ゲオルク・フリードリヒ・アーダベルト・フォン・ノイブランデンブルク侯爵の語る
人はヘレーネを悪女だと呼び、人は私を悪女から誑かされた男だと噂する。
一体誰がヘレーネの人生や心を知り、私がどんなにヘレーネを愛したか、知るだろうか。
年齢の離れた長兄が独身のまま三十を過ぎたばかりの若さで亡くなり、二男の私がノイブランデンブルク伯爵の嫡男になった。
時を経ず、六十を目前にしていた父は二十歳前の私に爵位と財産を譲った。実社会で嫡男を連れて回って経験を積ませるには、父は歳を取り過ぎていたし、兄の死で気力を失っていたようだった。身軽な隠居の身になり、私の若気の至りの失敗をせぬか、見守るだけの態でいた。
若い私はそれなりに自負があったし、支えてくれる父からの代の部下たちもいた。瀝青と石炭の鉱山を領地に所有し、それを元手にして我が伯爵家は工場を経営している。また運営規模の拡大の為の計画に着手し、部下たちも賛同してくれた。恐れるものは何も無かった。まるでワーグナーの楽劇のジークフリートのように。
家督を継ぎ、仕事をこなしてきて三年、少しは遊んでもいいだろうと巴里に出た。
巴里はナポレオン1世の甥が皇帝になったばかり、全てが新しく生まれ変わろうとしていた。
巴里の劇場で、美しい女性の姿を見た。舞台ではなく、ボックス席の一つでだ。淡い色の金髪に、贅を凝らした装い、その女性そのものが光源であるかのように輝いて見えた。
幕間の休憩時間、広間に出て、女性が出てきていないか、見回してみた。
その女性は広間に出て、多くの人に囲まれて、談笑していた。女性は私の存在に気付き、周囲の誰かが私が誰か教えたようだった。彼の女は肯いたが、紹介してくれと頼もうとはしなかった。私の近くにいた男性が、彼の女について教えてくれた。
「あれは貴婦人じゃありません。高級娼婦です。
巴里での遊びの一つになさるのもいいかも知れませんが、彼の女は高く付きますよ。なにしろ、名ばかりにしろ女侯爵ですから」
「革命で亡命先から戻ってきた貴族の一人なのですか?」
相手は失笑した。
「違います。熱を上げた上客の一人が侯爵で、結婚までした。でもあの女は侯爵の称号だけいただいて、夫を叩き出した。
称号を飾りに、貴婦人然として、ずっと商売を続けています」
「彼の女の名前は何というのですか?」
「ラ・ペルピニャン侯爵夫人、以前はマドモワゼル・ディヴェールと呼ばれていました。
ご紹介が必要で?」
その時に何と答えたか覚えていない。それがヘレーネと私の出会いだった。その晩、ヘレーネは私に近付こうとせず、私はヘレーネに挨拶できなかった。
その後、行き先々でヘレーネの姿を見掛けるようになった。私が気付くこともあれば、周囲の者がまたいますよ、と声を掛けてくれることもあった。偶然にしては出来過ぎで、明らかにヘレーネは私に興味を抱いているようだった。しかし、私が近付こうとすると、怖がるように、時には誘うような視線を投げ掛け、くるりと去っていった。
思わせ振りな高級娼婦、無視してしまおうと、遊ぶ場所は巴里だけではないと、船に乗り、ナポリやコンスタンティノープルに旅した。どこで情報を得たのか、私と同じ船に乗り、ヘレーネは私の眼前に現れた。
女にここまでされて、男が声を掛けないでいられるだろうか。
私はヘレーネを真直ぐに見詰め、彼の女も私を見詰めた。いつものように逃げ去らなかった。私は悠然と歩み寄った。初めてブリュンヒルデを目にしたジークフリードの如く恐れを感じたが、かれよりもはるかに勇敢に振る舞えた。
「急に声をお掛けすることをお許しください、マドモワゼル、いえ、マダム。私はプロイセンから来ましたノイブランデンブルクと申します」
「存知ております」
「私も貴女のことを聞いております」
「どんなふうにかしら?」
榛色の瞳が眇められた。
「世評を気にしない女性」
口元にだけ笑みが浮かんだ。
「そうよ、お澄まし顔でいらっしゃる方々がわたしを袖を引き合いなから、なんと呼んでいるかよく知っています。
貴方はどうしてわたしにお声を掛けてくださったのかしら?」
「多分、私も世間からどう見られているか、意に介さない人間だからでしょう」
「面白い方、気が合うかも知れませんね。ヘレーネと呼んでくださらない?」
こうして、ヘレーネと私の交際が始まった。私は二十二歳で、ヘレーネはもうじき三十三歳になろうとしていた時期だった。私はヘレーネに夢中になった。ヘレーネはフランス語、英語、ドイツ語ができた。前の後援者がピアニストだったとかで、ワーグナーやリストと面識があり、音楽に関しての造詣が深かった。絵画や服、装飾品の色彩や意匠に優れた意見を持っていた。私自身がまだ若かった所為もあって閨房への欲望が抑えられない日が多かったが、ヘレーネとの過し方はそればかりではなかった。すべてにおいて素晴らしく、私の心を満足させた。
しかし、ヘレーネはどこに行っても男たちから視線を投げ掛けられ、誘いの言葉を掛けられた。仕事柄と言われればその通り、ヘレーネもヘレーネで不機嫌な色一つ出さず、気を持たせるかのように振る舞った。
ひとときの遊び相手、そう割り切れれば良かった。
だができなかった。私は嫉妬し、ヘレーネを独占したい気持ちを抑えられなくなった。
「ヘレーネ、お願いだから私の目の前でほかの男にいい顔をしないで欲しい」
「わたしがどんなことをして暮らしているか知っていらして、本気で仰言っているの? わたしと、そう、率直に言うわ、寝たいと言う男性は多くおいでです。それにわたしには多額の借金があります。
ですから、貴方が一時の気紛れで仰言るのでしたら、それはできません」
「私には現在三百万フランの年収があります。その収入の半分を貴女が使っていい。だから私の気持ちを真剣に受け止めて、決めて欲しい」
「わたしをお選びになれば貴方の家名に泥を塗ります。借金を返せば済む訳ではありません。わたしは贅沢に慣れ、止められません。貴方に途方もない額のお金を要求していくでしょう。
ええ、わたしは贅沢が好き、これからもこの世の中でお金で手に入る物は何だって欲しがります。
そんな女でも貴方はお望みになりますの?
ノイブランデンブルク伯爵家のご当主に相応しい貴族の令嬢は幾らでもいらっしゃるでしょう?」
数ヶ国語を操り、教養があり、社交が巧みで、私と年齢の近い、容姿も優れた貴族の娘は確かに幾らでも花嫁の候補に挙げられていただろう。だが、自分と同じ階級で、世界の矛盾や悲惨を知らされずに育った深窓の女性より、偏見に塗れながら、自分の立場を良くしようともがき、上昇しようとする強い意思を持つ賎業の女性が欲しかった。
「貴女のような女性はどこにもいない。望むのは貴女だけだ」