「こんなの望んでないっ!」
沙知は起き上がりながら包丁を拾う。
「雷夫!」
僕は無意識に雷夫の名前を叫んでいた。
雷夫に気を取られていたその隙に、沙知は再び僕にまたがって包丁を突き立てる。今度は立ったまま、大きく振りかぶった。
僕は身を守る姿勢を取るが、腕だけでは顔と腹の一部がせいぜいいいところで、その他の箇所はほぼ意味はなさないだろう。後はせめて急所は外れてくれと願うばかりだ。
──やられる!
「きゃっ!」
沙知の攻撃はまたしても防がれた。どうやら雷夫が自分の鞄を投げたらしい。それが見事沙知に命中し、攻撃を免れたのだ。
雷夫は僕のところに来ると、立ち上がるのに手を貸してくれた。そして、沙知の方を向いて叫んだ。
「沙知さん! 目を覚まして下さい!」
沙知はこめかみのところに手を当てながら左右にフラフラとしながら立ち上がる。どうやら、雷夫の鞄はその位置に当たったようだ。幸い、怪我はしていない。
「どうして!? どうして、私にばっかり!! 嫌なことがあって、どうにもならなくて、誰も側にはいなくて。だから、自分で何とかするしか無いって、立ち上がったらこの有り様で……」
彼女の言葉は叫びではなくなっていた。救いを求めて、救われなかった、一人の被害者という苦しみの声だった。そんな彼女を、どう助けたら良い?
沙知は再び冷淡な口調で言う。
「秋澤さん、あなたは私とは違いますよ。だって、窮地に助けてくれる人がいるんですから。だから、あなた自身の価値観で物事を言うのはやめて下さい。耳障りです」
再び沙知は包丁の切っ先を腹に据えて身構える。
「私は、自分で解決できますから」
再びこちらに突っ込んでくる。僕と雷夫はそれを左右に開くような動きで身をかわす。沙知の勢いを止める為の目標がなくなった為に僕たちの元いた位置を通過して、盛大に転ぶ。
「もうやめろよ! そんなことしたって解決にはならない! それに、君が自分が傷ついて誰かを傷つけた様に、また君が誰かに傷つけられるぞ! そんな悲しいことを、繰り返してはダメなんだ!」
「さっきから、綺麗事ばかりですね……。結局は私が傷つけられてれば良かったって、そう言いたいんですか? 私はもう、誰にも傷つきません。強くなったんですから」
沙知は再び立ち上がろうとするが、足に力が入らないのか、再び腰を落としてしまう。
僕は彼女の救う方法がわからない。これはきっと、理屈じゃないんだ。だったら、どう行動する? どうやって具体性を見い出す? 考えろ、考えるんだ……。
思考を巡らせる間にも沙知は立ち上がって、再び包丁を握りしめる。そして、ゆっくりと、確実に一歩を踏み出して距離を詰めてくる。その瞳に光が宿っていた。よく見ると、彼女は涙を流していた。憎悪の表情の中に、一筋の光が流れている。
その涙に僕は希望を夢見てしまう。その涙が彼女の正しい心の表れで、拭うことをしなければならない。本来なら、こんなことは彼女自身も望んではいないんだ。
「沙知さんはどうなんです? あなたは井上先輩に助けてもらった時、嬉しかったんじゃないですか? その恩人がこの光景を見たら、褒められるとでも思っているんですか?」
沙知は、少し顔を歪めて「うるさい!」とだけ返した。
さすが、頭の良い雷夫だ。夏祭りの会話や、今ここでの会話から察して、浩介と沙知の間に何があったのかを当てて見せた。
さらに、雷夫は浩介を引き合いにした事も優れた発想だった。僕の見立てでは、ここで初めて会った時と夏祭りの時を合算すれば、少なからず好意を持っている。あまり女の子の恋心というものを利用する事には気が進まないが、仕方ないだろう。
そう思い次の言葉を考えていると、沙知の足が止まった。そして、その視線は僕たちに焦点が合っている訳ではないことに気づく。一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、その直後でその理由がはっきりと示された。
「……井上、さん」
「沙知……どうして……」
振り返ると、僕たちから10メートル後ろに、浩介が沙知と同じ種類の表情をして立っていた。肩にかけていた鞄が、力を失ったようにスルリと地面に落ちる。
「私、ちゃんと井上さんの言う通りに……」
「こんなの望んでないっ!」
浩介は目を強く瞑って拳を握りしめる姿は、まるで目の前の光景を受け入れたくないかのようだった。
それは、沙知にも同じに映ったようで、みるみると顔の血の気が引き、表情が強張っていくのがわかる。沙知の中のヒーローが、今の自分を否定したのだから、無理もない。
「また何かあったら言ってくれて、言ってたのに。俺じゃ君を守るには、力不足だったのか? それとも、俺に守られる事自体が嫌だったのか? 俺じゃ、君を守れないのか?」
浩介は自分の肩を抱いて膝から崩れ落ちた。きっと、浩介の疑問は答えるものではない。冗談だと思いたかったり、何かしらの言い訳を作りたかったり、多分そんな現実逃避的な意味で疑問を投げたのだろう。
「そんな……私は……」
沙知は、自分の首元に刃の先端を突きつける。
「やめるんだ! 沙知っ!」
「沙知さんっ!!」
僕と同時に雷夫が叫んだ。しかし、僕たちの叫びがは届かず、その手は切っ先からまっすぐ沙知の喉に突き刺さった。
初めはゆっくり滴っていく赤いものは、徐々に飛び出るように吹き出していく。それでも更に、沙知は腕に力を込める。
そして、浩介と同じように膝から崩れ落ち、半身になって倒れた。
「さちぃぃぃぃぃ!!!」
最後は浩介が叫んだ。
沙知は何かが詰まっているような低い音で、声にならない声を上げていた。しかし、その言葉を聞き取る事はできなかった。
僕は、彼女を救えなかった。こんなにも自分が無力であった事を思い知らされた。警察車両や救急車のサイレンが聞こえない事に腹が立つのは、八つ当たりがしたいからだ。誰かのせいにしてしまいたいからだ。救われないから命を奪ったり、自分で絶ったり、もう沢山だ。
僕は、浩介の隣でしゃがみ込む。そして、泣きじゃくる浩介の背中をさすってやる。浩介は沙知にも一度はこうやって背中をさすってやる仕草を見せた。実際に効果があるかはわからない。
こうしていると、さすっている相手の悲しみを全て吐き出させているみたいだ。今は存分に悲しんで、後で振り返った時に泣かないように。
浩介は途切れ途切れに、僕たちの知らない夏祭りの話を始めた。
沙知はずっと一人だった。親からも、先生からも、自助努力が足りないと言われた。クラスでも友達がいなくて、助けを求めてもみんな遠くへ行ってしまった。だから、自分で自分を守ると決めた。
そんな時に浩介に出会ったそうだ。赤の他人である浩介に助けられたことは、ひどく衝撃を受けたらしい。そして、彼女なりに、恩返しを考えていたそうだ。
「私、結構料理得意なんです! いつか、井上さんに何かご馳走したいです!」
「いや、良いって! そんなことされると、こっちが重くなる……」
「そうですか。それじゃあ、私が井上さんの様に強くなったら、ということでどうです?」
「えー、違いがわからないんだけど」
「これなら、お祝いという形で、恩返しとは別の意味になると思うんですけど……あ、でも、自分で祝ってくれ、だなんて流石にないですよね! ごめんなさい!」
「いや、まぁ、そっち方が気楽で良いかなぁ」
「ほんとですか!?」
「まぁ、俺も、さ、沙知さんの手料理食べてみたいし……」
「はい! 是非! それじゃあ、決まりですっ! 約束ですからね!」
夏祭りにこんなやり取りがあったらしい。それ以降、沙知はたまに浩介と電話をする様になったそうだ。
これは想像でしかないが、浩介は沙知を、沙知は浩介を、探り合って思い思いに距離を縮めていこうとしていたのではないだろうか。
今、目の前で何も見たくないかの様に両手で顔を膝に埋める姿を、僕は忘れない。
「なぁーんだ、これで終わりかぁー」
突然気の無い声が聞こえてきた。その音源を辿って見上げると、橋の欄干からスマホを向けている誰かの発言だとわかった。
「あなた方は何なんです! 助けないばかりか端末ばかりこちらに向けて、警察や救急車も呼ばないのですか!?」
雷夫も気の無い声が聞こえたのだろう。橋の上に向かって吠える。確かに、雷夫の言う通り、警察と救急車がそろそろきても良いだろう。しかし、サイレンの一つも聞こえない。
橋の上の人々はザワつき始める。そこから漏れてくる声に、僕も怒りの感情が高鳴る。
「えっ! 誰も呼んでないの!? 嘘でしょ!?」
「ってかさぁ、なんで私ら関係無いのにキレられてんの?」
「さぁ。あの子、知り合いみたいだから逆ギレ的な?」
「いやいや! 八つ当たりもいいとこなんですけど〜! まじ迷惑!」
「こっちはさぁ、録画機能使ってメディアに貢献してるってのに。何考えてんだろ?」
僕は橋の上にいる全員に嫌悪感を覚えた。いや、殺意と言っても良いかもしれない。頭の血管が今にもブチ切れそうで、一人ずつ殴らなくては気が済まなかった。
だから、まだ雷夫の方が冷静なのだろう。
「あなた方は人の命を何だと思っているんですか! 人が死にかけてるんですよ!? 何もしないあなた方の行為で、命が奪われるんですよ!? 何をしたかわかっているんですか!? あなた方は、それで良いんですか!?」
雷夫の訴えの前に、人が疎らになっていく。
「なんか、説教始まったから行こー」
「うん! 良いよー! 面白ものも撮れたしねー!」
そして、誰も言い返す事なく、橋の上でスマホを構える人はいなくなった。それと同時に、警察車両と救急車のサイレンが聞こえた。雷夫の声に感化され、通報した人がいたのだろうか。
やはり雷夫は集団を前にすると人が変わる。しかし、普通の男子高校生なら当然無傷ではないだろう。目に見えない傷を負っているはずだ。
「雷夫、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
集団は去ったものの、まだハキハキとしている。効果の慣性の様なものだろうか。
「言い忘れていたけど、助けてくれてありがとう。あと、橋の上の連中への代弁も」
それを聞くと、雷夫の表情は曇ってしまった。まだ、この場面では適切な言葉ではなかっただろうか。もしかしたら、浩介の事を気遣っているのかもしれない。
しかし、雷夫の表情を曇らせたのはそれだけの理由ではなかった。
「皮肉ですね。僕は橋の上で見ているだけの人がいなければ、秋澤先輩を助けられませんでした……」
僕はハッとしてその言葉の意味に歯がゆい思いをした。
普通なら、雷夫は怖じけて、警察と救急車を呼んでそれ以上は影で見ているだけだろう。しかし、橋の上に集団がいたからこそ、雷夫は本領を発揮できたのだ。
つまり、僕を助けたのは橋の上にいた連中でもあるということだ。
認めたくない事実、気がつかなければ良かった。しかしそれは、もう遅い。
今日のこの事件は、誰にも喜んだり、褒められたり、嬉しかったり、幸せになどならない。ただただ残酷で悲しいだけのものだった。




