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ピアニスト、パウル・ヘルツの語る

 ヘレーネと初めて会ったのはバーデン゠バーデンだ。ドイツ諸邦の中の保養地だ。そこのホテルで演奏をしながら英気を養うのが目的だった。バーデン゠バーデンは単なる湯治場で、病人や老人ばかりなんて場所ではない。競馬場もあればカジノもある、立派な社交場の一つだ。

 そこでピアノを奏でるのはなかなかいい商売になったし、こちらも楽しみがあっていい滞在先だった。

 演奏が終わって、その日はもうゆっくりと酒を嗜んでいようとしていると、話し掛けてきた女性がいた。それがヘレーネだった。精一杯着飾っていたが、周囲の貴婦人方と比べたら、意匠が古いというか、何回も着たのだと判るドレスだった。まあ、こういった場所によくいる、その手の仕事をしている女性だと直感した。

「先生のピアノの演奏を聴いて感激しました。ピアノの手ほどきをしてもらいたいんです」

 今晩はどうお過しになるの? とでも言うのかと思ったらこう来たね。

 僕は彼の女を観察したよ。二十歳になるかならないかくらいで、ちょっと骨っぽいが整った顔立ち、美人と言っていい。淡い色合いの金髪に、薄茶色の瞳。薄茶色が光の加減で緑にも薄紫にも見えるところがなかなか神秘的だ。体格も申し分なかった。

「僕の弟子になりたい? でも僕はまだ修行中のつもりだから弟子は取る気はない」

 見る間に萎れてしまった。僕は言った。

「君は本気でピアノを弾いてみたいのかい? 本当は華やかな場所で後援者を得て生活できるのならどんな手段でもいいんじゃないか? たまたま僕が目に留まっただけだろう?」

 彼の女は顔を上げて僕を睨んだ。

「声を掛けるにしても誰でもいいって訳じゃないわ。あなたが気に入ったから。

 でもとんだお眼鏡違いだったわ。左様なら」

 憤然として去ろうとする背に向けて言ってやった。

「弟子は無理だけど、秘書か話相手にならないかい?」

 彼の女は振り返った。

「君は僕が気に入ったと言ってくれた。僕も君が気に入った。どうだろう?」

「それは光栄、喜んで」

 そうして僕とヘレーネの付き合いが始まった。

 ヘレーネはドイツ語のほかにフランス語ができたし、簡単な挨拶程度なら英語も聞き取れた。ピアノ演奏で食べていくには習い始めるのが遅過ぎる年齢だったが、ほかのことは実に教え甲斐があった。言葉遣いや礼儀作法を直ぐに憶えたし、ホテルに滞在している貴族の婦人方の身のこなしや会話術も見様見真似をしながら応用して、実に優雅に振る舞えるようになった。

 故郷は片田舎で、商家の出だと本人は言っていたが、真実は知らない。退屈な田舎で、退屈な男と結婚させられそうになって家を飛び出してきたと説明したきり。僕と出会うまで全く無学で過してきたのではないし、元から頭も良かったんだろう。瞬く間に洗練されて、過去なんて全く気にならない程の変化を遂げた。ヘレーネを見出し、ヘレーネを貴婦人と変わらないくらい堂々とした女性に生まれ変わらせたのは自分だと自惚れた。このまま結婚してもいいと思うくらい、入れ揚げた。エレーヌに否やはなかったと思う。

 僕の出身はミュンヘンだが、家族は巴里に居て、本拠もそこに置いていた。まずはここでの演奏の契約を終えたら、二人で巴里に行って、家族に会わせて結婚しようと決めた。

 僕の名はパウル・ヘルツだが、巴里に行けばポール・エルツと呼ばれる。ヘレーネはエレーヌだ。

 家族に紹介して、上手くいったと思ったが、妹のポーリーヌがエレーヌを嫌った。エレーヌの前歴は上手く誤魔化したつもりだったが、これからお付き合いすべき実家の人たちがいない天涯孤独の身、結婚する為の持参金はないといった点で、どこかの家出娘かアバズレを拾ってきたんでしょうと、妹が言い当てた。

 既に父は亡く、僕が一家の生計を立てているのだから、文句は言わせないと言い張り、別に家を借りた。強引に結婚してもよかったのだが、家族の祝福が欲しかった。エレーヌは僕の婚約者のまま、巴里の社交界にデビューする予定だった。

 テュイルリー宮で演奏をするよう招かれたので、エレーヌを同伴した。その時はブルボン一族のオルレアン家から出たルイ゠フィリップが国王だった。宮廷に着くと、僕とエレーヌは別々にと、引き離された。何が何やらと思っているうちに僕は宮廷の広間に通され、ピアノを弾けと指示された。

 演奏を終えて広間を下がると、エレーヌは今にも泣きそうな様子で待っていた。召使いの使うような控え室に入れられた、誰とも挨拶するなと見張られていたと、訴えた。妹の仕業ではなかろうが、僕の婚約者が宮廷に出入りする身分ではないと上つ方が判断したのだろう。エレーヌへの侮辱は僕への侮辱だった。

 エレーヌを慰め、僕は自宅で演奏会を開いて、名を知る名士方を招いた。皆、エレーヌの美貌や教養を褒め称えた。

 エレーヌはお陰で自信を付けた。自宅でもっと催しをしましょう、お客様を呼びましょう、その為に新しいドレスや宝石が欲しいわ、と望み始めた。彼の女の希望は僕の喜びだ。なるべく叶えてやりたかった。

 だが、そこそこ売れていてもピアニストの収入は高が知れている。

 巴里での新しい生活の楽しみ方を覚えたエレーヌの欲望は叶えても叶えても、尽きずにまた湧き上がり、エルツ家の財産を食いつぶしていった。

 僕はエレーヌと愛を語らう暇を惜しんで、演奏会に奔走し、子ども相手にピアノを教える毎日になった。

 そこへ高額での亜米利加への演奏旅行の話が舞い込んできた。この契約金ならなんとか食いつなげると受けた。そして、エレーヌに付いて来てくれないかと言ったが、エレーヌは長い船旅は嫌だと断った。

 船旅は言い訳に過ぎない。エレーヌは僕と一緒にいるよりも、多くの賛美者に囲まれる生活に慣れ、離れたくなくなったのだ。

 仕方がなかった。このままでは破産してしまう。契約通りに亜米利加に渡って仕事をして、帰ってきたら、今度こそエレーヌと結婚しようと心に誓った。

 でも、帰ってきたら帰ってきたで、エレーヌは手の届かない存在になってしまった。

 今となってはお互いそれで良かったのだとしみじみ思う。僕には野心も欲望も、何もかもが過ぎた女性だったよ。一時期でもエレーヌと婚約できたのが奇跡のようだ。

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