「やっほ! 色々あったみたいだね!」
赤い教室に来るのは、何だか久しぶりな気がした。いや”来る”という表現とは少し違うのかもしれない。それに代替する言葉は一体なんだろうと考えてみるものの、思いつきはしなかった。
いつものように、机に寝かせていた頭を上げる。
「やっほ! 色々あったみたいだね!」
「色々、って程にはバラエティに富むではいないと思うけどね」
そしてこの赤い瞳の少女、リアリスは微笑む。前の席の机に座り、足を振り子のように前後にブラブラさせている。
リアリスの行動や話し方からは、些か幼稚的なものが含まれている様に思う。今回のリアリスの態度もそう言ったものだった。
しかし、リアリスと会うのは毎回夢の中で出てくると思っていたのだが、ここ数日は全く別の、記憶には残らない夢を見ていた気がする。あるいは、夢など見ていなかったのかもしれないが。
「毎回夢の中では君が出てくる訳じゃないのか?」
「えっ、何? 夢の中で毎回私に会いたいの?」
リアリスはいつもこんな調子だ。僕を見て楽しんでいる。幼稚な様でたちが悪い。だが、それはもうわかっている。リアリスの事は分かってきているが、噂との関連がわからない。
彼女が話す事は全て噂に関連するような事ばかりという事は、少なからず何かしら関わっているかもしれない、という憶測が僕の中ではある。
しかし、僕の記憶が形成している夢の中でこんな事を詮索するのは馬鹿げているのかもしれない。自分の記憶にない事を、自分の記憶が描き出す事があって良いのだろうか、という疑問の回答として、全てを嘘だという事も、リアリスの存在は不必要と言い切ってしまう事も出来る。
「別に、君に会わなくとも、何の支障もないから出てこなくて良いよ」
「釣れないなぁー」
彼女は少し不機嫌そうな顔をした。
そうやって、都合が悪くなるとあからさまに機嫌を崩す。そして、「何度も同じ事を言わせるな」と言わんばかりの面倒くさそうな声で言った。
「そもそもさぁ、これは夢なんだから、巡り合わせみたいなものなんだよ。君が私に会いたかろうが、私が君に会いたかろうが、それは運次第なんだよ」
「なるほど。という事は今回僕はハズレくじを引いてしまった訳か」
「まぁ、好きに思ってれば良いよ……」
レアリスは一度肩を上げて見せてから、盛大なため息とともに肩をストンと落とした。それはもしかしたら深呼吸のつもりだったのかもしれない。なぜなら再び、いつもの笑顔に戻り、いつもの調子で話を始めたからだ。
「それにしても、君は面白いなぁー」
「何が?」
「あんまり怖い顔しないでよ〜」
僕を見て楽しむだけのリアリスには当たりが強くても仕方ないと思う。しかし、これも現実世界の話であるから、実体の無い彼女に対して怒りをぶつけるのは機械に当たるのと同じことのような気がした。
軽く深呼吸をして「何が面白いの?」と改めて尋ねた。
リアリスはクスッと笑ってから「いい反応だね」と言った。
「君はまた命を落としかけたのに、まだ噂を信じていない。それでいて、噂の影響からか行動が変わってきていること。それが面白いなぁ、って!」
「行動が変わっている?」
僕は彼女の言葉を反復すると、彼女は笑顔のまま頷いた。
「私に聞かなくとも、その意味は分かっているんじゃない?」
これは浩介のことだろうか。自殺を止められず「どうして助けられなかったのか」と聞かれた事と、ベビーカーの女性に手を差し伸べて「どうして助けたの」と聞く事。これが彼女の言葉の意味なのか。
そして、もう一つ。僕はリアリスを真っ直ぐに見つめて言った。
「確かに、変わってきたと、思う。だからこそ、今君に聞かれた事に答えられる」
「それって、私が『どうして助けなかったの?』って聞いた事に対する答えの事かな?」
僕は頷く。この僕の中の変化が答えを導いてくれた。端から見れば汚い答えかもしれない。それでも導き出されたものが答えなら、僕は答えとして提出するだろう。
「この行動の変化が、僕の答えだよ」
彼女が待ち望んでいるあろう言葉、回答を待っていると言った言葉を、僕は彼女に投げかける。
「本来なら助けなければならなかった。僕自身の為に、黒崎真珠も、看板の下敷きになった男性も、僕は助けなければならなかった。それでいて『どうして助けてくれなかったの?』と言われて自分が傷つくのが怖かったんだ。だから、その怖くて弱い感情を回避する為に、僕は助けなければならなかった」
思えば、リアリスと夢で最初に会った時も、「どうして助けてくれなかったの?」だった。黒崎真珠も本当は自殺を止めて欲しかったのかもしれない。
言い終えると、彼女の口角はより一層のU字を描いて、笑みが鋭くなる。
ただ、目が笑っていないように見えるのは気のせいだろうか。
「ふ〜ん、そうなんだ。確かに、私は君自身の答えを求めていたけど、それは浩介の言葉でしょ? そうではないというのなら、私だって君に『どうして助けたの?』と聞いたら、浩介と同じ立場だったんだよ」
「君が先に聞いたとしても、僕は同じように答えた。浩介は僕の言葉を肯定しただけだよ。だから、懐疑的な君とは違う」
「でも、それに裏打ちされなければ、あなたは今程自信たっぷりに言えてはいない。君の言ったことは確かに君自信の言葉かもしれない。でも、君一人のものだけでも無い。私は完全無欠の君自身の回答が聞きたいの」
「僕の答えを不服と言うのか?」
「言わないよ。君がそれで良いならね」
リアリスは机から少し跳ねて立ち上がる。そしてこちらに背を向けて、今まで聞いたことの無い、とても低い声で言った。それはまるで、地底の底の怪物が唸り声を上げる様だった。
「それでも噂は続いている。君が生きている限り、噂は終わらない」
僕の体に鳥肌が駆け巡る。腕をさすろうとするが、やはり体は動かない。
リアリスは背中越しに首だけ振り向いて微笑んでいる。彼女は大体は笑っているが、その笑みの意味は何種類かある。その内のどれにも当てはまらない笑いは酷く僕を混乱させた。
彼女は噂のなんたるかを知っている。そして、僕がこの答えを出せないことと関係している。何がどう関係しているのか、僕にはわからない。
ましてや、ここは夢の中だ。夢の中の出来事が現実世界に影響を、しかも僕の周りに影響を及ぼしているというのか。それならば、噂の正体は怪異か?
「ちょっとぉ〜、落ち着きなよ〜」
リアリスはいつもの声に戻っていた。彼女は正面に向き直ると、僕の肩に手を置いて僕の顔を横から覗き込む。
僕はリアリスの手を振り払おうとしたが、例によって体が動けないため、何もできなかった。
「君は自由なんだよ。どう足掻こうと勝手だよ。もちろん諦めることもね。噂を信じないままでも良い。それでも、私は君自信の答えが欲しい」
「どうして、そこまで僕の答えを欲しがるんだ? 君に何のメリットがある?」
リアリスはそっと肩から手を外し、その手を胸元で反対の手で温めるようにこすり合わせた。
その手を見つめる表情は、いつになく真剣顔つきで、まるで僕の肩に触れた手を痛めた様にさえ見える。
「私が、というより、黒崎真珠が知りたかったことだから。彼女が最後に確認したかったことだからだよ」
今回のリアリスは全くわからない。何度か会話をして理解していたものが、次々とイレギュラーに飛び出す。リアリスは黒崎真珠ではないはずだ。それでも、リアリスは黒崎真珠を知っているし、彼女の思いを汲み取っている。なぜだ? どうやって黒崎真珠の心情を汲み取ったというんだ?
僕はその処理に追いつかない。
「黒崎真珠は望んで自殺した。それなら、やりの残した事を全て終えてから命を絶ったんじゃないのか?」
リアリスは眉をハの字にしたまま微笑んだ。そして、人差し指を口元に立てて言った。
「それじゃあ、一つだけヒントをあげる」
僕は夢の終わりを迎え、薄れゆく意識の中で聴覚だけは最後まで集中させた。
「噂の情報って、どうして全くないのかなぁ?」
最後にリアリスは小悪魔の笑みを浮かべた。
──そして、目が覚めた。
今にも飛び出しそうな朝日をカーテンが押さえつけ、その隙間から光が漏れている。カーテンの柄が映し出す部屋は、まだ夏の暑さをそこまで吸い込んではいない。それでも上半身を起こすのが億劫になってしまう。
これも全部、リアリスのヒントが新たな謎を生み出したに過ぎないのが原因だ。
あらゆることが複雑に絡みついていることは感覚的にわかったが、八方塞がりも同然だ。
「もう、わからなさすぎるだろ……」
僕は眉間に腕を置いて虚空に呟いた。