「全ては自分の為……」
一体何の話をしようと言うのか。
もしかすると、女は屋上の時のように部外者を巻き込んで何かを主張したいのではないかと考えた。しかし、どう転んでも女の非は揺るぎない。
女は入り口の方を指差した。どうやらそこで三人になりたいらしい。当然、僕は従うしかない。
窓口の方とATMの間は自動ドアによって仕切られている。よってここから店内の様子を見張る事は容易い。つまり、一般の出入り口から逃げようとすれば、必然的に僕たちの目の前を通らなければならず、裏手にある職員用出入り口から逃げようとすれば、ここからそれが見える、という訳だ。
「君、なんであの屋上に来たの?」
僕たちは元々窓口側にあった椅子をここまで持って来させられ、それに腰掛けさせられた。
女は左手に持っていたナイフをしまうと、拳銃をまるでおもちゃでも扱うかのように軽く持って、ゆらゆらと上下に揺らしていた。
「そんな事より、スマホとかを没収するとかしなくて良いんですか? せっかく防犯カメラを壊したのに、誰かに撮られているかもしれませんよ?」
「あー、まぁ、その時はその時かなぁー。ここからでも多少は見えるしね。で、なんで屋上に来たの?」
僕と奏は顔を見合わせた。目があった瞬間に奏の視線が落ちたので、僕が答える。
「噂の調査をしてたんです。あなたもご存知でしょう?」
「へぇ〜、面白い子もいたもんだ。でも、答えになってないよね」
出来れば自分の身の回りに起きた出来事を話す事はしたくなかった。しかし、あの時に屋上にいた理由を尋ねられたならば、その中身に触れざるを得ない。僕は仕方なく噂に自分がはまっている事とそのビルの看板が落下してきた事を話した。
「ふ〜ん、なかなか面白いね」
「こっちとしては良い迷惑なんですけど……」
女は明らかな優越を背景に、何も臆する事なく話してくる。その一方で、強く出る事の出来ない僕たちは、窮地に立たされていると言って相違ない。
「まぁ、そんなどうでもいい都市伝説みたいなもので、あんな恥さらしを受けるとはね……」
「恥だと思っているなら、どうしてあんなことしたんですか!」
奏が少し強い口調で言った。
その時、女の眉間がギュッと寄ったのがわかった。
「そういう問題じゃない。私はあの男のことも、不倫したことも後悔したなんて思ってない。だって、それが私の幸せだったから」
僕はとても自己中心的な考え方だと思った。
確かに、人間は自分のしたいように、やりたいことをやりたいと思うだろうが、通常ならば協調性やルールを優先させるはずだ。しかし、この女にはそれがない。
それは、沙知の様にもがき苦しんだ悲劇結果の狂気ではなく、欲にまみれた更に混沌とした狂気だと思った。
「人間はどうせ死ぬの。長く生きても、やりたい事はどんどんできなくなる。それなら、やりたい事を全部やっておかないと損でしょ?」
「じゃあ、なんで子供を三人も産んだんですか! 婚約も! 結婚も! あの屋上で泣いていたのは何だったんですか!?」
強い口調の奏が反論するたびに女の眉がピクピクと動く。しかし、なんとか冷静さを保ち続けている。
「全ては自分の為よ。子供が出来た時、あの男が子育てをする事によって、私に自由な時間ができる。でも、その男に死なれたら、私の自由時間がなくなってしまうからね。だから、すがる様な思いで泣いたの。結婚も子供が出来るのも、幸せと感じた事はなかった。ただそれだけよ。」
「全ては自分の為……」
僕は無意識に女の言葉を反復していた。
自分が自由奔放にしているのに、他人を縛り付ける事を強制するのか。身勝手にも程がある。
「私は人生を楽しく過ごしたい。ただそれだけ。それなのに何が悪いって言うの?」
「違う! 人は人を思って、他の人と助け合って生きていくんだ! 一人で生きる事は辛くて、苦しくてから。あなただって、他の誰かがいなければ、幸せは享受出来なかったはずでしょ!?」
女は奏の前で仁王立ちになり、頬を打った。奏の髪が一瞬だけふわりと舞う。
「奏っ!」
僕は立ち上がって抗議の意をしめすが、銃口を向けられて怯んでしまう。
「座りなさい。拘束しなくとも、動けなくする事くらい簡単なのよ」
僕はやりきれない苦さを噛み締めながら、仕方なく静かに腰を下ろす。
それを見て、女は「よろしい」とご機嫌な声で銃を下ろした。
どうしてなのか、手足は自由であるが、奏は避ける仕草も、防御する態勢も取らなかった。
平手打ちをされた事によって、奏は僕とは反対側の斜め下を見ている。女の視線から目をそらすかのように。
「あなたは、こうやって私に平手打ちしたんだよ。何か言おうとして言葉が見つからなかったから、自分勝手にこうやって打ったんだよ」
「そうやって、自分の都合の良い事ばかり覚えれば、それは確かに幸せね、でも……」
奏は低い声で言った。そして正面に向き直り、上目遣いで女を睨む。
僕は直感した。奏は怒っている。そんな単純な事だが、はっきりとわかった。彼女は時々それらしき表情をする事がある。例えば、浩介や果歩に対して。洲崎警部との最初の事情聴取でも、それに似たものはあった。しかし、それは明らかに自制された感情だった。
今、彼女は自分を押さえつける事をやめた。その横顔は、はっきりとした怒りに満ちていた。
「あなたは本当の幸せを知らない。苦しみや悲しみを乗り越えたとき、嬉しさや喜びは何倍にもなって幸福を感じさせてくれる。自分が楽しく生きたいだけって、それはそのうち退屈になるだけ。そして、逃げる事のできない苦しみや悲しみが何倍にも重く感じられる。本当に、あなたは哀れだわ」
その言葉に女は鼻で笑った。いや、ただ不気味に微笑んだだけかもしれない。どちらにせよ、確実に奏を嘲り笑った。
「確かに、あなたの言う事はわかるよ。じゃあ、この不幸も超えて見せてよ」
そう言うと、女は再び僕に銃口を向けた。それも、僕の額につくくらいの近さまで。
銃口が当たっていないのに、額に当たりそうな部分がピリピリと熱くなった。何か、そこだけ細胞が集まってきているような感覚になる。
「何をする気!?」
奏の取り乱すような声に、視線だけをそちらにやる。
今までの表情は影も形もなく消え、血相を変えてこちらを見ている。きっと、これが女の狙いなのだろう。
「彼が死んでも噂通りの事だし、もっと言えば、彼の死は予想できていたんだから、当然準備もできているんでしょう? あなたもこの惨劇を乗り越えて、幸せになってみてよ」
「やめてっ!」
「へぇ〜、あなたもそういう表情するのね。やっぱり、目の前で人が死ぬのは辛い? それとも彼だからかしら?」
女が挑発的な笑みを更に濃くすると、サイレンの音が聞こえてきた。
女もこれで少しは動揺すると思ったのだが、むしろ「やっと来た」と舌舐めずりをした。
女は太もものポーチからハンマーを取り出し、大通りに通じている側の自動ドアのガラスを叩きわった。そして、窓口側の方を睨む。
「おーい! お金まだぁー?」
声を聞きつけた先ほどの女性店員が茶封筒を持ってくると、丁寧に両手で手渡し、頭を下げた。
「お待たせして申し訳ありません」
「ほんと、待たせすぎだから」
女はその女性店員の下がった頭に勢いよくハンマーを振り下ろした。僕たちは一瞬だけ飛び上がったような悲鳴をあげる。自動ドア越しに見ていた窓口側の人達も同じような反応をした。
女性店員は倒れこむと、後頭部を抑えてうずくまる。女はそこに追い打ちをかけ、何度も何度も殴り続ける。
「もうやめてっ!」
奏の金切り声も、女には届かない。
ただ声を上げるだけで、止めようと思うのに、体が石のように動かない。女の狂気が明らかに異質で、触れられないものとなっていた。
やがて、女性店員は動かなくなってしまった。女は顔や服についた返り血を気にする事なく、それを窓口側へ半ば放り込むように運び込む。
「わかってるね?」
客や店員の表情から血の気が引き、震えあがるような恐怖に怯えた。見せしめにするには十分だった。
女はそれだけ言うと、僕たちの方へ戻り、外の様子を伺った。
間もなくして、銀行の周りが包囲された旨が拡声器で聞こえた。警察側はこの銀行内の状況を把握しているのだろうか。窓口側の方は窓こそついているが、ブラインドシャッターが下りている。今は夏であるから、当然のことと言えるが、これでは外から中の様子がわからない。
そしてもう一つ気になった事がある。
女はもともと立てこもるつもりだったのだろうか。




