2-2 デート
翌日。
二人はオスティアのマーケットに繰り出した。
「そういえば、あれからもう一週間経つのに街に出たことはありませんでしたね」
「だいたい俺の生活は家の周りで完結するし、出たとしても商工会くらいだからな」
ロクジンの家からすると、商店よりも商工会の方が近いのだ。
「確かに、いろいろな野菜の栽培もなさっていますからね」
「母さんの趣味で始めた農園だったけど……
今になって思えば、ずいぶん助かっているよ。
こうやって生きていけるのも母さんのおかげだ」
二人は雑踏の中に身を投じた。この街に来た当初、メリアドールは付近ではお目にかかれないほど高級な衣服を着て人目を引いていた。いまはロクジンから預かった、彼の母親のおさがりを着ている。粗末な麻のドレスだが、彼女が着るとまた違った、華やいだ印象になる。
「それで、ロクジンさん。この市場に何かがあるかもしれないと……?」
「いや、俺が言っているのはここじゃない。
もっと下…いろんな意味で、地下だ」
ロクジンは頬を叩く。
「正直危ないところだ、キミを連れて行くのは忍びない。それでもいいか?」
「危険を冒してでも、行く価値があるのならば」
メリアドールはロクジンをまっすぐ見据えた。
ふうと、彼はため息を吐いた。
「分かった、じゃあ行こう」
商人たちが建てたテントの間をすり抜け、荷車の横を通り、時たま自警団の人々とあいさつを交わし。階段をいくつも降り、陽の光も届かぬ闇の中へ。
「以前、この街の下にも市場があるっては言ったよね?」
「そうでしたね。初めて会った時のこと……懐かしいです」
メリアドールの脳裏に、この街に落ちてきたその日のことが浮かんできた。ロクジンと出会い、コープスに襲われ、命からがら逃げてきた。そして地上に昇り、市場の説明を受けたところで、ロクジンがそんなことを言った記憶があった。
「どうして《運送屋》なんてのがいるのかって言えばさ、この街が中継点として使われているからなんだよ」
「中継点……ルーナとマドラサの交易は止まっている。だから、闇取引が?」
「そういうこと。ルーナから採れる貴重な鉱石や食料、あるいは人間。マドラサからは最新の武器や魔導科学の道具……いろいろなものがやり取りされている」
「人も……ですか」
占領した敵地からすべてを収奪するのは一般的なことだ。それが人間であったとしても。マドラサも原住民を奴隷にして発展を享受してきた側面がある。戦後、その意識は変わりつつあり、奴隷から市民に格上げされるものも多くいた。だが帝都から遠く離れれば離れるほどに、因習の根は深くなる。
「表じゃ奴隷貿易とか、そういうのは禁止されているからね。だってそうだろう、いつ自分が売られるか分からない環境なんて怖すぎる。だから彼らは地下へと潜っていったんだ」
「そして、今から行こうとしている場所はそういう場所なんですね」
「ああ。盗み、奪い取ったもの。危険を冒して密輸してきたもの。まともな感覚を持った人間なら、眉を顰めるようなもの。そんなものが、ここには溢れているんだ」
やがて、二人は陽の光が届かない、真の闇の中に足を踏み入れた。
「ここから先は、本当に危険な場所だ」
ロクジンは腰に下げていたカンテラを手に取り、火をつけた。ぼんやりとした光があたりを照らす。狭い階段の両脇には人一人がすっぽり収まるほどの穴がいくつも開いていた。
「カタコンブ、ですか……」
「罰当たりなことだろう? でも、その方が似合っているのかもしれないね」
先導するロクジン。メリアドールは続いて進みながら、無意識に剣の柄に手をかけていた。どこから何が襲ってくるのか、まるで分からないからだ。
階段を降り、通路を通り抜け、階段を昇り、広間を過ぎ、階段を降り――
自分がいま、どこにいるかもメリアドールには分からなくなっていた
時折ひたひた、ひたひたというコープスの足音も聞こえてくる。その度ロクジンは足を止め、周囲の気配を伺い、それをやり過ごす。
そんなことを何度も繰り返していると――不意に、ぼんやりとした灯りが見えた。
「あっ……ロクジンさん、人がいるのかも」
「やっとか。まったく、今回はやけに遠くまで運ばされたな」
ロクジンも安堵した表情になり、灯りのすぐ脇、突き当りの壁を指さした。そこには山羊の角をつけた、人間の頭蓋骨の絵が描かれていた。
「あれが地下市場……《悪魔の胃袋》の印だよ」
「悪魔の、胃袋……」
恐ろしい響きにメリアドールは震えた。
灯りの漏れるアーチをくぐると、果たしてそこは巨大なドームだった。直径1キロか、それともそれ以上か。乏しい灯りでは端まで見通すことが出来ない。天井からはいくつもの石筍が垂れ、時折水滴が滴り落ちる。
しかしそれ以上に驚きだったのが、地下に街が築かれているということだ。表で使われているような土壁づくりの家屋が所狭しと立ち並んでおり、街の中心には一際高い尖塔付きの邸宅。暗い地の底だということを除けば、高級住宅地のようだった。
「ルーナとマドラサの戦争が始まる前……この街には、邪教徒と呼ばれる人々がいた。彼らはルーナの弾圧から逃れるため、街を地下に移したんだよ。でも、それも無駄だった。いまでは残骸が残っているだけだ」
「そしてそれを利用しているのが、地下街なんですね」
本能的に、メリアドールは危機感を覚えた。
表の市場も混沌としていたが、ここは……
悪意と欲望が渦巻いている。
「引き返すならいまのうちだ。どうする、リア?」
「……行きます。私は、そのためにここに来たんですから」
怖気づく自分に喝を入れ、メリアドールは地下街に足を踏み入れた。
※※※
ここは地の底。
よき人々が背を向けるこの世の地獄。
闇の中に一つの死体があった。それは、薄汚れ、すり切れた衣服に身を包んだ浮浪者だった。彼の目はかっと見開かれ、右腕がぐちゃぐちゃに爆砕されていた。
その傍らに、男が立っていた。闇の中にありながら、男はなお黒い。闇をも吸い込むような黒い外套に身を包んだ、黒髪の男。白い肌だけがアンバランスだった。
「……なるほどな、こいつは。リュミス?」
「はい、お側に」
男が声をかけると、そのすぐ後ろに少女が現れた。百八十は超えるであろう男よりも、頭一つ分小さい。フリルを多用した上等なメイド服を身にまとい、闇色の長髪を後ろ手に纏めている。鳥が歌うような声色で、リュミスは男に問いかける。
「いかがなさいますか、ダンケル」
「いかがなさいますか、と言われてもな」
ダンケルと呼ばれた男は踵を返し、死体を置いたまま歩き出した。
「こいつみたいなのを増やさないようにしなきゃ、ダメだろ」
いつの間にか握られていた短剣を弄びながら、ダンケルは路地を出た。
黒い短剣を。