「そう、それなら良いけど」
夏期講習は結局遅刻してしまったが、何やら事情を話したところ咎められる事はなかった。別に、事故にあったという証明も、警察の方から根回しした訳でもないが信じて貰えた。
「そんな事があったの」
「まぁ、果歩もいたし、何とかなったよ……」
帰りは同じく夏期講習に参加していた奏と一緒になった。僕たちは橋を渡り終えて大通りを歩いていく。
奏は、僕が遅刻した事をかなり気にしている一方で、直接的に聞くのもためらっていた為、自分から話す事にした。
「やっぱり、その手の訓練とか講習はしっかりやっておくものよね。『いつ使うかわからない』じゃなくて、『いつでも使ってやる!』くらいじゃないと」
「そんな頻繁に人が倒れているところを見るのは嫌なんだけど……」
それでも奏の中ではそうなのだろう。もしも奏が僕と同じ目にあったなら、迷わずに同じ事をしただろう。いや、むしろ僕よりも適切に動いていたかもしれない。
「それで、噂との関連は……?」
奏は恐る恐るといった表情で僕の顔を覗いてきた。
やはり気になる点ではあるのだろう。果歩も洲崎警部も同じようなことを聞いてきたのだから、当然といえば当然だ。
「僕の不注意だよ。果歩がいなかったら、どうなっていたかはわからないけどね」
なるべく安心させられるように笑顔で言った。しかし、奏の危惧は拭いきれなかった。
立ち止まって、胸に手を当てて結ばれた糸を優しく、ゆっくりと解くように尋ねる。
「その、事故に遭われた中学生はどうなったの?」
「あぁ、多分、助かったんじゃないかなぁ……」
スマホのニュース記事などを調べれば多少は情報が出てくるかもしれないが、今までの事件事故を含め、意図的に情報が入らない様にしている。理由としては、コメンテーターやキャスターなどに食い物の様に扱われるのが疎まれたからだ。
応急手当は女子大生らしい二人組に任せたし、大丈夫だと思う。あまりこういうことは思いたくないが、人命救助を名目に女子中学生の体を触っていらぬ勘違いされる恐れがある。そのために、その二人を頼ったのだ。
救急車に運び込まれるところは確認したから後は祈るしかない。
それにしても、あの速さで救急車が到着するであれば、沙知の時だって死なずに済んだのではないだろうか。
いや、そう考えてしまうのは単なる責任転嫁だろう。
「そう、それなら良いけど」
奏は少し表情を落ち着かせて言った。しかし、すぐに眉間を寄せてこちらを睨む。おまけにため息もついてきた。
「で、また警察署に行く事になったのね?」
親身になってくれるのはありがたいが、そういうため息は見たくない。しかも何かを期待してがっかりしているようなので、申し訳ない気持ちになってしまう。
「僕だけが時間取られるのに、なんで奏が僕より凹んでるのさ」
「私にも、個人的なところで関わるから凹むのよ」
「奏の個人的なところって?」
「夏以の時間が私にも必要って事」
「なんで? どうして僕の時間が奏に必要なの?」
「もういいわ。私一人で考えてるバカみたいなことだから」
奏はもう再びため息を吐いた。
何か、奏自身が僕にしたい事でもあるのだろうか。
「じゃあ、夏期講習の期間終わったらどこか遊びに行く?」
何気なく誘ったつもりだったが、奏の表情がみるみる赤くなっていく。これは夕焼けのせいだろうか。
「うん……」
奏はそっぽを向いて答えた。僕がその表情を覗き込もうとすると、奏は手で口元を隠し、逃げるように体の向きを変える。
「どうしたの?」
「別にっ!」
何だかまた、いつかの時のように奏の様子がおかしくなったみたいだ。僕は黙ったまま夕焼けの空を見上げることにした。
西から東へオレンジの柱が、雲の切れ間から細く伸びる。その光を受けた雲もオレンジや赤紫に染まっている。
僕はこの景色が本当に好きなのだ。もう、夜にならないで欲しいと願いたいくらいだ。この光は朝日では見られない。この時間だけの特別な光景だ。
目を閉じて深呼吸をしてみる。オレンジの光が体内に浸透し、暖かさを宿す。夏は確かに暑い。もちろん今も。それでもこの光景があれば、僕は満足なのだ。
カシャ!
突然のシャッター音に、僕は我にかえる。反射的に音のした方を見ると、奏がスマホのレンズを僕に向けていた。
「ごめん、今の夏以がとっても良い表情をしてたから、つい」
あはは、と誤魔化すように笑う。
僕は呆気にとられて言葉が出ない。
「夏以もこんな表情するんだね。知らなかったよ」
「いや、その前に勝手に撮るなし!」
奏のスマホを奪い取ろうとして腕を伸ばすが、一歩下がってそれを回避する。そして、ステップを踏むように僕の前に踊り出て舌を出した。
明らかな挑発行為だ。
「この表情はレア度高そうだから、簡単には消させないよー!」
「じゃあ、無理やり消させてもらうまでだよ」
僕は一歩踏み出してスマホを奪いにかかる。奏は腕を高く上げて、僕の腕を空振りさせる。さらに一歩近づいて距離を縮めると、それに合わせて奏も下がる。
その時、後ろ向きで一歩下がった為に、進行方向にいた人に気付かず、ぶつかってしまう。
「すみません!」
奏はすぐに振り向くなり、頭を下げた。
幸い、ぶつかった人はこけることなく、少しよろめく程度だった。
「いえ、大丈夫よ」
その人は二十代くらいの女性だった。迷彩の野球帽をかぶっており、後ろのアジャスターのところからポニーテールが飛び出ている。服装は運動用のジャージーを着ていた。しかし、運動には似つかわしくない。腕や太もも、足首や腰の部分にもそれぞれ小さなポーチを巻きつけている。ある意味では、重装備に見えた。
「あなた達……」
女性が聞こえるか聞こえないかの、小さな声で呟いた。
その瞬間に、僕はその女性が誰なのかを悟った。しかし、ここにいるはずがない。その葛藤からか僕は少しめまいがした。
そして、このことを気付けていない奏に伝えようとしたが、遅かった。
「きゃっ!」
女は左手で腰のポーチからサバイバルナイフを取り出し、右腕で奏の腕を掴んで引き寄せ、流れる様に首に巻つけた。
その女性は、ビルの屋上で男が転落死した時、一緒にいた女だった。
女はナイフの切っ先を奏の頰に突き立てる。奏は体を強張らせながら細かく震えている。
「丁度良いところで会ったわね」
女にとって何が“丁度良い”のかわからなかった。
彼女は警察が探している人物だ。それ故に、今すぐにでも電話をしたいのだが、少しでも動くと女が奏を刺しかねないと感じた。
そして女はナイフを突き立てたまま、首元の腕を左腕に変える。そして、右手で再び腰の辺りのポーチから拳銃を取り出した。そして、銃口を僕に向ける。
「入りなさい」
女が首で指図したのは真横にあった銀行だ。僕はこの先、何が起こるのか大体の想像がついた。
僕はそれに仕方なく従うことにした。入店と同時に銃口が後頭部にコツンと当たる。
入店と同時に冷房の乾いた風が吹く。汗が冷えて身震いがした。
入り口にはまずATMがあり、そこから窓口の方向へ歩かされる。店内には店員と客を合わせて15人程いた。当然、来店している客と店員は状況を察する。
女は目で、客を睨んでそのまま逃げないよう誘導した。そして、窓口に歩いて行くと、そこの担当らしき女性の店員は冷静さを取り繕って挨拶をする。
「いらっしゃいませ」
「いくら出せる?」
主語のない言葉に、窓口の女性は気を利かせた。
「上の者に尋ねて参りますので、少々お待ちください」
そう言って、店員はくるりと振り向き、奥に向かった。女はその背中に「3分」とだけ言った。
そんな事で時間を急かしても、恐らく既になんらかの形で警察に通報が行っているだろう。それは客からではなく、銀行のシステムとして。
出入り口は一つだけ。無論、職員用出入り口なるものもあるだろうが、この場で職員だけ逃げ出すというのは何かと非難の目にさらされるだろう。
「お客様、個人様ですと、100万円程度が限度でございます」
恐らく窓口で対応した店員よりも立場が上の女性店員が恐る恐る前に出て言った。
「わかった。準備して」
もっと値を引き上げるのではないかと思ったが、女はあっさりと承諾した。そして、僕から銃口を外し、防犯カメラに一発発泡した。
飛び上がるような悲鳴をよそに、女は叫んだ。
「金を用意する奴以外は全員、ここに並んで!」
そう指図すると、待ち合いの為のベンチに、客と関係の無い店員が一列に並んだ。100万円を承諾した女性店員だけがそれを免除された。
僕もベンチに座ろうと動き出すと、女に止められた。
「ねぇ、私とお話をしましょう?」
もちろん、僕に拒否権は無い。




