第三共和政下でサロンを主催したジュリエット・ランベールの語る
プロイセンとの戦争を思い返すと、今となってはどうしてあんなにもプロイセン憎しで盛り上がったか判らなくなってきます。
スペインでの軍事クー・デタで女王イザベル2世が追放され、空位になった王座にプロイセン王家の傍系筋のホーエンツォレルン゠ジグマリンゲン家のレオポルド王子がどうかと、声が掛かったのが発端でした。プロイセン国王のヴィルヘルム1世は欧州の情勢や一族のことをよくよく考え、レオポルド王子とその父親に、スペイン王位を辞退するように命じました。
フランスでは、この一連の動きはビスマルクが企んでいたのではないかと警戒する動きがありました。特にスペイン出身のウージェニー皇妃には気に入らなかったのでしょう。ウージェニー皇妃はヴィルヘルム1世の決定を信じなかったのかどうか、確約が欲しいと駐普フランス大使のベネデッティに言い付けたのです。仕事とはいえベネデッティも気の毒でした。しつこくされたヴィルヘルム1世は機嫌を損ねて、フランス大使が不躾だなんだとビルマルクに電報を打ちました。
ビスマルクはその電報の内容を切り張りして、ヴィルヘルム1世がフランスからひどい無礼を受けたように新聞で発表させました。プロイセンをはじめとしたドイツ諸邦ではフランスから手袋を投げつけられたと、世論が沸騰しました。
逆にフランスではやっぱりプロイセンの陰謀だ、こちらが舐められているんじゃないかと、民衆まで湧き上がってしまいました。
ナポレオン3世は既に老いて闘志はなく、また共和派のティエールやガンベッタが戦争に反対を唱えましたが、主戦派の勢いを止められませんでした。
戦端は開かれ、あまり多く言葉を費やしたくありませんが、フランスは負け、アルザス・ロレーヌの領地を失いました。ナポレオン3世は戦場で捕虜となり、フランスは第二帝政から共和制へと戻ったのです。
ラ・ペルピニャンと呼ばれた女性は戦争が始まったら直ぐに巴里から出て、後援者のプロイセンの領地に逃げていきました。しかし、戦争が終わると、また巴里に戻ってきました。後援者のノイブランデンブルク伯爵は戦争で功績があり、同じく巴里に来ていました。今度こそラ・ペルピニャンは後援者と結婚して、ノイブランデンブルク伯爵夫人となりました。かつて自分を侮蔑して、復讐の対象だったフランスの宮廷が消え去り、自分や配偶者がその役に立ってきたのだと、嬉しかったでしょう。
彼の女に対して、野次が石が飛びましたが、彼の女は勝者の側の人間です。公然と謝罪を求めてきましたし、政府主催の晩餐会があれば、大統領のティエールの近くに席が準備されていました。
巴里では彼の女はノイブランデンブルク伯爵夫人とは呼ばれませんでした。彼の女が憤りを示そうと構わず、ラ・ペルピニャンとクルティザンヌ時代の呼び名で呼びました。
それでもシャン゠ゼリゼ大通りの屋敷で夜会を催すとなると、声の掛かった者たちは皆馳せ参じました。
もう五十の坂を超えていたと思いますが、かつて半社交界に君臨した女、そして今は戦勝国の伯爵夫人と、物珍しさを有難がる輩は多かったのです。それに、晩餐の内容の豪勢さは以前と変わらぬと言われていましたから、戦時下飢えた反動で、食事への欲求は抑えられないものだったようです。
ガンベッタも分別ある男でしたが、まあ、本能に忠実と言いましょうか、ご馳走や、高貴の女性がいるとなると、ついノイブランデンブルク伯爵の屋敷に赴いてしまったのでしょう。共和派の闘士が丸め込まれてしまうのではと、気が気じゃなかったですよ。
ノイブランデンブルク伯爵夫妻はフランス政府の機密漏洩や、ガンベッタをビスマルク側に引き込もうと画策しているのではないかと非難を浴びるようになり、巴里から出て行き、彼の女は二度と巴里の土を踏むことはありませんでした。
わたしたち女の権利なんて無に等しいものです。それでも仕合せになりたい、それなりの地位に就きたい、知識を得たいと望みます。でも、自分の力だけでは成し遂げるのは難しいものです。恵まれた生まれの者であれば、父や兄弟、夫の庇護を受けながらですが、教育を受け、社会的な活動もできるでしょう。でも、何も持たない生まれの者は? 身一つで世の中に出たところで、男性より劣る存在とされ、法の保護を受けられません。政治に参加できず、財産の相続や管理は男性に差を付けられ――父から相続した娘の財産は結婚すれば夫の管理下に入りますし、元よりそんな権利が認められていない国だってあります――、何か意見を発表するにしろ、夫の理解と協力が無ければできません。
男性に媚びを売り、床を共にしてお金を稼ぐこと自体は褒められません。しかし、その褒められない職業の女性に大金を使う男性が多く存在しているのです。公序良俗に反する行為で軽蔑されながら、王侯貴族に気に入られ、そしてまた、その男性たちを翻弄して浪費の限りを尽くすクルティザンヌ。ほかに手段を持たなかったのでしょうね。彼の女たちは、あなたたちの夫はあなたよりもわたしたちと楽しんでいるのだと、ブルジョワ層の女性や王侯貴族の婦人たちに常に挑戦的でした。凝りに凝った衣装や贅沢な宝飾品を身に付け、得意になっていました。
同時に、所詮賎業婦と莫迦にしていても自分を欲しがる男性たちをも軽蔑していたでしょう。二律背反ですものね。
ラ・ペルピニャンは後援者と結婚して、かつて嫌っていた貴族の令夫人になってしまいましたが、単純に有頂天になっていたのでしょうか? もういい年齢になっていたから安定を望んで、それで満足だったのでしょうか? 伯爵夫人の称号なんて、着古したドレスと同じで、大した価値はないと感じていたのでしょうか?
わたしは夫の領地で暮らしたラ・ペルピニャンの心情を聞いてみたかったですね。