1-1 籠の鳥は自由を望む
息が切れるまで走り続け、襲い来るコープスを退けながら、メリアドールはロクジンに続き安全地帯を目指した。
「こっちだ! ここを抜ければすぐに!」
ロクジンの言葉に勇気を貰い、止まりそうになる足を必死で動かした。
ボロボロの階段を駆け昇り――やがて、太陽が二人を出迎えた。
「陽の光……! ああ、こんなにありがたいと思ったのは生まれて初めてです!」
マドラサ帝国は砂漠の国であり、多くの場所で太陽は死を運ぶものとして疎まれていた。しかし、この光はこれまで感じたことがないほど柔らかなものだった。
ガラガラという音を聞き振り返ると、つい先ほどまで昇っていた階段を瓦礫が覆い隠していた。恐らく周辺の壁が崩れた結果だろう、ほんの一瞬遅ければどうなっていたか、メリアドールは戦慄した。
「よかった……ここまで来れば安心だ。
コープスは陽の光では死なないけど、でも光が大嫌いだからね」
ロクジンも息を切らして、肩で息をしていた。瓦礫に腰かけ、べたりと大の字になって転がった。メリアドールもそれに倣うが、さすがに腕を広げるようなはしたない真似はしなかった。身分を偽っているとはいえ、これまでの習慣がなくなったりはしない。
「ありがとうございます、ロクジンさん。
あなたに助けていただかなければ、私はあそこで死んでいたでしょう」
「んー……礼を言われるほどのことじゃない。
死にそうな人を見たら助ける、それがこの街のルールだ。善意じゃない」
死者はコープスとなる。その言葉をメリアドールは思い出した。実際問題、敵を増やさないという意味でもルールは重要なのだろう。
「それでも助けられたという事実は変わりません」
「なら、素直に受け取っておこう」
メリアドールはロクジンのことを、頭頂からつま先まで見た。
引き締まった体つき、動きやすい麻の道着。どれもが薄汚れている。
「あなたはオスティアの住民なのですか? みんな呪法爆弾の汚染で死んだか、国外に脱出したと聞きましたが……」
メリアドールの問いに、ロクジンは答える。
「オスティアから生きて外に出られたのは、教会の司教とかそういう連中だけ。つまり、偉くて何が来るか分かっていた連中ばっかりだ。ほとんどの人は何も知らずに、その日を生きていて……で、あの日あれが落ちてきて、すべてが変わった」
どこか遠くを見るような顔で、ロクジンは言った。
「……ごめんなさい」
「キミが謝るようなことじゃない」
「でも、私は」
「キミが帝国の人間であろうとなかろうと、関係ないよ」
言葉を途中で遮られた。言い当てられ、メリアドールは言葉に詰まる。
「帝国の飛行機から落ちて来たんだから、少しは分かるよ。
でもキミが落としたわけじゃないだろう?」
「それは、そうですが……」
「ともかく、俺たちはいまこうして生きていられている。だから気にする必要はない」
呼吸を落ち着けたロクジンは立ち上がり、メリアドールに手を差し伸べた。彼女はそれを取り立ち上がる。
「俺たち、ということはロクジンさんのように生き残った人がいるのですね?」
「ああ、いっぱいいる。元からこの街にいた人、帰れなくなった軍人、周辺の国から流れて来た奴ら……まあ、お祭りみたいなもんだね」
ロクジンは歩き出した。メリアドールはそれについて行く。
オスティアは山に積層状の都市を築いた、起伏に富んだ国だった。またトンネル工事も盛んで、先進的な上下水道も整備されていたという。
優れた技術力を持ち、それゆえにルーナから退廃的だと睨まれていた。そして先進的な技術を持つオスティアは、帝国にとっても魅力的だった。
孤軍、だからこそあの戦いでここまでの被害が出た。
呪法爆弾の直撃に耐えられたのも、都市開発の恩恵だろう。衝撃を発散させる建物が多くあっただろうから。
ともかく、かつては人々を潤していた地下構造はいま死人の巣となっている。人々はいまを生きるのに必死で戦っている――と、ロクジンは説明した。
「もしかしたら……両国がここを立ち入り禁止にしているのは、ここで生きる人を見せたくないからかもしれませんね」
「そうかもしれないね。もしかしたら、自分たちの戦いが何を生んでしまったのか……それを見たくないからかもしれないけど」
何度目か分からないほど階段を昇り、その突端にあるアーチ門をくぐった瞬間、メリアドールは不意に強い臭いを嗅いだ――これまで嗅いだことのない強い臭いを。
(これは、何の臭い? 植物や油の臭いではない、もっと……)
彼女が嗅いだのは、そう、人が発する臭い。
体を洗う暇もなく、またそれだけの資産を持たない人たちが発する、生きた臭い。
多種多様な体臭が混ざり合い、そこに植物、動物、腐敗物の臭いが混ざり合った、混沌の臭い。彼女がこれまでの人生で体験したことのないものだった。
「うっ……」
基本的に、メリアドールは外にあまり出なかった。出たとしても整備された地区だけで、それは皇女という立場を考えれば当然のことだった。だから彼女は、人間がこれほどの臭いを発することを知らなかった。彼女はこの日、一つの世界を知ったのだ。
そこにいたのは、人、人、人。
時たま牛や豚の鳴き声が混ざる。
幅の広い大通りだった。左右にはところどころが欠けた土色の建物が並び、その足元には屋台が形成されている。行き交う人々、通り過ぎる荷車、響き渡る怒声。空にはおこぼれにあずかろうとする鳥や下位神格精霊が飛んでいた。
「これが……オスティアに暮らす、すべての人々……」
「いや、ここは一番大きな市場だけどすべてじゃないだろう。街中に……街の地下にも、いろんな人たちがいるからね」
「これ以外にも!? オスティアに取り残された人々は、いったいどれほどいるのでしょう……」
彼女は震えた。
未知の世界に取り残された恐怖から――ではない。
多くの人がいる。
街が生きている。
自分が生きていく場所がある。
自由になりたかった。
そしてそれが叶わないと知っていた。
しかし、飛行機が廃都オスティアに落ちたなら話は変わってくる。
この場所に落ちたのならばまず、助けは来ない。
(これで、私は自由……?)
「不安なのはわかるよ、リア」
「えっ!?」
物思いにふけっていると、不意にロクジンが声をかけてきた。
「大丈夫、きっと助けが来る。この街はそんなふうになっているから」
ロクジンは彼女が絶望に囚われていると思ったのだろう、実際には真逆なのだが。暖かい心遣いを受け、恥ずかしくなり、「ありがとう」と一言いうにも心が痛んだ。
ロクジンに連れられ、メリアドールはオスティアの大通りを歩いた。襤褸で作られた市場は活気に溢れ、威勢のいい商人の声がどこまでも響く。かっぱらいが店先の商品を手に取り掴まり、猫がその隙におこぼれを預かる。
その光景にメリアドールは圧倒された。
屋台ではいろいろなものが売られている。一見して価値の分からない鉄屑、動物の骨、食器、古代金貨。食品を提供する屋台も多くあり、肉の焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。
「こんなに活発な市場、私いままで見たことがありません……」
「そうだろうね。俺もオスティアに出てくるまではこんなものがあると知らなかった。昔よりも活気があるかもしれない」
ロクジンの声を聴き、当たりを興味深げに見ながらも、メリアドールは周囲を警戒していた。そして直観的に彼女は感じ取った。人ごみに紛れ、手を伸ばして来たそれを。
メリアドールは掴んだ。
そして捻り上げる。
「いでででで! なんだよ姉ちゃん、俺が何したっていうんだよ!」
そこにいたのは、顔を煤だらけにした少年だった。ぼさぼさの髪はすっかり色褪せ、手は老人のように節くれている。声もガラガラで、どんな環境で過ごしているか彼女には想像もつかなかった。
それでも、メリアドールは怯まず毅然とした態度を取る。
「あなたは私の腰巻に手を伸ばしていましたね? ここから何を盗もうとしていたのですか?」
「盗む? 盗むだって! オイラがそんなことするはずがないだろ! 言いがかりをつけるのも大概にしろよ!」
「そうだな、確かにお前は盗まないだろうなー。ローン」
声をかけられ、ローンと呼ばれた少年はぎょっとした。ロクジンは視線を向けず左手をぬっと伸ばし、何かを掴んで引っ張り上げた。
「一人があからさまなやり方で気を引いているうちに、もう一人がそっと盗む。お前たちの常套手段だもんなぁ、これは」
「放せよバカ! 女の子の柔肌になんてことしてんのさ! タダで触らせてやるもんかい!」
ロクジンが掴んだのは女の子だったが、ローンと同じくらいぶっきらぼうな口調だった。一様に襤褸を纏い、汚れと垢に塗れている。
宮殿の中には存在しなかったものだ。無論、彼女も帝国内に貧富の差があることは知っていた。しかし、目にするのはいつも表層的なものだ。そんな人間がどうやって生活しているのか。それを彼女はこれまで知らなかった。
「この子たちはロクジンさんのお友達なんですか?」
「友達ではないな。面倒を見てやってる悪ガキども……と言えばいいのか」
ロクジンは大きなため息を吐いた。少女はそんな彼とメリアドールとを見比べ、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「なんだい、朴念仁のロクジンにも彼女が出来たのかい? それとも商売女? かわいい子引っ掛けて来たじゃないか」
「お前はなぁ……いいか、そういう言葉は二度と口にするな」
「申し訳ありませんが、私は売春婦ではありません。名誉にかかわる問題です、即座に撤回しなさい」
呆れてロクジンはあしらい、高貴なメリアドールは怒りを露わにした。主にメリアドールに圧され、子供たちは思わず頭を下げた。
「あ、でも……そういえば私はこれからどこで暮らして行けばいいのでしょうか……?」
帝都で蔓延しているという違法売春宿のことを思い浮かべた時、不意に自分の宿のことをメリアドールは思い出した。帝都からの救援は恐らく来ない、来るとしてもそれまで安全を確保しておく必要がある。だがメリアドールは自分が安全に過ごせる場所をまるで知らないでいた。
「あー、そっか……この街、初めてだもんな。どこに行けばいいのかなんて、分かるはずないかぁ」
「なんだったら俺たちのところ来る? 姉ちゃんみたいな美人なら大歓迎だぜ」
「お前たちみたいな悪ガキの巣窟になんてやれるか。家なんて言ったって、下水道じゃあないか」
むせかえるような腐臭がする下水道で寝起きする自分の姿をメリアドールは想像した。……想像するだけで恐ろしい光景だ。
「俺たちんところが嫌だっていうなら、ロクジンが世話してやりゃいいじゃねえか。スエゼンってやつ?」
「バカ野郎、どこでそんな言葉覚えやがった。全然違うし俺が世話なんて出来るはずねえだろうが」
ロクジンは顔を赤く染めながら叫んだ。
「だったらさあ、商工会でなんか紹介して貰えばいいんじゃねえの?」
「なるほど、冴えてるなローン」
「へへ、そう思うんなら駄賃くれ」
「調子に乗んな」
ロクジンはローンの頭をこつんと小突いた。
「あの、どういう……」
「ああ、すまない。置いてけぼりにしてしまったな」
コホン、とロクジンは咳払いして、
「商工会に行こう。キミに仕事を見繕ってくれるかもしれない」