Prologue:天使との出会い
此処は国の辺境に位置する森の中、厳しい冬の時期を乗り越え春を迎えていた。
上弦の月が暗い森の中を静かに照らしている。
だが、そんな静寂を掻き消すかのように森の中が一気に騒がしくなる。
「――はぁっ……、はぁっ!!」
薄暗い森の中、月明かりだけを頼りに森の中を少女が駆けていた。
月の明かりを受け光る少女の純白の髪は幻想的な美しさを秘めていたが
その表情からはそんな余裕を見せる物ではなかった。
「いたぞ! あそこだ!!」
「――ッ!!」
少女の後方から男の声が聞こえると少女は表情を一層険しくさせる。
どうやらこの少女は追われているようだ。
しかし、険しくなった少女の顔は一気に驚愕へと変わった。
少女の前には崖となっており、下を見ると黒い絵具で塗りつぶしたかのような漆黒が支配している。
間違えて足を踏み外し落下などしたらタダでは済まないであろう。
そんな少女の心情などお構いなしに、彼女を追う者の足音が刻々と近づいてくる。
「くっ……!」
既に追手が直ぐそこまで来ている事を察した少女は〝背中に生やした白い翼〟を広げると
あろう事か地を蹴り崖から飛び降りた。
少女が重力により落下して行くと同時に背中の翼をはためかせ飛翔する。
その数秒後には追手が少女が飛び降りた崖へと追いついたが、既に少女は少し離れた所で滞空しており徐々に距離を離していた。
「撃ち落とせ!」
隊長格であろう男が叫ぶと、数人の男が弓を構え少女に狙いを定め矢を放った。
ヒュン、と風を切り裂く音と共に、弧を描く矢は少女へと飛んでいく。
「…………!!」
風を切る音を聞き、少女が後方を見ると矢が直ぐそこまで迫っていた。
しかしその矢は幸運にも少女の左肩を少し切るだけで通過し少女に刺さることはなかった。
だが、それで終わるはずがなく、二射目、三射目と次々に少女に向け矢が飛んでくる。
これで落ちる訳にはいかないと、少女は空中で僅かに身を捻ったり旋回したりと矢を回避していた。
「あぅっ……!!」
数えて七射目くらいだろうか、一本の矢は遂に少女の右の脹脛に突き刺さり少女は痛みによって声を上げた。
集中が切れたからなのか翼の動きが鈍くなり、支えが無くなったかのように少女の体は真っ逆さまに漆黒の闇に飲まれていった。
「墜落を確認。隊長、どうしますか?」
「この暗さではどこに落ちたかは判別できん、あの高さで落ちて無事とは思わんが、今はキャンプに戻り明日探すぞ」
「はっ!!」
隊長格の男は少女が墜落した所であろう場所を見ながら部下にそう告げると、部下は来た道を引き返し始める。
そして男が小さく鼻で笑うと、一拍遅れてから部下達と合流する為に踵を返し歩き始めた。
※
足に矢を受け、文字通り墜落している少女は一度大きく翼を動かし始めた。
だが落下の影響で中々翼を思う様に動かせず、このままでは体を地面に叩き付けられるという事を想像すると背中から嫌な汗が流れてきたような気がした。
ふと、少女の目に映ったのは満開に花が咲いた桜の木だった。
一瞬の思考の後に少女は意を決し頭を守るように腕を顔の前に持ってくる刹那には少女の体は桜の木の中へと消えて行った。
「くぅっ……、うぅっ……!」
落下の勢いもあって枝が次々と折れて行くが、当初の落下のスピードより遥かに遅くなり、今度は体全体を枝にぶつけ、鈍い痛みに呻きながら落ちて行く。
そして、その木の中で一番太い枝に体がぶつかると、その細身を跳ねさせて地面へと叩き付けられた。
だが、地面には先ほどの衝撃によって散って行った桜の花弁が積り、気休め程度のクッションになっていたおかげなのか予想を下回ったくらいの痛みが少女に伝わった。
「かはっ……! うぅ……」
落下の衝撃もあり、苦しそうに息を吐き出すと少女は重くなった体を無理矢理起こし
先ほど脹脛に刺さった矢に手に取る。
幸運にも折れていなかった矢の棒を矢羽の付近で折り、鏃の方へと手にかけると抜くために力を込める。
肉の中を這いずるような痛みに顔を歪ませ手が止まるが、呼吸を整え、意を決したように思いっきり引き抜く。
引き抜いた矢から鮮血が飛び散り、彼女の白い足と地を赤く染めると同時に少女は力尽きた様に倒れた。
しかし追手の事を警戒してなのか、痛みによって遠退く意識の中で
両腕を懸命に動かしながら地を這うように移動し始めた。
だが、ほんの少し移動した辺りで少女の目の前が真っ暗になり、少女の意識は深い闇へと落ちて行った。
※
「ん? ……今、あそこから音がしたな」
森の中を歩いていた薄い金髪の少年は小首を傾げながら自身が聞いた音の方角へと向いた。
彼の名は〝エル=イクリティカ〟この森を抜けた先にある村に住んでいる若者だ。
夜の散歩の最中に何かしらの音が聞こえたらしい。
そしてエルは何事かと思い、音のした方角へと歩き始めた。
「たしか、この辺りだったな」
邪魔な草木を掻き分けつつ音がした所までやってくると、先まで怪訝な表情が一気に驚愕に変わった。
エルが目にしたのは、桜の木の傍で傷だらけで倒れている白髪の少女の姿であった。
「なっ……!? 君、大丈夫!?」
エルは慌てて少女に駆け寄り肩を揺するが、少女が起きる気配が全くない。
そしてエルは自分の手に伝うサラサラとした感触に気が付いた。
少女の背中に生えた翼がエルの手に当たっており、先ほどの感触の正体が翼だと理解した。
「この子……天使だったのか!?」
少女の真っ白な翼を凝視しながらも、エルはあるものを見つけた。
それは少女の傍に捨てられていた血が付着した折れた矢であった。
そして少女の右脹脛から血が流れているのを確認すると、これによって傷を負ったのだと理解した。
「まさか、天使狩りの被害を受けたのか……?」
天使狩りとはこの大陸に頻繁に起こっているその名の通り天使を対象とした虐殺行為である。
誰が発端かは知られてはいないが、この大陸の大部分を占領する帝国の人間が天使はいずれ人間を滅ぼすと言う被害妄想によって行われたという噂もある。
だが、この少女が天使狩りの被害を受けたのだとすると追手が近くにいる可能性も有る。
「待っていろ、直ぐに村へ連れて行くから!」
「…………」
エルは少女を抱えると問い掛けるように言うが、少女からの反応は無い。
それどころか首筋に当たる少女の吐息が若干弱いように感じた。
――このままだとまずい……。
そう思ったエルはすぐさまにその場から駆けだし、自分の住む村へと向かった。
※
村へと着くとエルは少女を抱え直し、自宅へとさらに走り器用に足で扉を開けると
普段自分が使っているベッドに少女を寝かせた。
改めて見ると、少女の体は擦過傷や打った痕がひどく見えるがそれ以上に足の怪我が酷かった。
傷自体は矢が貫通したおかげで小さいが、今も血が流れており放っておけば菌が入る。
医者でもないエルはとりあえず家にある包帯を取り出し、止血のために彼女の膝の辺りをきつく縛り、自身が使っている枕を右足の踵へと潜り込ませる。
「今医者を連れてくるから待っていて」
そう少女に告げると慌ただしく自宅から飛び出し次の目的地へと走り去った。
そして三分ほど走ると他の住家とは違い少し大きめな建物の前に着いた。
此処は村で開業されている小さな病院だ。
「先生、先生!!」
「な、何だ、どうしたエル?こんな夜更けに……」
荒々しく戸を叩く音に釣られ、中から白衣を着た中年の男が出てきた。
彼はこの村の数少ない医者で体の大きさの割に優しく村の人間と親しい。
「先生。怪我人を見つけたんだ、直ぐに来てくれ!!」
「こんな時間にかぁ!?」
「文句なら後で聞くから俺の家まで早く来てくれ! 結構やばそうなんだ!」
「あー……分かった、分かった。器具の準備もあるから少し待て。私が来るまでに消毒をしておけ」
それだけ聞き頷いたエルはその場から離れ自宅へと向かった。
それを見送った医者の男は「やれやれ」と首を摩ると医療道具を取りに中に戻った。
自宅へと戻ったエルは急いで棚の所から緊急箱を出すと、中からガーゼと消毒液を取り出した。
それを手に取りガーゼに消毒液を染み込ませ、まずは一番傷が深い少女の右脹脛の傷を消毒することにした。
「うぅっ……!」
傷口に触れた瞬間に少女から苦痛を伝える呻き声が漏れた。
一瞬傷口に指を入れてしまったかと冷や汗を掻いたが、指を見ると沈んでいるような様子もないので
なるべく擦らないよう注意をしながら患部を消毒していった。
「ごめんよ……、痛いだろうけど我慢してくれよ……」
何ともいたたまれない気持ちが支配されながらも手を止める訳にはいかず
一面が血に染まったガーゼを捨て、新しいガーゼに消毒液を付けまた消毒を行う。
「エル、勝手に入るぞ」
「あ、先生。こんな遅くにすみません」
「気にするな、後は俺たちの仕事だ。下がっていて良いぞ」
少女の傷の消毒を行ってから数分後に先ほどの医者が女性の助手を連れてエルの自宅にやって来た。
医者がエルを退かすと、少女の傷の具合を見ると彼の眉間に皺が寄った。
「……こりゃひでぇな。外傷事態は問題ないが、痣や腫れ具合を見ると何処か骨を折っているかもな」
「彼女は大丈夫でしょうか?」
「幸い頭部を打った様子は無いから命に別状はない。それよりエル、外に行っていろ」
命に別状はないと聞いて安心したエルだが、外に出ろというのがよく分からなかった。
そんな様子を見て医者の男は呆れ気味に説明を始めた。
「あのな、この娘の治療のために服を今から脱がすんだ。女の裸が見たいなら別にかまわねぇけどよ」
それを聞いた瞬間、エルは顔を赤くさせて急いで自宅から出て行った。
医者はと言うと溜息をつくのと同時に苦笑を浮かべた。
「若いねぇ……まったく」
「先生、準備できましたよ」
「あぁ、はいはい。さっさと終わらせるとしよう」
※
少女の治療が行われている間、エルは自宅の傍に生えている木に背を預けながら星を見ていた。
小さい時から星を見るのは好きだった、この地域は空気が綺麗で晴天の日の夜は星が綺麗に見える。
本当なら星を見るより剣の修業をしたいところであったが、少女の事が心配でその気になれなかった。
気持ちが落ち着いてない状況で修業しても何の意味もない。
それだったら少しでも気分を紛らわすために星を見ていた方が良いと思ったのだ。
「……あの子は大丈夫、だよな……」
医者は命に別状はないとは言ったからには大丈夫なのは確かなのだが
いまいちの確信を持てないエルの不安は増々増えるばかりであった。
やがて自宅の方から戸を開く音が聞こえ、振り返るとそこには医者の姿があった。
「おぅ、エル、もういいぞ」
医者が笑顔で言うと、エルは頷き自宅へと戻った。
ベッドには既に治療が終わり所々に包帯が巻かれた少女が静かに寝息をたて寝ていた。
「この子の服は汚れていましたから洗っておきますね」
「あ、はいお願いします」
助手の人が少女の服を持ってそう告げると、エルは少し頭を下げながら答えた。
少女の足の方を見ると、傷口の部分もしっかり塞がっており、もう大丈夫だろうと自身を安心させた。
「エル、ちょっと良いか?」
「何ですか?」
不意に医者が深刻な表情でエルを呼んだ。
その表情からエルは重要な話を持ってくるのだろうと雰囲気で分かった。
医者は一度少女の方を一瞥してから、エルの方へ向き直った。
「この子を治療する前から分かっていたが……この子、天使だろ?」
「……はい」
嘘をついても意味ないと悟ったエルは一瞬の沈黙の後頷いた。
医者からはやはりなと声を漏らした。
「傷は打撲と擦り傷が殆どだった、足の方は……傷口からして矢だな……大よそ天使狩りに会ったのだろう」
「…………」
実際この少女が天使狩りに会ったであろう確信は彼女を見つけた時にあった矢で分かっていた。
その話題を持ってくるという事は、エルは次に出される話題が容易く想像できた。
「で、どうする?お前は森の中でこの子を見つけたという事は、帝国の連中がこの近くにいるという事だ」
――やっぱり、そうなるよな。
エルは医者の言葉を聞きながら心の中で思った。
少女の傷はまだ新しく出来たもので少なくとも見つけてから数分前にできたものだろう。
だが、肝心なのはそこではない。
「もう言いたいことは分かるな?この村は帝国の領土ではないがどこの領土でもない。奴らが足を踏み入れるのは容易だ。近いうちにこの村に奴らは来るぞ。その時この子をどうする?」
医者に問われてエルは目を閉じ思考を巡らした。
帝国の人間に逆らっても殺されるのが目に見えている。
だが、だからと言って助けておいて政府の人間が来たら渡すという事はしたくないのが本心だ。
なによりエルは天使狩りと言う行為自体、反吐が出るほど嫌いなのだ。
しかし、この村は規模が小さいため少女を隠すような場所自体は無い。
やがてエルは目を開け、出た答えを医者に告げることにした。
「……確かに、帝国の人間に逆らうのは無謀だ……けど」
「けど?」
そこで言葉を区切り、一呼吸置いてから。
エルは後頭部を摩りながら口の両端を上げた。
「来たからと言って、はいそうですかってこの子を渡さない。何より俺が天使狩り何て馬鹿げた事が一番嫌いだから」
医者はエルの言葉に目を見開き、少しの沈黙の後に苦笑と共にエルの頭を乱暴に撫でた。
「たくっ、いっぱしな口を利くようになりやがって。分かった、村長には俺が伝えといてやる」
「すみません、それとありがとうございます」
「おう、今回はタダにしといてやるよ、じゃあな」
医者は満足したように頷くと、エルの家から出て行った。
それを見送った後、エルは安らかな寝息を立てている少女の横に座った。
そして、何故か自然に手が動き彼女の頭を撫でていた。
気のせいかもしれないが、少女の顔が少しだけ微笑んでいるような気がした。
どうも皆さん、はじめましての人は初めまして月龍波です。
元々別の場所で上げていたものを友人の勧めでこちらにも投稿する事になりました。
書き溜めが無くなると遅筆故に投稿が凄まじく間が空くことになりますが、それでもよろしければお付き合いいただければ幸いです。