「大袈裟」
校門を出ると、連日から続く赤く燃えるような夕焼けが熱を持って体をジリジリと焼いてくる。しかし、幾分か雲も残っている為、直接にその光を受けることも途切れ途切れとなっていた。そして、その合間に吹く風の心地よさはとても良い。
部活動をせずに帰ることは別に珍しくないが、奏と二人で帰るのは久々な気がする。
なんだかんだでいつも浩介を含めて三人で帰る事が多かったのだ。その為に心なしか会話が弾まない。お互いにどうでも良いと思える話題を出しては、沈黙を嫌い、違う話題を出す。そんな堂々巡りを繰り返した。好きなアイスの話、夏派と冬派の話、犬派と猫派の話、そして少し先の将来の話。本当にどこにでもあるような話題だ。
そして、奏が小さくと微笑んだ。
「なんか、思ったより元気そうでホッとしたわ」
どうやら、沈黙を嫌っていたのは僕だけで、奏なりに僕を色々な切り口で案じていたようだ。本当に面倒見が良いというのは、こういうことを言うのだろうと思った。
ただ、それが逆に、少し気に食わなくて僕はいじらしく敬語を使ってやった。
「ご心配をおかけしました」
「ほんと! 学校じゃ凄く暗くて、この夏の暑さ感じてないのかと思ったんだから!」
「いや、暑いのは暑いから」
二人で笑い合った。学校を出る前までは綺麗な夕焼けに雲が細々とある程度だった空が、徐々に灰色の雲で塞がれようとしていた。
急に風も強くなってきた。その風は、街に雨の匂いを運びこむ。
そして偶然、本当に偶然、複数の企業が入っているビルの屋上に取り付けられた看板が目に付いた。その看板は風に煽られ、今にも落ちてきそうだ。
「なんだか一降り来そうな空模様になってきたわね。少し急ぎましょうか」
「あぁ、うん……」
その看板のビルが丁度進行方向にある。奏は何も知らないままビルの影に入る。僕は一抹の不安を抱えながら奏の後を追う。
勇敢に前を歩く奏が先にビルの影から出る。数秒遅れて僕もそれに続く。
安堵して再び看板を見上げる。僕が勝手に「落ちそうだ」と早とちりしていたのだと自覚する。ああいうものは案外頑丈に作られているのかもしれない。
「ほら、夏以ー! 降って来ちゃうよ!」
「うん」
再び奏の後を追おうとした瞬間、後ろ髪を引かれるように、来た道を振り返る。そこには、耳にイヤホン、手にはスマホとタバコの男性、いわゆる僕の嫌いな人種がこちらに向かって歩いてきていた。
なぜ、この男性が気になったのか、僕にもわからないが、目が釘付けになった。
男性と僕との距離が五メートルに差し掛かった時、頭上で大きな音がした。雷ではない。瞬時に見上げると、看板が落下の挙動を始めていた。
その刹那、目の前の男性が看板に押しつぶされた。目の前でデッドラインとセーフラインが分かれた瞬間だった。
足元を見ると、看板と地面の間から僕の足をつかむように男性の右腕が伸びていた。更に、そこから滲み出るように赤い液体が広がっていく。
そして、暗くなった空から、大きな滴がポツリポツリと降り出し、辺りを濡らし始める。間もなくして本降りになったが、僕は何も感じない。
寒いのは雨のせいじゃない。全身の血の気が引いているからだ。更に体が金縛りを受けたみたいに動かない。
「夏以っ!」
遠くで奏の声が聞こえる。いや、水中の中かもしれない。
「夏以っ、ってば!」
肩を揺すられてようやく、体が動き、脳が冷静に物事を処理し始める。
「救急車と消防は呼んだわ」
「あ、あぁ、えっと……」
「何もしゃべらなくていいから、こっち」
肩を抱かれてたどり着いたのは、別のビルのエントランスだった。とりあえず雨宿りできるところに、という意図だとすぐにわかった。
壁を背もたれにして座ると、正面にしゃがんで、まっすぐ僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
奏の前髪からも、雨水が滴っている。
こんな時に思うのも不謹慎だが、雨に濡れた奏の髪が一層ツヤを放って綺麗に見えた。
「何か、飲み物とか、買ってこようか?」
「いい、大丈夫」
「そっか、それじゃ、落ち着くまで休みましょう」
ようやく奏に笑顔が戻った。しかし、誰にでもわかるような作り笑いだった。
奏は立ち上がると、再び話を始めた。
「これからは、折りたたみ傘を持たないとね」
「うん、そうだね」
「今度、一緒に買いに行こうか?」
「うん、良いよ」
先ほどの会話とは違い、奏は沈黙が来るのを恐れているようだった。僕も正直そうしてくれている事に助けられたが、奏を無理させているのではないかという不安がこもり、やるせない思いだけが誰にも見えないところで隠れていた。
警察車両や救急車が駆けつけると、野次馬が集まっていた。「救急車が通ります、道を開けて下さい」という声が、雨の中の事故を片付けようとしているようだった。
数分後、雨足が弱くなると、奏が通報者として事情を説明しに外へ出ていった。そして、看板にギリギリ当たっていない僕のところへも救急隊員の人が駆けつけ、怪我がないか確認された。当然、外傷無し。よって、そのまま帰宅する事になった。家に着くまでの間、奏はずっと付き添ってくれた。
帰り道、雨はすっかり上がっていた。僕たちは、長い影を並べて歩いていた。ワイシャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。風は吹いていないものの、夏らしからぬ寒さが体に染み込んでいく。ここでようやく、雨に濡れた後の寒さだと気がつく。
奏の方を見やると、全くそんな素振りはない。僕もそんな素振りを見せている訳ではないが、やはり助けて貰った身としては罪悪感がこみ上げてくる。
「ごめん、色々迷惑かけて……」
「良いのよ。私はやる事をやっただけ。後は全部不可抗力だし」
「でもほんと、ありがとう。あのままだったら、多分発狂して失神してた」
「大袈裟」
笑えない冗談をあしらう様に言った。僕は冗談のつもりじゃなかったが、奏はそう捉えたらしい。
そして、深刻そうな顔になった。
「ねぇ、もし、もしもね、あの噂が本当だったら、今日のあれは不可抗力に入るのかしら……」
あの看板の落下は僕を狙ったもの。そういう事なら噂のせいにしてしまえる。ただ、僕の代わりにあの男性が下敷きになったというのか。正直、あの男性に命拾いされたとは思いたくない。
下敷きになった男性は、看板の下から引きづり出された時には既に、死亡が確認されたらしい。もしも、あそこに立っているのが僕だったら、もしも看板に気がつかなかったら、僕も一緒に下敷きになって死んでいたかもしれない。
「ごめんなさい。今の忘れて」
恐らく僕が険しい顔をしたせいだろう。これ以上のこの話を広げるのは良くないと判断したらしい。いつも通りの大人びた表情になる。
「じゃあ、私、そろそろ帰るわね」
「あぁ、雨に濡れたし、風邪に気をつけて」
「夏以もね、それじゃあ」
こちらに背を向けて、二、三歩進んだところで、奏はクルリと振り返った。
「明日、夏以は風邪じゃなくても学校を休んでも許されると思う」
「あぁ、ありがとう……」
僕の知っている奏のイメージとは少しずれた言葉だった。
しかしこれが奏なりの優しさの見せ方と思うのは、奏にとっては不本意だろう。だから口にはしない。口にしたところで「当然のこと」と言い返されるのが目に見えていた。
僕は不意に空を見上げた。ビルの看板が思い出されそうになって目を閉じる。
雨上がりの匂いは嫌いじゃない。そして今、雨で濡れた街を夕日が優しく包み込んでいく様に、詩の一つでも読めたらロマンチックなのにな、とセンスの無さを少し悔やんだ。
そう、今日も何気ない一日の一場面だったのだ。こんな感情になることだってある。
僕は再び目を開く。
日の光は西の空にまだあるのにも関わらず、虹を見つけることはできなかった。