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「じゃあ、何を感じたの?」

「なんだ、高校生か?」


 ビルの端に立つ男が振り返って言った。

 僕たちは学校の帰り道で、制服を着たままだ。それを見れば、高校生という事ぐらいすぐにわかるだろう。そこで、男は不敵に笑う。


「ちょうどいい。この青春真っ只中の彼らにお前のした事を教えてやろう」

「いやっ! やめて! この子たちは関係ないでしょ?」

「いいや、やめないね。どうせ俺は死ぬんだ。最後に何をしても俺の勝手だろ」


 どうやら予想は当たっていたようだ。それも、悪い方向に。

 僕たちはどうする事も出来ずにただ黙って話を聞くしかなかった。


「この女、俺と結婚して子供も三人いるのに他の男と一線を越えていたんだ。そりゃあふざけるなって思ったさ。ただ、それだけじゃない。子供の世話も、家事も、食事も、稼ぎも、全て俺がやっていた。それなのに、この女は外に出てばかりで一銭も金を家に入れねぇし、家のことも一切しようとしない」


 その言葉遣いや態度は決して良いとは思えなかった。しかし、女は一言も反論せずただ俯いていた。僕たちからは後ろ姿しか見えない為、どんな表情をしているのかわからない。

 もし、男の言っていることが本当ならば、僕だって彼女を軽蔑するだろう。夫婦はお互いに助け合わなくてはならない事ぐらい、高校生の僕でもわかる事だ。しかし、それが理由で飛び降りる理由になるだろうか?


「まだあるぞ!」


 男は少し悲しげな声になって続けた。


「その男との関係は婚約して結納を済ませる前からあったってんだ。だから本当は、俺の子じゃないんじゃかって思うと、子供を愛することが出来なくなりそうなんだよ……。だって、そうだろ? なんでお前の浮気相手の子供を俺が育てなきゃいけないんだよ……。冗談じゃない……」

「本当なんですか……?」


 尚も黙ったままの女に、僕は思わず声をかけてしまった。女は、膝から崩れるようにしゃがみこむと、目の辺りを押さえながら聞き取れるか取れないかの小さな声で「ごめんなさい」と繰り返していた。

 どうやら男の言う事は本当らしい。


「だから、俺はこの女の前で自殺してやろうと思った。別にこの街の噂のあるなしは知ったこっちゃねぇ。もしあったとしたら儲けもん程度さ。だが本命は、俺が死ねば扶養義務はこいつだけになる。浮気がばれて、こいつの“本命”もどっかに行っちまったらしいからな。だから、俺が死んで俺の苦労を味あわせてやるんだ」

「待って!」


 今度は奏が黙っていられなかったようだ。奏は女の隣まで歩み寄ると、女に上を向かせる。その刹那、乾いた音が屋上にこだました。

 奏は、その手で女の頰を打った。


「殴った事、謝るわ。あなたをどういう言葉で軽蔑すれば良いのかわからなかったの。そしたら違う感情が出てきた。それが何かわかる? それは怒りだった。ただ怒ると余計に言葉が思いつかなかった。だから殴る事にしたの。ごめんなさい」


 奏は淡々と、下目遣いで言った。

 今までは気がつかなかったが、この屋上には緩やかな風が吹いていた。奏のロングストレートな髪が風に捕まってなびいている。しかし、女の髪型はポニーテールであったが微塵も揺れていなかった。ただ、その表情から来ているであろう震えによってでしか動いていなかった。

 無論、照りつける太陽によって、この屋上は焼かれているように暑い。その微塵の風もどこか生温く、気持ちが悪かった。

 女は怯えるように、先ほどと同じ言葉を繰り返す。しかし、それは男に向けられたものではなく、奏に向けられたものだとわかった。


「あなたは、どうして一度愛した人を裏切ったの? それとも愛してなどいなかった? どちらにしても、あなたの態度は間違っているわ。勝手にしても良い限度をはるかに超えている。子供がいる以上、自分の身の振り方を考えた方がいいと思う」


 少し口調が強くなった気がした。いや、奏はこれでも感情を押さえ込んでいるのかもしれない。

 奏は男の方に向き直る。

 男は奏が女を殴った事に酷く動揺しているようだった。一つ間違いがあれば、竦んだ足が死への一歩を踏み出しかねないと思ったが、なんとか踏みとどまっている。


「完全に部外者なのだけれど、言います。あなたは悪くないわ」


 奏がどんな表情で言ったのか、僕にはわからない。僕は未だに屋上に出て数歩のところに踏みとどまっていた為に後ろ姿しか見えなかった。それ以前に、一歩を踏み出そうという気力さえ起こらなかった。

 ただし、聞こえてくる奏の声は優しいものに思える。


「ここであなたが自殺するのは勝手よ。ただね、残された子供達はどうなるの? 一生懸命愛情を注いで育てられた子供たちに、突然パパがいなくなったらどう思うかしら? それに、この女はあなたを捨てた時みたいに子供達も捨てるかもしれない」


 男が唇を噛んだのがわかった。奏は気づいているのだろう。男が、浮気相手の男の子供かもしれなくても、愛していることを。自分が育てた子供を置いて死ぬことなどできないことを。


「あなたは十分に頑張っているわ。だから、こんな女の事で命を捨てるなんて馬鹿げてる。別れて、あなたがこの女を捨てればいい」


 男は、今度はため息をついた。その表情はこの暑さには似合わない寂しげな表情で、そして作り笑顔を浮かべながら言った。


「君は強いね。お嬢ちゃん。ただ、君はやっぱり部外者だ。俺の味方をしてくれるのはありがたいんだけどね……」


 もしかしたら、初めて男の笑った顔を見たかもしれない。寂しげではあるし作られたものではあるが、ちゃんと笑っている。その笑顔には優しさも含まれているような気がした。

 男は、話を続ける。


「僕はね、ちゃんと彼女に恋をしたんだよ。それだから付き合って、プロポーズをして、結納をして、婚約をして、結婚して、子供をつくった。子供が産まれてからも嬉しくてワクワクしたよ。子供の成長が楽しくて、楽しみで。そして、いつまでも彼女に恋をしていた。今だって、まだ好きと思える自分がいるんだ。お嬢ちゃん、男はみんなそうなんだよ。本気で恋をすると弱くなってしまうんだ。失うのが怖くてたまらない。だから、彼女が夜遅くに帰ってきても、朝帰りでも、家にほとんどいなくとも、疑いを握りつぶして我慢してしまうんだ」

「ねぇ、あなたはどう思うの? 何も感じない?」


 奏は辛辣にも、女を見下して言った。しかし、僕も女の言葉を聞きたいと思った。男のこの想いをどう受け止めているのか、興味があった。

 ひょっとしたら、何か訳があったのかもしれない。僕たちの想像もつかない、大人の事情というものが。


「感じないわけないわ……」

「じゃあ、何を感じたの?」

「ごめんなさいっ!」


 最後に少し大きな声を張り上げた。しかし、答えになっていない。もしかしたら感情的になりすぎているのかもしれない。奏が言うように「言葉が思いつかない」とはこのことだろう。

 当然、男の待っていた言葉のレベルを大いに下回ったことだろう。それは次の言葉に表れていた。


「そうだな。お前は謝ることしかできないんだもんな。子供達のことも、俺のことも、何とも思っていない。ただ、自分が許されたい。それだけなんだな」


 男は嫌味をぶつけながら、その瞳から涙が溢れ出ていた。女は小さく「違う」と繰り返すが、もう男の耳には届いていない。

 あぁ、男と女はこうも分かり合えないのか、と思った。僕は少し女に同情した。きっと聞いてもらいたい言葉もあっただろうに、罪悪感からそれが出てこない。それを見たまんまに捉えるロジック思考の男。きっと、こういうのですれ違ってしまったのではないだろうか。


「ありがとう、お嬢ちゃん。決心が着いたよ。俺は一人の男である前に三人の子を持つ父親だ。だから、男を優先させちゃいけないんだ。父親として、しっかりしなきゃな」


 僕は再び奏の表情が気になった。この様子をどんな風に見ているのだろう。そして、僕はその感情をきっかけに、一歩を踏み出した。

 奏の隣まで行き、横顔を覗き込む。すると、表情を崩さないまま、滴が頰を伝っていた。とても綺麗な表情だった。美しいと言っても良い。ただ逆に、僕はその表情を見たくなくて、僕の胸に奏の頭を押し付けた。

 愛が生まれて、消えていく。その最後の瞬間が、僕たちの目の前で起こった事だった。奏にとって、愛とは特別な意味があるのかもしれない。とても綺麗で輝いていいて、それが壊れる瞬間が悲しいと感じたのかもしれない。それでも、僕の考えは憶測の域だ。僕にこうされて、どう思うだろうか。

 奏にとってはこうされるのが嫌かもしれない。こうすることが息苦しい事かもしれない。それでも、あの表情をじっと見つめる訳にはいかなかった。何もせずにはいられなかった。

 しかし、奏は何も言わず、抵抗もしなかった。

 男の愛は終わりを迎えた。それは、破局というかたちではなく、男が自ら決断したものだ。だから、僕たちには何もできない。男の、新たな門出を祝う事以外には。


「んーっ! スッキリした!!」


 男はこちらに背を向けると、両手を上に上げて伸びのポーズをした。それは、僕たち二人の事を気遣ってか、本当にスッキリした事を体全体で表したかったのかはわからない。女は今もしゃがみこんで泣いている。

 この二人は別れることになるだろう。協議で離婚できなければ、裁判になることもあると、ドラマや芸能ニュースで見たことがある。なるべく穏便に済むことを願うばかりだ。

 男が振り返るタイミングで、僕たちは離れた。


「そういえば、君たち……」


 言いかけた瞬間、背中の方から強い風が吹き抜けた。相も変わらず生温かい風だった。追い風だったにも関わらず、僕は目を細めた。

 そして、目の前の光景に戦慄した。

 ──男が、宙に投げ出された。

 僕はビルの端まで走り、手を伸ばす。が、とっくに男は手の届かないところにいた。その刹那、断末魔が聞こえた。

 この屋上からは綺麗な夕日が出ていた事も、僕たちは気がつかなかった。

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