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白き翼に誘われ  作者: 月龍波
9/53

八翼:雨中の平穏

「勝手な事をしてくれたものだな。ロフォカレス卿」


 ベテルギウス帝国の【上層部(アッパーヤード)】に存在する一室に重く低い声が響いた。

 そこはベテルギウス四覇将(しはしょう)が一である黒騎士の執務室であった。

 しかしその部屋は一国の将軍の部屋にしては豪奢な内装など一つもない。

 あるのはデスクワークには丁度良さそうな広い机と椅子に来客用のテーブルとソファ程度であり、部屋の空間が広い事もあって生活観が無く殺風景であった。


 先程発した言葉はこの部屋の主である黒騎士のものであり、彼は顔を覆う兜の奥に潜んだ双眸を細め目の前に対峙する男を睨みつける。

 睨みつけられている男はアベラルド・フォン・ロフォカレスであり、彼は睨まれていると感覚が理解しているのと同時に心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖心に支配され直立不動を余儀なくされていた。

 こうして黒騎士に呼ばれているのも、自らが犯したミノリス村での国際条約違反によるものであった。


「功を焦り、必要最低限の事すら守れない者は全て滅ぼすだけと知れ」

「も、猛省しております……返す言葉もございません」


 冷たく言い放つ言葉に蒼白の表情で謝罪し頭を下げるアベラルドに黒騎士の方からため息らしき息遣いが聞こえる。

 言うべきことは言いはしたが、呆れによってため息が漏れ出たといったところだろう。


「……貴公には暫く謹慎を命ずる。まずは傷を癒すことを専念しろ。処分は追って伝える」

「し、承知しました……しかし、黒騎士殿……帝国に剣を向けたあの少年は如何なさる御つもりなのですか?」


 そうアベラルドが問うた時、異様な寒気を彼は感じ取った。

 それは目の前の黒騎士から発せられているものであった。


「貴公には関係のない事だ。さっさと退室しろ」

「も、申し訳ございません……失礼します」


 余計な事に首を突っ込むな。

 そう言外に込められたプレッシャーと共に声を更に低くさせ退室を促す。

 その意味を正しく理解したアベラルドは顔色を青くさせ、これ以上彼を刺激しないようにするために直ぐに部屋から出ていく。

 静かに扉が閉められ、この部屋に存在する者が自身一人だけとなった時、黒騎士は再び大きなため息を漏らした。

 これから行わなければならない事後処理等を考えるとため息の一つでも漏らさずにはいられなかった。

 しかし、それだけでは業務は終わらぬ為、早速仕事に取り掛かろうと溜まっている書類に手を掛けようとした時、執務室の扉が勢いよく開け放たれた。


「よおっ! 黒騎士、元気にしているか!」

「……ノックぐらいはしたらどうだ?」


 突然現れた若い青年の大声量が部屋中に響き、書類へと伸ばした手を元に戻して扉へと視線を向けため息をつきながら黒騎士は呆れた様な声を出した。


「はっはっは、すまんすまん。忘れていた!」

「……して何の用だ。()()()()()、ディルグ・エディンガー」


 机に両肘を置き、指を組んだ黒騎士は目の前の男、四覇将ディルグに問う。

 他者を委縮させる威圧を受けているはずだが、彼は口角を持ち上げながら黒騎士へと近づいていく。


「いや、なに。近くに寄ったらロフォカレス卿が大層落ち込んで出てきたからな。何かあったのかと立ち寄らせてもらったのさ」


 ――つまりは野次馬か。


 アベラルドと違う意味でため息と頭痛の原因となりそうな理由でやってきた同僚に思わず頭を抱えそうになった。

 この程度であれば書類処理を済ませながらでも良いと感じたのか、黒騎士の手は書類束の方へと向かっていった。


「……そのような些事で態々私の元へと来たというのか。随分と暇なようだ」

「はっはっは!政治に関わるお前と違って俺は戦闘専門だからな。出撃が無ければ暇なのは事実だな」

「羨ましい限りだ」


 皮肉が通じていないと確信しながら、そもそも目の前の男はバカだったと思いだし、まともに相手をするだけ無駄だと書類の処理を続ける。

 いつの間にかディルグは来客用のソファに腰を落ち着かせており、しばらくは帰らないだろう。


「……で、結局ロフォカレス卿はどうしたんだ?」

「…………ウルサエ地方での遠征訓練時に起きた国際条約違反を咎めただけだ」

「あぁ、成程な。欲をかいて天使狩りを行ったか。国際条約違反は流石に駄目だな」


 思い出したかのように問い直す彼についにため息を漏らし、書類を一枚、一枚処理しながら黒騎士は短く答えた。

 それだけで彼は一人で納得し何度か頷いているが、彼の言葉に一瞬黒騎士の指の動きが止まった。


「……よくあの愚か者が天使狩りを行ったと分かったな」

「うん?簡単なことだ。ロフォカレス卿に()使()()()()()()()()が付いていたからな」


 問いの理由を軽く答える彼に黒騎士はそうか、とだけ言い書類処理を進める。

 本人はそこまで気にしていないようであるが、ウルサエ地方から帰還してそれなりの日数が経っており、付着した魔原などほんの僅かでありそれを感じ取るのは至難の業である。


 ――伊達に四覇将に選ばれていないと言う事か。


 そう内心で呟きながら黒騎士は次の書類へと取り掛かる。


「しかし、首が飛んでないとみると彼は謹慎か? 黒騎士殿にしては寛大だな」

「典型的な小物だが、あれはあれで使える所はそれなりにある。アクイラエとの戦時中で使える者を不用意に消す余裕はない」


 からかうように言うディルグの言葉に対して特に反応を示さずに淡々と事実を言う黒騎士についに彼は黙り込む。

 ようやく静かになったかと、視線を動かし彼の方へと見やると先程からの軽そうな笑みをどこへやったのか、真面目な表情へと豹変していた。


「なぁ、黒騎士……お前はこの帝国軍に何年いるんだったか?」

「……十五年ほどになる」


 いきなりなんだとディルグをみやるが、彼の表情は一層に険しくなるだけであった。


「……俺は帝国軍に身を置いて五年程度で昔の事は良く分からん……お前はもっと良く分からん奴だが信頼できると思って話すが、何かおかしいと思うんだ」

「……ほう」


 書類処理どころではなくなったと思い、作業を中断し真っ直ぐにディルグを見やる。

 彼は変わらず険しい表情のまま、語り続ける。


「皇帝陛下が天使に対し排他的なのは変わらないが、昔は今よりも酷くなかったはずだ……スクッラの奴は何か企んでやがる」

「…………」


 彼の絞り出すように言う言葉を黒騎士はただ黙って聞くだけだった。

 彼の考えは自身が思っている事と概ね一致するからである。

 沈黙が続きを促していると思ったのか、ディルグは続けて言葉を発した。


「黒騎士、お前はどの辺りからこの国がおかしくなったと思う?」

「……理由など幾らでも存在する。だが、それを軍人が口にするのは度を超える行いだ」

「……俺はな、黒騎士。帝国がおかしくなったのは二年前に皇女様が――」

「ディルグ」


 低く重い声が彼の名を呼び、ディルグは向けられる重圧を受け、口を紡いだ。

 それを発したのは黒騎士であり、刺すように鋭い殺気が放たれていた。


「……先も言ったぞ。軍人がそれを口にするのは度の超えた行いだ。何処に耳があるか分からん状態で軽々しく口にするな」

「…………」


 牽制する様な黒騎士の言葉にディルグはただ黙って頷く。

 それを見た故か、黒騎士は殺気を収め平時へと戻るが目の前の男は釈然としない様子であった。

 良くも悪くも真っ直ぐである彼に対し、黒騎士は何度目か分からぬため息を禁じ得なかった。


「……そんなに気になるのであれば、独自で動けばよかろう」


 突如の黒騎士の言葉にディルグは面を食らったかのように目を見開き、じっと彼の表情の無い顔を見つめていた。


 ――一々反応が激しいものだ。


 と、心の中で零しながら肩を竦め、黒騎士は更に言葉を紡いだ。

「何を驚く必要がある。そのような独自権限を持つのが我ら四覇将だ、私は協力する事は出来ぬが、貴公だけで行うならば何も問題あるまい」

「……ふむ、そうか」


 続く彼の言葉を聞き、瞼を閉じて数秒の間考える素振りを見せる。

 何か納得したかのようにうわごとを言う様に呟いた彼は勢いよく立ち上がる。


「よし、分かった。クヨクヨしている所で俺らしくないな! 黒騎士、礼を言う。俺は行動に移る故失礼させてもらう!」


 部屋に入ってきた時と同じように軽やかな笑みを見せたてから彼の行動は早く、その場で駆け出して部屋から出ていくのであった。

 扉を開け放した状態のままで。


「扉くらい閉めて行け……」


 またも呆れによってため息を付き、今日で何度ため息を付いたのか分からなくなっていた。風の魔術を発動させて扉を静かに閉めた黒騎士はうるさいのが居なくなった今こそ残った書類の片づけを始めるのだった。


 ※


 ぼんやりとした意識の中で、自身の体を包むような感触を覚えながら天使の少女ラティエは酷く重い瞼をゆっくりと開け、まだ虚ろな瞳で天井を見る。

 僅かに存在する記憶を手繰り寄せるまでもなく見知らぬ天井であった。

 全身を覆う気怠さからして相当な時間が経っている事は理解できるが、それでも町に着くほどではないだろう。


 思い出せるのはコカブという町へと移動する最中で二人の強い要望によって睡眠に入った所までであった。

 その場所から移動したとしても、まだ一日と少しは時間がかかるはずだ。

 ならばこの見知らぬ天井は何処なのであろうか、それを確かめるために鉛を付けられた様に重い体を起こした。

 その瞬間にガチャリと扉を開ける音が聞こえ、そちらに目を向けると自身にとって一番安心できる者の顔が見えた。


「――ラティエ、目が覚めたのかい?」

「うん、今起きたよ」


 上体を起こした彼女の姿を見たエルは僅かに目を見開くが、直ぐに微笑を浮かべて問う。

 それを頷いて肯定するラティエには自然と笑みが混ざっていた。

 もう一度微笑を浮かべたエルは彼女の方へと近づき、ベッドへと腰を落ち着かせた。


「エル、此処は何処でエルは何をしていたの?」

「ここは()()()の宿屋だよ。俺はカルヴァさんと明朝の特訓をしていて今帰ってきたんだ」


 問いに答えるエルの言葉にラティエは怪訝な表情のまま首を傾げた。

 自分が起きるまでにコカブへと着く程までに時間が経ってしまったのか、もしそうだとすれば相当迷惑をかけたのではないかと思い始めていた。


「えっと……私はどれだけ寝ていたの?」

「んっと……一七時間くらいかな。相当疲れていたんだろうね」


 一七時間、それだけ睡眠を取っていた事にも驚きがあったが、そんな短時間ではコカブに到着するはずがなかった。

 だが、エルが嘘を言っているようには思えず、ならばどうやってそんな短時間で着いたのだろうと考える。

 そんな彼女の心を読んだかのように、エルは再び口を開く。


「移動している最中に関所で足止め食らってた商人達が通りかかってね、【ヘッドレス】を討伐して通行できるようになったお礼って事で馬車に乗せてもらったんだ」


 その言葉でラティエの中で燻っている疑問が一気に晴れた。

 馬車での移動ならば徒歩よりも短い時間でたどり着くことが可能だからだ。

 それも商人達の馬車であれば関所からこの街への最短で向かう道も知っているだろう。

 コカブまで辿りついたという事であれば、最初の目的であるアルタイル地方に入るという事も達成できたという事にもなる。

 此処まで辿りつけば領土の問題上帝国の者が足を踏み入れる事はまずないだろう。


「そっか……それならもう移動するよね? 今準備するから待ってて」


 そう言いながらベッドから降りようとするラティエをエルは苦笑しながら止める。

 訳が分からず小首を傾げるラティエを横目に彼は部屋の窓際へと移動しカーテンを開く。

 開け放たれた先の外の光景は激しい雨が降り注ぎ、天井や窓枠、地を雨粒が叩いていた。


「……こんな状況じゃ、行くにも行けないからしばらくは足止めかな」


 困ったような笑みを浮かべながら頬を掻くエルを良く見れば、髪と服が全体的に濡れており、毛先から水滴がしたたり落ちている。

 彼はさっきまで剣の修行をしていると言っていた、それは雨が降った事で中断となったか、雨が降り続けても続けていたのかは分からない。

 だが、先日に抱いた不安も加味してなのかは分からぬが、今の彼はとても“寒そう”であった。


「――ラティエ?」

「…………」


 不意に伝わる温もり、それはラティエがエルの冷たくなった手を両手で包み込んだ事によるものであった。

 彼女が何故そのような事をするのかは分からないが、その瞳には憂いを秘めている。


「ごめんね、これぐらいしかできなくて……」


 伏せた目と共に発せられるか細い声に、エルは何も言えない。

 一つだけ分かっている事は、彼女が悩んでいるという事だけだ。

 何を悩んでいるのかなんて分かりはしない、あくまでもエルは彼女ではないのだから。

 そうだとしても、エルができる事は一つだった。


「そんなことは無いさ、少なくともラティエのおかげで暖かいよ。いつもこうやって俺を助けてくれてありがとう」


 包まれた手をそのままラティエの頬へと持っていき、微笑と共に言う。

 頬を手で包まれたからなのか、言葉によってなのか分からない。

 ただ彼女は目を少し見開き、沈黙を保ったまま自身の目を見据え続けている。


 ――もしかして、失敗したのか?


 実際には数秒程度、されど長く感じる沈黙にエルは表情を変えずとも冷や汗が流れ落ちていた。

 流石にダサ過ぎる言葉だったのだろうかと、彼の内心は揺れ動いていた。

 ふと、変わったのは直ぐであり、自身の手を包む彼女の手の力が僅かに強くなったことだった。


「……うん。ありがとう、エル」

「あ、あぁ。少しでも元気になったのなら良いよ」


 自身の手を包む彼女の力はか弱いながらも強く、瞳に宿す憂いも消えて小さく笑みを浮かべている。

 心臓が大きく跳ねた事を理解しながら、エルは目を逸らしながら当たり障りのない様な言葉を選んで言う。

 ヘタレと言われてもおかしくない様なやり取りに呆れた束の間、部屋の入り口からため息の様な音が聞こえる。

 恐らくは一部始終を見守っていた自身の師のものであるだろうと予想が付いたが、仮に己がその立場に立った時はどうすればいいのか教えてほしい物であった。


「それよりも、服を濡らしたままなのは少しマズイか……何か服を引っかける事ができる物ってあるかな?」

「あ、それならクローゼットにハンガーがあるよ」


 何とも言えない状況を打破するために、苦し紛れながらエルは自身の服を引っ張りながらラティエに問うと、彼女はクローゼットに指を指してハンガーがある事を伝える。

 それに対してお礼を言いながらクローゼットへと近づくと、カルヴァが部屋へと合流する。

 その顔はなんとなく呆れている様であったが。


「あ、カルヴァさん。おはようございます」

「ああ……」


 挨拶をしてきたラティエに短く返した彼は次にエルを見て彼へと近づいていく。

 そしてエルの肩を軽く数回叩いて、耳元でささやいた。


「お前はかなりの奥手……というよりもヘタレだな」


 ――放っておいてくれ。


 グサリと胸に刺さる言葉を聞きながらエルは心底そう思った。



 その後、三人は同じ部屋で休息を共にしていた。

 外の豪雨では移動に支障が出るために宿を出るのは翌日とする事にしたのだ。

 その中でエルは旅立つ時に村から持ってきていたのか、一つの書物に目を通していた。


「エル、何を読んでいるの?」

「ん? 魔原回路(マナ・サーキット)の定義と種別の考案という論文だよ」


 横から顔を覗かせ問うラティエに返答しながら、自身が目を通している書物を彼女にも見える様に差し出す。

 そんな中で意外にも反応を示したのはカルヴァであった。


「……()()()()()()()()()()()()()の論文か?」

「えぇ、そうです。知っているんですか? この論文を書いた人は百年以上前の人物なのに」

「この大陸でラ・バロンスの名を知らない者は存在しない。この論文によって魔術の基礎が出来上がったといっても過言ではないからな」


 カルヴァの言葉に対してラティエは感嘆するような反応を見せたが、エルは知っている事もあるのかそこまで大きな反応を示さない。


「それで、魔原回路(マナ・サーキット)ってどんなものなの?」

「えっと、魔原回路(マナ・サーキット)っていうのはね……」


 ――魔術(スペル)使えるのに知らなかったのか……。


 肩をガクリと落としかねながら気を取り直して、ラティエに魔原回路(マナ・サーキット)の事を説明する。

 そもそも人間には体質にも寄るが多かれ少なかれ魔原(マナ)を体内に保有している。

 その体内の魔原(マナ)の操り、放出する方向は体内の魔原(マナ)の通り道である魔原回路(マナ・サーキット)の作りによって違うのだ。


「論文によると、俺やカルヴァさんみたいに魔原(マナ)を体内に放出して身体能力を強化するタイプは内部放出型、ラティエみたいに魔術(スペル)を扱うタイプの人は外部放出型。その二つの特性を持つ人は両立型って言われているね」

「欠点とかはあるの?」

「もちろんあるよ。内部放出型は回路(サーキット)の作りの違いで魔術(スペル)の扱うのに不向きで、外部放出型は同じく回路の作りの違いで肉体強化は不向きだね、両立型はそもそも個体数が少ないからか不明だね」


 論文のページをめくりながらラティエに説明していく中で、エルは一つのページを開いたまま見つめていた。

 そのページは先程述べた両立型についてのページだった。

 ページにはこれまで見てきたページの文字量と比べて圧倒的に少ないものであった。

 そもそも発見はされても個体数が少なく調査が難航していると書かれているが、此処まで情報が無ければ本当に実在するのかさえ怪しく感じるものだ。

 そもそも魔原回路(マナ・サーキット)の種類を見分けるのは専用の術式が必要であり、それがなくとも基本的には本能で魔原(マナ)の扱い方を知っているものだ。

 その様な事もあるせいか、検査を行わずにいる人間は少なくはないだろう。


「カルヴァさんは両立型の人を見たことはあるんですか?」


 何気なくカルヴァに対してエルが問うと、彼は思い出すかのように虚空を眺める。

 数秒ほどの沈黙を挟んでから、彼は徐に口を開いた。


「……一度だけある。今は生きていないがな」

「そうなんですか? 生きていないのは残念だなぁ」


 残念そうに肩を落としながらラティエは言うが、エルは何か察したように空笑いを浮かべていた。

 その人物がなぜ既に死亡しているというのが断言できるのか、彼女は気づいていないだろうが簡単な話であった。

 それは死の瞬間にカルヴァが立ち会っていたからというものだが、エルは恐らくは彼が斬ったのだろうと予想できていた。

 そんな事を考えているのが伝わったのか、カルヴァはエルへと視線を向けるなり首を左右に小さく振るう。


 ――下手な事は言うなよ、と言う事か。


 意図を察したエルは彼の動きに合わせる様に小さく頷き、論文を読む事を再開する。

 明日にでも雨が上がれば首都ナスルへと出発する予定だ。

 食料等の買い出しは宿に帰る前に既に済ませてある、後は雨が上がるのを待つだけであり今は体を休ませながらそれを待っている。

 目的の場所までもう少しで、ラティエを安全な所まで送り届けるという目的は達成される。

 ふと、その目的を達したら自分はどうするべきだろうかという考えが過った。

 全てが終えたら村に帰ると約束はしたが、その全てというのがどこまでの範囲なのかも決めていない。

 とはいえど、帝国(ベテルギウス)にとってお尋ね者である自分が今更村に戻ることなどできない。


 ――いっそのこと、世界中を旅するというのも悪くないかもな。


 そんな事を考えながらも、横で続きを促しているラティエに苦笑を浮かべながら論文のページをまた一枚と捲った。



 ※


 翌日、エル達が望んだかの様に昨日の大雨が嘘であるかのように空は晴天であった。

 これを機として三人は首都ナスルへと歩みを進めていた。

 たっぷりと寝たからなのか、ラティエの足取りは軽やかであり魔原も体力も全快しているのが見て取れた。

 現在三人はナスルへと向かう最中に存在する川へとたどり着いていた。

 その川は横幅が広く、横断するための橋が設置されている。

 その橋も馬車などが通れるように設計されているためか広く頑丈な作りとなっており、交通の要となっているのだろう。

 その橋を渡る前に先頭を歩いていたカルヴァは橋よりも更に下、川の流れを見て僅かに眉間に皺を寄せた。


「……エル、ラティエ。足を滑らせて川に落ちるな。この流れの速さでは泳ぐ事は無理だ」


 背後の二人に注意を促しながら彼は橋へと歩き出した。

 エルは何となく川へと視線を向けると、カルヴァの言うとおりその流れは異常な者であった。

 昨日の大雨で増水した結果なのか、川に落ちればなす術もなく飲み込まれてしまうであろう。

 橋は防腐処理の為に塗料を塗られており、雨の影響で足を滑りやすくなっている事もあり気を付けて渡らなければなさそうであった。


「ラティエ、念のために手を繋いで渡ろう」

「うん」


 表現のしようがない嫌な予感がふつふつと心の中で生まれ、エルはラティエの手を握りカルヴァを追いかける様に橋を渡る。

 何度か足を滑らせそうになったラティエを助けながらゆっくりと歩いているせいか、既にカルヴァは橋を渡り切っており二人を待っていた。


 ――なんだ……この全く拭えない嫌な感じは……。


 もう少しで橋を渡り切るというのに、最初に感じた嫌な予感が全く晴れない。

 念の為に周りを見渡しても、魔物や盗賊の類は見当たらず安全と言えるのに、違和感は消えるどころか増えるばかりであった。

 ふと、渡り切るまで数十歩というところでエルの耳に異音が聞こえた。

 その音に釣られる様に振り返れば、川の上流から橋を飲み込むのではないかと思えるほどの濁流が猛スピードで迫っていた。


「エル! 早く渡れ!!」


 その光景を見たカルヴァはらしくもなく血相を変えて叫び、冗談じゃないと思いながらもエルはラティエの手を引っ張りその場から駆け出そうとした。


「あっ――」


 急に引っ張られたからなのか、運悪くラティエは足を滑らせ、短く声を漏らしながら前のめりに倒れ始めた。


 ――マズイ、これじゃラティエが間に合わない。


 すぐ目の前に濁流が押し寄せ、嫌に冴える思考で結果が導き出された時、エルは意を決して行動に移った。

 魔原(マナ)を解放し、身体を強化しながらラティエの体を抱き寄せ、両腕に力を込める。


「ラティエ……乱暴するけど、ごめんね」

「え……? きゃあっ!?」


 短くそれだけ言ったエルは返答を待たずに今持てる腕力の全てで彼女を抱き上げ、カルヴァへとその華奢な体を放り投げた。

 直ぐにカルヴァはラティエが落ちてくる位置を割り出し、その場所まで移動し落ちてきた彼女の体を抱きとめた。


「大丈夫か?」

「は、はい……え、エルは!?」


 カルヴァに抱きとめられながら自身を助ける為にまだ橋へと残っているエルへと視線を向けると、今まさにその場から飛び出していた。

 後数歩で渡り切る、その距離に差し掛かった瞬間に無情にも濁流はエルの体へと覆いかぶさった。


「エルゥゥゥッ!!」


 濁流に飲み込まれ姿が見えなくなり、ラティエの悲鳴にも似た叫びは皮肉な様に晴れ渡った空へと響いた。

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