2-1 思い出の首飾り
メリアドールがオスティアに落ちてきてから、一週間が経った。
オスティアを脱出するため、《輸送屋》を雇う。
そのためには金が要る。彼女は勤勉に働いた。
同時に、行方不明になった侍女レアの捜索も行っていた。
今のところ……どちらも実を結んではいないのだが
「だぁーかぁーらぁ! 言ってんだろうが!
このっ、金額以上、出す気はねえ!」
「このクソアホが! 説明しただろうが、オプション付きなら価格が変わる!
手前、聞いてねえとは言わせねえぞ!」
真昼の商店街に威勢のいい叫び声が響く。
かたや立派な口ひげを生やしたスキンヘッドのルーナ人、かたや長髪を腰まで伸ばしたマドラサ人。服装からも一見して両者の国籍が分かる、典型的な服装だ。
その間に挟まれるのはメリアドール。
彼女は声に怯えながらも二人を仲裁しようとする。
「お、お二人とも落ち着いてください。取引に不満があるならまず商工会に……」
「「あ!?」」
いがみ合っている二人の息がぴたりと合った。
メリアドールはすくみ上る。
「はいはい、ちょっと落ち着いてくれよ二人とも。
そう怒鳴り合っているばかりで商売が先に進むのか?
欲しいものが手に入るのか?」
さすがに見かねてロクジンが口を出す。この二人はしばらくの間こうして言い争っており、周りには人だかりも出来ている。いつ殴り合いになるのかと目を輝かせながら。こういう喧嘩は、人々にとって貴重な娯楽なのだ。
「えっと、ですからこちらの取引をするときの契約書の確認を……」
「んなもんねえっつってんだろ! こちとら信用商売してんだぞ!」
諍いの原因はシンプルだ。
マドラサ人の男が小麦の取引をした。
ルーナ人の商人がそれに応じた。
ところが、支払いの段階で代金が足りないと揉めている。
ちなみに、ルーナは商売を忌避しているが、それでは共同体が成り立たなくなる。そこで、『金銭とは人を堕落させる偶像である』『偶像を手元に溜め置くことは許されない』『だから協会の是認を受けた者が一括して回収する』という理屈で承認の存在を認めている、一種の公共事業なのだ。少なくともメリアドールはそう理解していた。
「いや、証文のない取引は無効だぞ。商工会が最初に説明しただろ?」
「えっ?」
「えっ?」
ルーナ人の商人とロクジンが顔を見合わせた。
マドラサ人の男は怒りに燃えている。
商人が拳を振り上げた。
※※※
夕暮れの陽に照らされながら、二人は家路についた。
「痛ててて……野次馬まで混ざってくるんだから、たまったもんじゃないよ」
ロクジンは擦りむいた頬を撫でた。あの後、ルーナ人商人をいなしたのはいいものの、すぐ仲間がやってきた。マドラサ人の方も仲間を呼び、違法な取引に巻き込まれたことに憤りをあらわにした。こうなると、もう止まらない。
あとはめちゃくちゃな喧嘩だ。殴って、蹴って、その辺にあるものを掴んで、投げる。混沌とした状況でも格闘技は役に立つが、それでも限度はある。仲裁に入ったロクジンも殴られ、両成敗で事を収めたのは始まってから一時間ほど経ってからだった。
「大丈夫ですか、ロクジンさん? 酷く叩かれていましたけれど……」
「問題ないよ。こんなの、撫でられたみたいなもんだ。
リアの方こそケガはない?」
「ええ、私はロクジンさんにすぐ助けてもらいましたから」
交渉の矢面に立っていたメリアドールを、ロクジンはすぐに引き上げた。おかげ彼女は乱闘に巻き込まれずに済み、自警団に助けを呼ぶことも出来た。ダリオが来てくれなければ、もっとひどいことになっていただろう。
「ダメですね、私は。あの喧嘩を仲裁しなければいけなかったのに」
「あいつ、最初っから吹っ掛けるつもりで話を進めていたんだ。
悪意を持って話をする奴を、説得なんて出来っこない。
リアはキミに出来ることをすべてしたよ」
「それでも、もっとうまく話を持っていくことが出来たのではないでしょうか」
すっかり彼女は意気消沈していた。リアは通訳として働いていたが、うまくいかないことも多かった。それもあって、彼女は自信と決意を失いかけている。
「そんなことはないさ。
そもそも、俺はキミがやろうとしたことの土俵にも立てない。
ルーナの言葉とマドラサの言葉、そこまでうまく使えるのはキミくらいだ」
「……そうでしょうか」
「そうさ」
実際のところ、メリアドールの言語能力は高い。単純に言葉を理解出来るというだけではなく、これまで学習したルーナ・マドラサの文学書や哲学書からの類推し、相手が発した言葉のニュアンスを感じ取ることも出来る。会話に不慣れな彼女が曲がりなりにもやり合えているのはそのためだ。
「俺、よくわからないんだけどさ。やっぱり難しいんだろ、別の国の言葉って」
「どうでしょう。パズルみたいで楽しいな、って思うことはありますけど」
メリアドールは笑った。実のところ、マドラサ帝国の公用語であるサイード語とルーナ語とは語源を同じくする同語族にある。そのため、学習の敷居は実のところそれほど高くない。それでも、実用出来る範囲に達しているのは彼女のセンスゆえだが。
「全然似てない言葉を覚えるのは大変?」
「全然違う方がいいです。半端に似てると、逆にこんがらがっちゃって」
例えばマドラサで言うところの「神」は、ルーナの言葉で「右」となる。よく似た言語だが長い年月の間に変質し、全く用法が変わっているのだ。
二人はしばらくとりとめのない話をしながら歩いた。夕暮れ時となり、やがて陽が沈む。夜になった後のオスティアはそれまでの喧騒が嘘のように静まり返る。単純に灯りをともすのが高くつくというのもあるが、コープスの影響も大きい。
ロクジンも歩調を速めた。
と、そこでメリアドールがついてきていないことに気付いた。
「リア?」
彼女は道行く女性の姿を目で追っている。
正確には、その胸元で輝くネックレスを。
「……やっぱりああいうのって、着けてみたいと思うのかな」
「えっ!? いえ、私は、別にそういうわけではないんです……」
彼女は顔を赤らめて伏せた。
「ただ、姉さまが用意してくださった物をなくしてしまったな、と……」
「用意してくれた……ネックレスを?」
「ええ、私は装飾品の類にあまり詳しくないですから。
どのようなものを着けていけばいいのかわからなくて、途方に暮れていたところで姉さまが手を貸してくれたんです」
姉、ルリアは姫将軍と呼ばれる勇猛な人物でありながら、宝石や服飾、花に詳しい文化人でもあった。上背のあるルリアは何を着ても似合う、密かにメリアドールは彼女を羨んでいた。
「でも、あの時街中に散らばってしまったのでしょう。惜しいですが、こればかりは……」
寂しげに笑い、メリアドールはまた歩き出した。
「……もしかしたら、また見つかるかもしれないよ」
「え?」
帰ろうとする彼女を、今度はロクジンが制止した。
「なあリア、今度一緒に市場を回ってみないか?」