第7話 ロストワールド
「は?」
「だから、恐竜がこっちに向かってきてる」
俺は急いで扉に駆け寄ると、ヒナタと一緒に隙間から外を覗いた。
まず目に入ったのは、爛々と輝く爬虫類の眼。
そしてざらざらとした質感の皮膚に、鋭いかぎ爪。口を開くと見える、チェーンソーのように並んだ牙。どれをとってもそれは、かつて映画で見た恐竜と全く同じ姿だった。
しかし、何故こんなところに? 奴らはとっくに絶滅したはずだ。
「ヴェロキラプトル。」
「なにそれ」
「映画とかで見たことあるだろ。肉食のやべーやつだ」
緑の生い茂るジャングルから出てきたラプトルは、ヒナタが整地した土の大地を踏みしめた。
辺りをきょろきょろと見渡しているのを見るに、まだ俺達には気づいていないようだ。
しかしながら、それまでジャングルだった場所に見慣れない建物が建っているのだから、彼らが気になって近づいてくるのも時間の問題だろう。幸い、今は1匹のみで行動しているようだし、なんとかこの場をしのぐことはできるかもしれない。
「少なくとも、この家にとどまっているのは危険だ。扉はロックができないし、この木造だと集団で来られた時にあっけなく壊される」
「まだ向こうは気付いてないんだから、静かにしていればいいんじゃないか?」
「いや、流石に気付くだろ……」
その時だった。それまで注意深く辺りを見渡していたラプトルが、突然こちらの方を向いた。目と目が合い、俺は慌てて扉を閉める。
「ねえ、今」
「ああ、気付かれた」
俺は声を殺したまま、ヒナタと会話する。ユウナは不安げに俺達の方を見ていた。
何か気の利いた冗談の1つでも言おうと思ったが、そもそも俺はそんなキャラじゃない。
と、そこで外からラプトルの鳴き声が再び聞こえてきた。先程の雄叫びとは明らかに違った、こちらを意識している威嚇の声だ。
扉の隙間から覗くと、ラプトルは目を細めてゆっくりとこちらに向かってきている。これはまずい。
するとヒナタが、何か閃いたような顔で俺の方を見た。
「ねえ、もしかしたら1匹ならやれるかもしれない」
「やれるって何が?」
「だから、あたしがあの恐竜を倒せるかもしれないってこと」
「……冗談だろ?」
俺は苦笑いしたが、彼女は別に冗談で言っているわけでは無さそうだった。
俺達と違ってまだ着ていた制服の袖をまくり、指の骨を鳴らす。その目は既に、ラプトルのことを戦うべき敵として見据えている。
そして俺の静止を払いのけると、彼女は木のドアを思いきり開け、助走をつけて走り出した。
家を出ると、ついさっき俺達を警戒した時のような跳躍でラプトルの前に音もなく降り立ち、再び空手の構えを取る。
ラプトルはこちらのことを睨んでいたものの、まさか人が飛び出てくるとは思っていなかったようで、彼女の気迫に思わず数歩後ずさった。
それを見た彼女は、瞬時に行動をとる。
「ふんっ」
彼女は距離を詰め、技が届く範囲内にラプトルを捉えた。
空手というのは基本的に近接戦闘である。
特に彼女の流派の場合は、他と違って寸止め等のルールが存在しない。
故に、彼女の間合いに一度敵を捉えてしまえば、大抵の場合は彼女の一方的な猛攻が始まる。
問題は、それが人よりも少し大きな恐竜に有効であるかということだ。
「ハッ!」
瞬間、彼女の足元にあった土が破裂したように舞う。
彼女の足は綺麗な弧を描き、足の甲がラプトルの首元にクリーンヒットした。
ラプトルは気味の悪い声を上げると、おぼつかない足取りで後ろに下がろうとする。
「ハアアッ!」
彼女は逃がさんとばかりに蹴り、突きの連打をラプトルへ叩き込んだ。
骨を砕かんばかりの重い一撃を体の各所へ正確に打ち込まれたラプトルは、今度は悲鳴を上げることもなく吹っ飛んだ。地面へ叩きつけられ、弱々しいうめき声をあげている。
「す、すごい……」
いつの間にか俺と一緒に外の様子を見ていたユウナが、ぼそっと呟いた。
まるで機械のように洗練された動作で、音を置き去りにするスピードを以てして自分より大きな動物を倒すその様は、彼女の空手が如何に強力なものであるかを思い知らされる。
ヒナタは額の汗を拭くと、眼下のラプトルを見下ろした。
そして再び指の骨を鳴らすと、拳を強く握りしめて、ラプトルの頭部に照準を合わせる。
「危ない、ヒナタ!!」
突然、隣にいたユウナが叫んだ。
その言葉を聞いたヒナタは咄嗟にその場を離れる。
何事かと思って外へ目を凝らすと、ジャングルに3つの影を見つけた。その影は静かに緑の中から現れると、息絶え絶えのラプトルを取り囲むようにして陣形を組む。
援軍。3匹の新たなヴェロキラプトルだった。
3匹の中でも一際身体の大きいボス個体が、ヒナタに向かって吠える。
「逃げるぞ!」
俺は咄嗟に、傍に転がっていた石を拾うとラプトルのボス個体に投げつけた。
石はうまい具合に命中し、彼女の空手とは違ってダメージを全く与えることはできなかったものの、奴らの注意をこちらに逸らすことができた。
ボス個体はこちらを見るや否や咆哮し、まっすぐ俺を目掛けて走ってくる。
「俺はこっちに逃げる。ユウナはそっちの森へ。ヒナタは反対側に向かって走るんだ!」
「バラバラに逃げたら危険なんじゃないの!?」
「大丈夫だ! 適当に撒いたらまた戻ってくればいい!」
「でも……」
「走れ!」
俺は再び足元の小石を拾い、ラプトル目掛けて投げつける。ヒナタに重傷を負わされた一体を除くと、ボス個体が俺、残りの2匹のうち1匹がヒナタ、そしてもう1匹がユウナに注意を向けていて、上手く対象は分散できたようだ。
もっとヒナタが集中的に狙われるかと思っていたが、どうやらラプトル側もヒナタのことを少し恐れているらしく、非力そうな俺とユウナにも狙いをつけたのだろう。
しかし問題は、ユウナがどこまでラプトル1匹に対して逃げられるかということだ。
ヒナタはまず1対1に持ち込めれば大丈夫で、俺も身体は鈍っているものの、撒くくらいならできるだろう。しかしユウナの場合、1対1でも襲われてしまう可能性は十分にある。
「ほら、こっちに来いっ!」
俺はユウナを追いかけるラプトルにも挑発を仕掛けるが、奴は既にユウナのことしか眼中にないようだ。俺を追うボス個体も既に近くまで接近していたため、俺は急いでジャングルの中に逃げ込む。
映画で見た通り、ラプトルの足は非常に素早かった。単純な走力では敵わないと判断した俺は、木のツタや幹の間を潜り抜けて何とか撒こうとするものの、奴らも上手く身体を捻って隙間から同じように潜りぬけてくる。
俺がボス個体を引き付けたのは不味かったか。いや、そもそも武器も何も持っていない俺達が、太古の肉食恐竜とまともにやり合おうとすること自体が間違いだったのかもしれない。
自作した草の服は木の枝に引っかかってぼろぼろになってしまい、既に脛の辺りは擦りむいて血だらけになっていた。靴は乾かした運動靴を履きなおしていたが、水たまりやぬかるみの多いジャングルを走り抜けるには少し相性が悪い。
振り向くと、ラプトルが更に近くまで迫っていた。
「クソッ……うわっ!」
前を向いた俺はさらに驚いた。
慌ててブレーキを踏んだ足元の砂が、底の見えない深淵へと落ちていく。
ラプトルとの終わりの見えない競争で俺が辿り着いたのはジャングルの終点。崖だった。
崖下に広がるのは、途方もないスケールの滝。いつしかテレビで見たナイアガラの滝を思い起こさせるほどの、巨大な滝壺だ。
爆発音にも近い水の音が崖上のここまで聞こえてくる。ジャングルの中を走っている時から薄々水の流れる音がするとは思っていたが、まさかここまでとは。
後ろを見ると、同じくラプトルもジャングルを抜けてこの崖に辿り着いていた。奴は俺が逃げることができないと分かったのか、牙を剥き出しにして低く唸る。
そして俺から目を離すことなく、ゆっくりと距離を縮めてきた。
一方の俺は、もう逃げ場がない。ラプトルと向かい合って対峙するも、後ろは滝だ。
「他人の心配をしてる暇はなかったってことか……」
意を決した俺は、先程のヒナタの構えを真似てみる。
俺の『天才』は最初こそ何の能力も持たないが、あらゆる事象を体験して、それを模倣していくことで本来の最終形に到達することができるという代物だ。
ヒナタの空手についても、目で追うことで大方の動きをコピーすることができる。一朝一夕でヒナタのレベルまで到達することは不可能だが、数時間も練習すればまともな使い手とも渡り合うことができるだろう。
ただ問題は、2年間俺が全く運動をしてこなかったことと、ヒナタの空手をそこまで分析できていないこと。事実、俺の身体はラプトルとの追いかけっこの中で疲弊しきっていて、今にも倒れそうなくらいだった。
既に脳内は酸欠で物事を考えるのが辛くなり、視界はグラグラと揺れだしている。2年間のブランクがまさかこんなところで響いてくるとは。
「畜生ッ!」
最後の気力を振り絞り、俺はラプトルに殴り掛かる。
その時だった。視界が一気にグラつき、俺は足を絡ませてつまづいてしまった。
慌てて体勢を立て直そうとするも、それが悪手となって俺は完全に倒れこんでしまう。
俺は受け身を取ろうとしたが、上半身が地面に激突するどころか、つま先までもが地面から離れてしまったことに、少し経ってから気付いた。
俺は、足を踏み外して崖から落ちてしまったのだ。
「しまっ……」
急いで手を伸ばすも、既に俺の身体は崖から強く引き離されていて、重力に従ったまま真っ直ぐ下へと落ちていっている。
真下で待ち構えているのは、目前の巨大な滝から勢いよく流れ出た水が形成した湖だ。吹き荒れる風が俺の身体を揉みくちゃにしながら、その湖へ俺を叩きつけようとしている。
嘘だろ? こんなところで?
「うわああああ!!」
腹の底から振り絞った絶叫も虚しく、俺は物凄い速さで湖へと降下する。
そして俺の身体と水面が接触した瞬間、ついに俺は意識を失った。