飲み会は断れないのが社畜の性というもの。
見知った顔がない中、せめて元を取ろうと酒を飲んでいたら、その飲みっぷりに感心した件のパワハラ常務に肩を叩かれていた。
正直に言おう、わたしの肝臓はもう限界である。
「ところでキミ、そんなに飲むようじゃ男もできないだろう。女は愛嬌がなきゃいかんぞ」
すっかり出来上がったパワハラ常務はわたしの肩を横抱きにして顔を覗き込んできた。
あぶらでテカった顔が近づき、加齢臭と香水の混じった匂いに吐きそうになる。
顔を背けると、反対側にいた広報の女とがビール瓶をマイクのようにつきつけてきた。
「華岡さんってえ、彼氏いないでしょ?有休も余ってるし、勤怠記録みたら土日もパソコンついてるってきいたよん」
奥にいた人事のハーフアップの女がニヤリと笑っている。おまえ、それは漏らしちゃダメだろ。
人事としてあるまじき情報漏洩にわたしが口をぱくぱくさせていると、パワハラ常務は肩に回した手をそのまま下に伸ばし、
「何だ?やっぱり彼氏いないのか?こんなにデカい胸持てあまして勿体ない……」
「いっ……」
「アハハ!もしかして華岡さん処女?色気なーい!」
わしづかみにされた胸に顔が歪む。
酷いことをされているのに、言葉が出てこない。
「その年で処女なんて大切にとっていても意味ないだろう、今夜オレがもらってやる」
「やったじゃん、華岡さ~ん!」
パワハラ常務にされるがままに硬直するわたしを、広報の女は手を叩いて笑い、他の社員たちは見て見ぬふりをしている。
痴漢に遭っても、声が出せないというのは本当だ。
息が詰まり、喉からは息が漏れる音だけが聞こえる。酸素がうまく取り込めず、涙がにじむ。
「あっ!常務いたいた~!探しましたよ!」
立ちすくむわたしと常務の間に、きれいに滑り込んできた一人の男。
パリッとノリのきいたスーツにぴかぴかに磨かれた靴。柔軟剤の匂いのするその男は、わたしの肩に回された手をさりげなくほどき、常務の耳元に手を寄せて囁いた。
「ママから、今日の約束忘れたの?と電話が」
「しまった!忘れていた!」
「タクシー、表に呼んであります」
慌てて店を出る常務を見送ると、その男はわたしの肩をぽん、と叩いた。
「ごめんな、オレの元上司、酒癖マジで悪くて」
「……う、上野くん……?」
「おう。久しぶり」
顔を上げた先にいたのは、数少ない同期のひとり、上野圭吾だった。
海外支社を渡り歩き、出世街道を驀進しているイケメンであり、この年になっては貴重な独身男性である。
「落ち着いた?」
「うん……ありがとう。どう対応していいか、わからなくて」
差し出された緑茶が染みる。わたしが落ち着くのを待って、上野は斜め上に視線を泳がせた。
「華岡は昔っから、変な男に絡まれるよなあ」
「そうだっけ?」
「汗拭きオジサン」
「うわっ、それなんで覚えてるの?」
「ミニスカおじさんのほうがよかった?」
「ちょ、それ、わたしだって忘れてたのに!」
一年目の営業研修、特に何の被害があったわけでもないのだが、ただ訪問した先にいた変なおじさん。笑い話にできるレベルの思い出。
「やっと笑った」
に、と口の端を小さく上げて微笑む彼に、心臓がどきりと音を立てた。わたしが落ち着けるように、わざとふざけてくれた優しさに、表情がゆるむ。
「な、このあとって暇?一次会で抜けて、飲みなおそうぜ」
突然の誘いに、心臓が飛び出しそうになる。顔があついのは酔っているせいだ。
飲もうぜ、なんてセリフに惑わされてはいけない、誰も、わたしと二人で、だなんて言ってないのだから。
「え……っと、みんな集まれるかな?こんな時間だし……」
あわててスマートフォンを見ると、時刻はとっくに二十一時を過ぎている。
所帯持ちも多い同期たちが、この時間にそう簡単に集まるとは思えないが、一応同期チャットに呼びかけようとすると、画面に手をそっとかぶせて上野が顔を寄せてきた。
「オレは華岡と二人でもいいんだけどね?」
「……っ!」
いたずらに微笑むその視線にくらくらしてしまう。
なんだ、このイケメンの破壊力は……!顔が近い!
思わず目を背けると、
「上野さーん、ちょっといいですかあ?」
鼻につく甘ったるい声音をきんきんと響かせ、女性社員三人組が声をかけてくる。
さっきまでわたしをバカにしていた広報の女と、情報漏洩な人事の女、そして。
「お隣、失礼しますね」
根元まで綺麗にカラーリングされた艶やかなウェーブヘアに、しっかりとコーティングされた煌びやかなジェルネイル。通った痕跡が分かるほどのローズの香りを振りまいて、美人すぎると有名な秘書課の女が、わたしの横に腰を下ろした。
「えーっと、君たちは?」
「さっきまで、華岡さんと楽しく飲ませてもらっていたんですけど」
「常務が酔っぱらっちゃって。ねぇ」
「華岡さん純粋だから、間に受けちゃって大変だったねえ」
広報と人事がさっきより明らかにワントーン高い声を出す横で、秘書はくす、ときれいに口紅の引かれた唇をそっとわたしの耳元に寄せた。
「華岡さん、メイクが……お手洗い、行かれたほうがいいかも」
自分の目元をちょん、と指先で指すしぐさに、ハッと我に返る。さっき滲んだ涙で目元のメイクがよれている、と彼女は指摘しているのだ。
「あっ……ありがとうございます!」
駆け込んだトイレの鏡にうつった女の顔色は、それはそれは悪かった。
酒で浮腫んだ肌は土気色をし、疲れ切った目元には落ちたマスカラがこびりついている。口元には乾燥で小じわが浮かび、ファンデーションは涙の線を残していた。
こんな顔で、上野と飲みに行こうとしていたなんて。羞恥で顔が赤く染まる。
「はずかし……」
「本当にね」
下を向いて口にした独り言に、返ってくるはずのない同意の声。
顔を上げると、鏡越しに秘書課の女と目が合った。いつの間に背後を取られたのか、全く気付かなかった。
「あれくらいで動揺して泣くなんて、あなた本当に社会人なの?」
「あ、あれはどう考えてもセクハラで……!」
「あなた、ちょっと手があたったくらいで痴漢だって騒ぐタイプ?」
秘書は冷ややかな視線をわたしに送ると、ヒールを鳴らしてわたしの横に並んだ。ピンと伸ばされた背筋は、彼女の美しさを際立たせる。
「何が言いたいんですか……」
「釘を刺しておこうと思って。万が一にも訴えられたら困るの。私、常務の秘書だから」
持っていたポーチからハイブランドのパウダーを取り出すと、鏡越しの視線を外すことなく、彼女は続けた。
「それともうひとつ、上野さんの同期だか何だか知らないけど、身の程をわきまえたほうがいいわよ」
「どういう、意味ですか」
鏡越しでもわかる眼光の鋭さに、言葉がうまく吐き出せない。
どこからどう見ても年下の彼女からため口をきかれても、わたしの女としてのレベルが圧倒的に足りていないせいで何も言い返せなかった。
「上野さんは社のエースで、顔なの。仕事もできて、人当たりもよく人望も厚い。ちょっと優しくされたくらいで、まさか好きになったりしてないわよね?」
「まさか……」
「ならいいけど。あなたみたいにモテない女が勝手に勘違いして、舞い上がってストーカーになっちゃうこと、よくあるのよね。本当に迷惑だわ」
さらに艶をのせた彼女は、そのまま顔色一つ変えずに淡々と言い放った。
「引き留めてごめんなさいね。メイク直しするより、帰ったほうがいいわよ。ひどい顔してるから」
くすり、と少しの嘲りを含んだ笑みを浮かべて、彼女は背を向けて去っていった。
残されたローズの香りは忘れていた吐き気を呼び覚まし、わたしは便器に顔を突っ込んで屈辱と羞恥とを一緒くたにして吐き出した。
◆ ◆ ◆
どうやって帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。
帰り際に見た上野は女の子たちに囲まれて鼻の下を伸ばしていて、わたしの冷めた視線にへらへらと手を振り返してきたことだけは妙に苛ついたので覚えている。
家について、飼い猫に餌をやった。
メイクを落とした記憶はない。風呂にも入っていない気がする。胃薬を缶酎ハイで飲み下して、倒れるように布団に入って、それで。
「どういうこと……?」
目の前に広がるのは、どの角度で見たって自宅ではなかった。
星空がむき出しの天井に、何も支えていない石の柱。埃っぽい空気に、かびた匂い。
冷静に記憶をたどってみても、こんなところに来る道理はなかった。冷汗がじわじわと滲んでくる。
身体が水を吸ったようにじっとり重く、足に力が入らない。
「ここ、どこ……?!」
頬についた石粒を払い落とし、わたしは勢いよくあたりを見渡した。
家に帰ったというのは記憶違いで、どこかの廃墟に迷い込んで酔いつぶれてしまったというのか。
自分が置かれた現状を全く理解できず、恐怖で心臓がドッドッと音を立てた。
三十代女性、泥酔の末廃墟に侵入、逮捕。
チープなニュースのタイトルが脳裏をよぎり、血の気が引いた。まずい。一刻も早くここを出なければ。
「あ、起きた?」
廃墟に差し込む光をたどって歩いていると、崩れかけて役目をはたしていない柱の上から声が降ってきた。
「え?誰?どこ?」
「上だよ、上」
視線の先には、毛艶の良い黒猫が一匹。
黒猫はあくびを一つすると、ひょいと身軽に飛び降りる。その途中で、少年の姿へと形を変えながら。
「うわあっ!!猫・・猫がっ・・・!?人間にっ」
「うるさいな。こっちが元の姿だっての」
少年は顔をしかめて頭をがりがりと掻きながら、腰を抜かしたわたしの目の前までずかずかと歩み寄ってくる。
「こ、来ないでっ……!」
おもわず、足元に落ちていたガラス片を手にとり、目の前に振りかざす。
「やっぱりアラサーは順応性が低くっていやだね」
わたしの抵抗もむなしく、少年はわたしの手をひょいっとつかむと、持っていたガラス片を後ろに放り投げた。
口は悪いが、近くで見れば少年は綺麗な顔貌をしていた。
つややかな黒髪と、大きな銀色の瞳。なめらかな白肌。
黒いシャツと足のラインが見えるパンツスタイルがどことなく大人びて見える彼は、美少年という言葉をまさに体現したかのよう。
「あのね、お前はこっちに転生したの。わかるよな?転生くらい」
「……は?テンセイ……?なんて?」
頭の上に大きなハテナを並べていると、少年は面倒くさそうに肩を落とし、わたしの顔を覗き込むようにしてしゃがんだ。
「華岡梨沙は、死んだんだよ」
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