「ごめんなさい……」
僕の暮らす夕美市には、奇妙な噂があった。しかし、たまたま偶然が重なり、それに尾ひれが付いたものだろうと思う。よって、伝説か何かの想像の産物に過ぎないことなのだ。
それでも、高校入学後一年間は好奇心が勝り、図書館などで調べ漁っていたが、文献による資料は一つもなく、インターネットや図書館、歴史館にも足を運んだが、全く手がかりがなかった。手がかりがない事がさらなる憶測と謎を生み出し、僕はひどく混乱した。
その結果、噂など忘れようと決意し、僕は高校二年の夏を迎えた。
「ちょっと、夏以? 聞いてる?」
「あー、ごめん、なんの話だっけ?」
七月に入ってから最初の登校日の放課後、あまり広くは無い部室内で、大島奏は眉を狭めてこちらを睨む。
室内は一応北側にある為に、直接の日光は当たらない。しかし、蒸し暑さは嫌でも伝わってくる。それを扇風機一台で何とかしなければならないのだから、頭に血が昇るのもわからなくもない。
そして、本当に何の話をしているのかわからないでいると、奏に続いて後輩の稲美果歩が媚びたような声で追い討ちをかけてくる。
「先輩、乗りわるぅ〜い」
僕は今日もオカルト研究部の部長として部室に来たものの、去年の噂調査で燃え尽き症候群になっていた。調査断念の旨は奏と隣に座る井上浩介に直接伝えた。しかし、僕の本懐の全てを打ち分けた訳ではない。
因みに、二人とは一年時に同じクラスだったのだが、今年度もクラスメイトになっている。
女子二人に詰め寄られるのが苦しくなって、浩介の方を見る。浩介は片方の手で胸元をパタパタさせながら、空いている手を追い払う様に振った。それは、関わりたくないという意思を体で表現していた。
今年度のオカルト研究部の活動は、去年と比べると全く別の団体になっていた。近所の花壇荒らしの犯人探し、掃除用具の消えた雑巾の謎、名前だけ聞けばそれらしいが、結果として、花壇荒らしの犯人は野良猫であったし、雑巾が消えたのはボロボロになった為に先生が捨てたのだという。
結局、オカルトなんてものはその程度なのだ。
「あれ? そういえば、雷夫君は?」
奏が言ったのは、オカルト研究部五人目のメンバーの大森雷夫のことである。雷夫は、身長は高くなく、眼鏡をかけている。割とビビりとは言うものの、性格は真面目そのものだ。
果歩と雷夫には去年の事を話していないが、おそらく奏か浩介が話したのだろう。まるで去年を知っているかのような口ぶりで話すのだ。
そんな事で、去年散々調べたということ知らない部員はいない。
「あぁー、イーオなら、学年委員の集まりがあるって言ってましたよ〜!」
果歩は持ち前の明るくフレンドリーな性格の事もあり、砕けた呼び方をする。奏は「かなちゃん先輩」、浩介は「こうちゃん先輩」、雷夫は「イーオ」と言った具合だ。
「真面目だなぁ、ホント、なんでウチの部活に来たんだろ」
「こーらっ! せっかく入ってくれて部に昇格できたんだから、悪く言わないの!」
黙っていた浩介がつい口を開き、奏がそれを咎める。
奏はこの部の良心的存在だ。保護者と言っても良い。黒髪ロングのストレート、キリッとした顔と雰囲気からは、清純派という言葉がピッタリだ。
そして雷夫は、浩介の言う通りでかなり真面目だ。低身長、小太り、眼鏡、という点ではオタクを連想されるが、実際は全くそうではない。聞いた話では、前の中学では生徒会長をしていたのだとか。確かに、そんな人物がなぜオカルト研究部に入ったのか、という疑問は思考対象となりうる。
奏は「はぁ」とため息一つつくと、話題を戻した。
「今週も依頼箱は冷やかしやイタズラみたいなものばかりね。後は例の噂について幾つか、ってところかしら」
オカルト研究部では依頼箱を設置して、なんらかの体験談や目撃情報なんかを募集しているのだが、部活の特性上、調査対象は日常的な事からはかけ離れたものとなる。裏を返せば根も葉もない様な事柄を調査している為、イタズラも放り込みやすい。
例えば、「湖で巨大な影を見た。正体を調べて欲しい」というもの。これは僕らが嘘に振り回される様を見て楽しむ、というのに上乗せして、女子の水着が見られるかもしれない、という下心が見て取れる。
もし、この依頼を採用してしまった場合、責任感の強い奏とオカルト大好きの果歩なら積極的に飛び込むだろう。
まぁ、奏がそれを見抜いている点では安心して見ていられる。
「こんなのばっかりね……」
「えぇ〜! メチャクチャ面白そうなのばっかじゃないですかぁ〜!! そこにある怪奇が私たちを待っているっ! って、どうして気付けないんですかぁ?」
果歩はぶりっ子、と言っても差し支えないと思う。地毛の茶髪はミディアムで小顔だ。声や体の全体的なサイズ感にも自信があるように見える。まぁ、誰とでも分け隔てなく話せる点では一目置いてはいる。
それにしても、媚びなくともトーンの高い果歩の声は何もしなくとも猫なで声の様に聞こえてしまう。
その彼女が何かを思いついた様に「あっ!」と、手を叩いた。
「待っているといえば、先輩っ! ウチのクラスの子が呼んでましたよ!」
果歩がただ「先輩」と呼ぶ時は僕のことを指している。どうやら僕にふさわしい呼び方は見つからなかったらしい。
「呼んでるって?」
「私もよくわからないんですけど、『せ〜んぱぁ〜い、放課後ぉ〜、屋上でぇ〜待ってますよぉ〜』って、って言ってました!」
「わからないのに余計な脚色を加えるな」
僕は果歩の頭に軽くチョップをする。「イテッ!」と喚いたが、それもぶりっ子の一部に見えるので無視をする。
「仕方ない。行ってくる」
後輩の、しかも果歩の友達からの呼び出しなんて、何の用だろうか。心当たりが全くないのだが……。
そんな事を考えていると、去り際に果歩が調子よく言った。
「告白だったりしてぇー!」
「コラっ! 先輩を冷やかすんじゃありませんっ!!」
「はぁ〜い」
奏にツッコミを入れられているのを最後に、部室内の会話が遠くなった。
階段に着くと、部室のある二階から五階にあたる屋上を目指す。
その途中で、居残り勉強をしていたのだろうか、下校する生徒とすれ違った。僕はその階段を降りてくる姿を見て、嫌悪した。なぜなら、歩きスマホをしながら降りてきたからだった。一般に危険とされる行為をしておきながら、僕に道を譲らせる図々しさときたら……。
いや、こう考えてしまうのはエゴだろうか。
屋上の扉を開けると、暮れにかかっている光の熱が、全身を包み込んだ。
夕焼けが美しいと書いて夕美市、さすがその名にピッタリな光景だ。周りを見渡すと、確かに一人の女子生徒が校庭の方を眺めていた。
黒髪のショートボブが僅かに流れる風で微かに揺れている。背の高さは果歩と同じぐらいだろうか。
近づいても気付かない様だったので、遠すぎず、近すぎない距離から声をかけてみる。
「あのー……」
後輩相手とはいえ、敬語で始めるのは礼儀というものだ。
彼女は僕の声に一瞬驚いた様子を見せたが、こちらを振り向くと、ホッとした様な表情を見せた。小顔、というより童顔という方が正しいだろう。まだ中学に上がったばかりのあどけなさが残っている。
しかし、すぐにハッとした表情に変わったかと思えば、周りをキョロキョロした後、小さな声で聞いてきた。
「オカルト研究部の部長さん、ですか?」
「はぁ、そうですけど……」
「良かったぁ、来てくれたんですね……」
彼女は胸をなで下ろして安堵した。一体なぜ安堵したのか、僕にはわからない。
「えっと、僕は秋澤夏以と言います。今日はどうして僕を?」
その問いをした瞬間、彼女は切なげな表情になる。ここまで来ると流石に何かの裏があるのではないかと、疑わざるを得ない。
そして、彼女は僕の質問には答えなかった。
「ごめんなさい……」
たった一言の小さな謝罪だけが返ってきた。
次の瞬間、彼女は僕が登ってきた階段に向かって走り出すと、梯子を伝って塔屋の上に立った。
すると次の瞬間、僕に見せつけるかの様に、屋上のフェンスを越えて、彼女の姿が消えた。そう、正確に言うならば──彼女は、飛び降りたのだった。
名前も知らない女子生徒が目の前で飛び降りた。夕焼けの赤い光を浴びながら、彼女の姿が沈んでいった。きっと、彼女が飛び出して姿が消えるまでは、とても短い時間であったはずなのに、僕にはスローモーションの映像を見ているようだった。
全身に悪寒が走り抜け、鳥肌が逆立つ。それは、まさしく夕美市の噂そのものだった。
夕美市の噂、僕が去年まで追っていた噂とは、「目の前で自殺する瞬間をたった一人で見た時、その人は死ぬ」というものだからだ。