「そんなの嘘です」
昨日の出来事は不運な、本当に不運な事故だった。ただ、残しされたものを考えると、不運と呼ぶにはあまりにも辛い結果と言える。
一度は自殺を考えた男が、女への未練を断ち切って新たな一歩を踏み出そうとした瞬間、それはこの世から葬り去られてしまった。
長く傍若無人な態度で夫と子供を顧みなかった女は、ただ一人子供三人を一人で育てなくてはならなくなった。男がいれば、離婚をして自由の身となり、この過ちを繰り返さないように努めたのかもしれない。
男の子供たちは、一番一緒にいたパパを失い、ほとんど関わりの無いママと暮らすことになるだろうか。男の育て方とは違った環境を女が作り出してしまうと、DVにつながってしまうかもしれない。
そんなことを考えながらの登校は気が思いやれれてしまう。だから僕はわざとあくびをする。暑い夏場にこのテンションならば、幾分か涼しくなるような気がした。
噂とは関係の無いことだ。もちろん、リアリスの言葉とも。それなのに、胸を打ち続けられる感覚が止まらない。何かできたのでは無いかと、思ってしまう自分がいる。
──助けられなくて、悔しい。
こんな、今の僕を見て、リアリスは笑っているのだろうか。
「何も、できなかった」
これは悔いる為に吐いた独り言では無い。どうしようもなかったのだと、諦める為の言葉だ。心でつぶやくだけでは事足りず、実際に言葉にして出していた。
少しは楽になったような気がしたが、本当に気がするだけで、頭からは離れなかった。
重い足取りで俯きながら歩く。自分の爪先を眺めていると、自分の大きさに気付かされる。いや、この場合は小ささという方が正しいか。
今まで、黒崎真珠や看板の下敷きになって亡くなった男、夏祭りのことだって何とか回避できたのかもしれない。そう考えている時点で傲慢なのだろうか、本当は助けられないことが当たり前で、助けられたことが奇跡と呼ばれるのだろうか。
一つため息を吐いて解決するようなことでもない。これは時間が解決してくれるのを待つしか無いのだ。
いつものように、大通りから橋を渡ろうとした時、ふと目の前の異様な光景が目に付いた。橋の上に、大勢の人がいて、皆欄干からスマホを橋の下に向けている。
アザラシか何かが来たのだろうかと、その欄干の人々の後ろを通過していく。時折見物客の背中越しに覗いてみるが、何も見えなかった。
橋を渡り終えて河原の道に差し掛かった時、事態を把握した。
その光景は、言葉に出なかった。いや、言葉に出す前に走り出していた。黒髪のミディアムヘアーに、垂れ目。近くに寄ると、やはり頰にはそばかすがある。
「沙知! 何やってるんだ!!」
河原にいたのは、沙知だった。それと前に河原でいじめていた三人組だ。しかし、その時と状況はまるで変わっていた。三人組は横たわり、ピクリとも動かない。その体の周りが血だまりになっている。そして沙知は、どす黒い液体が滴っている出刃庖丁を持ち、体の各所にもその液体が付着していた。
まるで変わっていたなんて表現では足りないほど、変わっている。いや、狂っている。
「あ、えっと、秋澤さん。おはようございます」
「沙知、君は何をしたのかわかっているのか?」
僕は沙知と対峙する。彼女は過ちを犯した。取り返しのつかないことをしたのかもしれない。橋の上にあれだけの人がいれば、誰かしら救急車を呼ぶはずだ。こればっかりは間に合ってくれと祈るしかない。
そして、警察への通報もしていることだろう。その間、僕は彼女をここに止めておかなければならない。
「何をしたかですって? 私、またこの人たちに呼ばれたんです。それで来てみれば、またいきなり暴力を振られたんです。だから、私は自分を守る為に持ち歩いていたこれで、返り討ちにしたんです」
沙知は光のない瞳で微笑んだ。包丁を両手で大事そうに顔の横に運び、刀身の切っ先から滴っていた液体が、顎に向かって逆流して沙知の手に落ちる。その様は狂っているとしか言いようがない。
心なしか異臭が漂っている気がした。少しの吐き気も感じる。
「沙知、君がしたのは仕返しなんかじゃない。ただの殺人だ。君は一方的に悪いことをしたんだ。全世界の誰からも正しいこととして同意されないことをしてしまったんだ」
「そんなの嘘です」
沙知は平然と否定した。そして、両手をダラリと落とすとこちらに背を向けて三人組の一人のところでしゃがんだ。そして首だけこちらに向けて指をさした。
「ほら、まだ死んでいませんよ? よく見てください」
沙知の指をさした所を見ると、微かに動いたような気がした。しかし、瀕死には変わりない。助かる見込みは、その手の人でなければわからない。素人目にはかなり危険なように見える。
沙知は立ち上がって話を続けた。
「それに、こうする事を教えてくれたのは秋澤さんの友達の井上さんですよ? 井上さんは『相手との力の差は道具で埋めるしかない』、『なるべく、使い慣れているものが良い』と仰ってました。だから、料理で使い慣れている包丁を持つ事にしたんです」
「狂ってる……」
はっきりと言葉にした。言わずにはいられなかった。彼女は間違いなく狂っている。
僕は橋の上からこちらを見下ろす群衆にちらりと目をやる。警察と救急車はまだか!? 彼女をこのままにしておくと危険だぞ!
沙知は再び不敵な笑みを浮かべる。
「狂ってる? 何を言っているんですか。狂っているのは彼らです。私はこの三人からの仕打ちですごく苦しみました。誰にも味方してもらえず、見て見ぬフリをされて。来る日も来る日も、私はその痛みに耐えてきました。その時間と比べたら、これぐらいしないと割に合わない。むしろ、私に痛みを与えるのが癖になっているかもしれない。だったら、二度と私に触れられないようにしても良いじゃないですか!」
言葉が積み重なるに連れて語感が強まり、訴えかけるような感情に変わっていく。きっと、彼女も沢山苦しい思いをしたのだ。目に見える傷以上に。それが理解できても、こんなやり方は間違っている。
──どうして、助けなかったの?
不意に、耳に届いた囁き声はリアリスのものだった。それは、確かに耳に聞こえた。しかし、周りを見渡しても当然、リアリスは見当たらない。
聞こえた言葉の意味を考えてみる。すると、彼女だって助けを求めているのではないかと思えた。今までは目の前に助けて欲しい人がいても、何も聞こえなかった。黒崎真珠も、看板の下敷きになった男も。夏祭りの親子も、不運にもビルから転落した男も全員「助けて」なんて言わなかった。
それでも僕は、助けたいと思った。それは、自分を肯定する為などではなかった。
一つ大袈裟にならない程度に深呼吸をする。
「君は前に、強くなりたいと言っていたね。でも、君のやっている事は浩介が望む事ではないよ」
「だからそれは嘘です!」
「嘘じゃない!」
強く出る沙知に、僕も負けじと噛み付く。優しく救う段階は、とっくに過ぎている。沙知が自分の苦しみを巻き込んで狂気に走ってしまったのだから、仕方ない。
「浩介は君に間違った事を教えたんだ。君がこんなにも直接的な人間とは知らなかったから、冗談であんな事を言ったんだ。本当はもっと、別の強さを、君は身につけるべきだった!」
「そんな事ないですよ」
沙知は、再び落ち着いた口調になった。
「確かに、井上さんは『強さにも色々な種類がある』と仰られていました。ただし、私は今、とっても強くなった自信があります。だから、もう良いんです」
再び微笑んで包丁を僕に向ける。その切っ先からは殺意がみなぎっている。いや、これはただの生存本能のようなものかもしれない。何にせよ、僕は身構えた。
「私の強さ、教えてあげますね」
「そんなゲームのボスクラスのモンスターからしか聞いた事の無い台詞を実際に言う場面があるとは思えなかったな」
「残念ながら、どうやら秋澤さんも悪者みたいですね。つまらないです」
沙知は包丁を両手で持って脇腹の位置に据える。そして僕に向かってまっすぐ走り出したのだ。
僕は闘牛士のように、ひらりと身をかわしたが、手をついて転んでしまう。そこに漬け込んで沙知は僕に馬乗りになる。そして、包丁を逆手に持つと、一気に腕を振り下ろそうとする。
僕は何とか彼女の手を掴んで刃が僕に向かって突き進むのを止める。沙知は、体を前のめりにして、全体重を包丁に込める。
少しずつ、ゆっくりと切っ先が下がってくる。まるで、死の宣告されているようだった。汗で手も滑りそうになるが、離さないよう必死にこらえる。
「おいっ! こっちだ!!」
どこからかの声が聞こえた。沙知はその声に反応して、一瞬力が抜けた。僕はその一瞬を見逃さず。沙知を払いのけた。
警察が来たのかと、声の方向を見る。そこには、背の小さい、小太りの眼鏡、雷夫がいた。




