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ふたたびゲオルク・フリードリヒ・アーダベルト・フォン・ノイブランデンブルク侯爵の語る

 私はヘレーネが望むままに巴里の目抜き通りの土地を買い、屋敷を建てた。ヘレーネは何でも一流品を希望した。見積もりの値段が安いと感じれば、もっといい品があるのではと不満を洩らした。フランス皇妃御用達の宝石店から装身具を造らせ、かねてからの贔屓のラクロワの洋裁店(メゾン)で何着もの斬新な意匠の服を誂え、それに合わせた靴や帽子、手袋、数えきれなかった。また、床は私だけとしか過さないと約束していたが、宴会を開くのは止められないからと、遠方の珍味、季節外れの野菜や果物、贅沢な食材、酒、高級な食器を揃えて、大勢の客を屋敷に招いた。

 こんな罪作りな宴をしていたら地獄に落ちると、プロイセンから付いてきた私の従僕は嘆いた。上流階級や中流の者たちに限らず、大道芸人や良い旦那を狙う踊り子や駆け出しの娼婦が出入りし、旧約聖書にある神の怒りに触れるかも知れないと、畏れるよりも背徳の喜びがふつふつと湧いてきて、我ながら可笑しかった。

 お節介焼きの良識家たちは、親切にもヘレーネの過去を詳しく語り、結婚した次の日に捨てられた夫がどんな悲惨な生活を送っているか、所詮金目当てなのだからラ・ペルピニャンを信用するなと、何度も忠告してくれた。

 金目当てだろうと、名士を食い物にする女だろうと構わないと決意した人間を、口先だけで翻意できると考えている方が浅薄(せんぱく)だ。

 それでも一度気になってヘレーネに問うた。

「家に伝わる真珠の首飾りや耳飾り、それにカルティエで造らせた揃いの指輪と首飾り。身を飾るのにまだ足りない?

 一回の晩餐会に何十万フランも掛けて、疲れたり、飽きたりしないかい?」

 ヘレーネは目を瞑り、しばらくそれまでの夜会の様々な場面を反芻していたようだった。長い沈黙の後、ヘレーネは私の手を取った。

「わたしに怒っているの?」

「いいや、あなたが私の金を必要としているのなら幾らでも出すから心配しないでいい。ただ、あなたの気持ちを聞いておきたい」

 ヘレーネは心の内を打ち明けるのを恐れていた。だが、私が心変わりをしたのではと、足元がおぼつかない気持ちになったらしい。

「わたしは退屈するのが怖い

 わたしが一声掛ければ馳せ参じて、目も耳も味覚も楽しませてくれる人たちに囲まれて、騒いで、その後に残る塵芥。

 あなたがわたしに贈ってくれたこの屋敷、名馬に馬車、数々の宝石に服。もしかしたら幻で、目が覚めたら消え失せてしまうのではないかと、いつもいつも喧騒に身を置いていないと、夢ではないと確かめずにはいられない」

 初めて見せたヘレーネの底知れない不安と孤独。遊び()の手管と言うなら言えばいい。私は彼の女の言を信じた。たとえ沙漠に湖を造ろうとしていると嗤われようとも、彼の女の心の餓えを慰められるのなら、幾らでも金銭と名の付く水を注ぎこもうと後悔はなかった。私はヘレーネを愛した。ヘレーネが私を、私が期待しているように愛していたか判らなかったが、私の後ろ盾と金を必要としているのは間違いなかったのだから、私は不安を感じなかった。

 巴里に滞在する時間が長くなりがちだったが、度々故郷に戻り、経営する工場の監督や新たな事業への計画は常に怠らなかった。私を必要とするのはヘレーネだけではない。ノイブランデンブルク伯爵家、そしてそこで働く全ての者に責任があった。農場経営は勿論、鉱山、工場の労働環境は大切であり、十分な手当と食事が行き渡るように指示し、実際に見て回った。瀝青や金属の加工のほか、人工的な繊維の研究を奨励し、その成果である工場の建設や市場の開発を重役たちと議論し、本業は多忙であった。道路や鉄道の整備、軍備の充実がこの時代のプロイセンの優先課題で、我が事業は常に国から求められており、ビスマルクやローン、そしてクルップとの会談、取引は密だった。

 故郷で両親が私が巴里でヘレーネを囲っていると耳にしており、父は楽しむのはいいが程々にしておけとしか言わなかったが、母が意見してきた。

「遠いここにも醜聞として届いています。おばあちゃんのような年齢の口にできないような商売の女性に入れ揚げているなんて、恥ずかしい。別れて結婚を真剣に検討なさい」

「彼の女はおばあちゃんではありません。亡くなった兄と同じくらいの生まれです。

 それに私はヘレーネが好きだから、巴里に屋敷を買い与えて、好きに振る舞わせているのです」

「その女のどこがいいの? 巴里で悪名高い女と一緒にいて、あなたは仕合せなのかしら?」

「私はヘレーネを愛しています。これに理由や理屈はありません。

 ええ、ヘレーネといて、次々と買い物をさせられて食い物にされていると噂されているのは知っています。しかし、私が経営している土地や事業で、私の取り分とされている金から世話しているのです。農地や鉱山、工場で働く者たちには健康を保てるように環境に配慮し、見合った報酬を与え、生活に余裕を持たせられるようにしています。商会にいる者たちも同様です。

 貴族が平民出の女に貢いでいると莫迦にされているのも悪くないでしょう。世間は面白がっています。私は庶民に憂さ晴らしの話題を提供しているのです。

 母上だって、十五、六の年齢で、三十近く年上の父と結婚する時、何も不満はなかったのですか? 花嫁衣裳と面紗(ヴェール)には喜びしか隠れていなかったのですか?

 逆の年齢の取り合せがあったとしても世の中少しもおかしくはない。そうお思いになりませんか?」

「今も昔も伯爵家の娘が伯爵と結婚するのは変ではないわ。

 でもハプスブルク家の大公や大公女が大恋愛で貴賤結婚する例があるのですから、この家にそんなことがあっても、確かにおかしくはないわね。

 あなたが好きな女性ならもう何も言いますまい。こちらに連れて来たらわたしはヘレーネと会い、お話もしましょう。でも、もしあなたがヘレーネとの結婚を強行して周囲に認めさせたとしても、あなたたちの子どもに爵位は継がせないと、お父様も親族も迫るでしょう。それだけは覚悟しておきなさい」

「それは判っています」

 ヘレーネの夫、マルタン・ド・ラ・ペルピニャンが亡くなった報を、私も母も耳にしていた。ヘレーネと結婚するのに支障はなかった。

 私はヘレーネに求婚し、ヘレーネも満更でもない様子を示した。だが、実行したのは私の両親の死後、それも普仏戦争が終結した後だった。ラ・ペルピニャン侯爵に言ったように、田舎の領地に住みたくないのなら住まないでいい、巴里で遊んでいていいのだとヘレーネに何度も繰り返していた。

 貴族の令夫人にはなれないと流石に彼の女は分を弁えていたのだと嗤わないで欲しいものだ。それならばマルキーズ・ド・ラ・ペルピニャンの称号を手に入れるだけの結婚はしなかっただろう。ヘレーネはノイブランデンブルク伯爵家に入って良いか、本気で悩んだのだ。そうでなければ、普仏戦争での情報収集の貢献があったと評価を受けて喜びはしなかっただろう。ヘレーネはやっと神の前で私の妻となると誓った。私も今回の戦争で国家への功績が認められ、侯爵へと爵位が上がった。共に何もかもを分かち合う男女として私たちは夫婦であり、同志だった。

 ヘレーネは、私が二十二から五十四になるまでの間、ずっと寄り添ってくれた女性。我が儘で贅沢で、私を翻弄しつつ、本心を隠すのが当たり前の娼婦だった彼の女が、私の前では心を開いてくれた。子どもができなかったのは残念だった。だがその分私たちはよい夫婦でいられた。

 六十を過ぎ、どんなに手を尽くしても老いを隠しきれなくなってきて、ヘレーネは鏡という鏡を叩き割った。荒れ狂うヘレーネを私は後ろから抱き締め、必死になだめた。

「綺麗でいなければ価値がないのよ。わたしに女の価値はなくなってしまった」

「違う。幾つになってもヘレーネはヘレーネだ。私の愛情が失せてしまったと疑うのか? 私だけのヘレーネ、私だけのヘレーネ。それでは駄目なのか」

 ヘレーネは声を上げて泣いた。

 私の城にいれば、ヘレーネを元高級娼婦と、からかい、誘おうとする男はいなかった。そしてこの年齢になればもうそんな話題も出てこなくなった。ヘレーネを女として見、愛する男は私一人となった。ピアノ弾きの元婚約者がヘレーネをどう想っていようと、前の夫がヘレーネにどんなに惚れ込んでいたとしても、三十年もヘレーネの生活を支え、共に過してきたのは私だ。ヘレーネは私の妻。

 ヘレーネは私だけを頼り、私だけを見て、ノイブランデンブルク城で最晩年を過した。

 ヘレーネが病を得て、心臓の発作で亡くなった時、私の人生は終わったと思った。悲しみだけで死ねたらと願ったが、叶わなかった。私には侯爵家の当主としての責任が残っていた。それを果たすのが余生。

 余生のせめてもの慰めが、ヘレーネの姿をいつでも眺められるようにすることだった。永遠に私たちは一緒に過す。そう決めた。世間体と後嗣を得る為にと勧められ、家格の釣り合う、しかし子どものような女性と再婚することになっても、ヘレーネへの愛情は色褪せないまま。防腐の薬剤で満たされた浴槽の中で、ヘレーネは生きている時と変わらぬ姿で私の来訪をいつでも待っている。

 私だけのヘレーネ。

 参考文献

『ドゥミモンデーヌ パリ・裏社交界の女たち』 山田勝 ハヤカワ文庫

『フランスの歴史をつくった女たち 第10巻』 ギー・ブルトン 曽村保信訳 中央公論社

『怪帝ナポレオン3世 第二帝政全史』 鹿島茂 講談社学術文庫


 そのほか、日本語版、フランス語版、ドイツ語版のウィキペディアを参照しました。登場人物は実在の人物をモデルにした架空の人物です。しかし、駐仏プロイセン大使のデア・ゴルツのみ実在の人物の名前をそのまま使いました。史実上のデア・ゴルツは普仏戦争の前に亡くなっています。

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