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鯉綺譚

作者: 古池 鏡無

 僕の友人は枝垂れ柳で首つり自殺をした、と先輩は云った。

「……、枝垂れ柳ですか」

 私は結露で濡れた窓から見える、どんよりとした景色を見ながら云った。

「うん、枝垂れ柳で」

 先輩の下宿は石油ストーブの明かりのみで薄暗い。その唯一の明かりの上でぐつぐつと沸騰する薬缶の蒸気で、息苦しい。

 必要最低限のものしか置かれていない部屋が水に溺れたようになまぬるかった。

 枝垂れ柳で、首つりはできませんよ、と私が云うと、僕もそう思うんだけれどね、と先輩は呟いて続けた。

「実際に見たわけじゃない。聞いた話に


よると友人は、柳の木に背中を預けるようにして座っていたらしい。そうして首と柳に紐が巻き付いていた。……、赤いワンピースの裾が水路に浸って、それが金魚のように見えたらしい」

「それじゃしかし、本当の死因が分かりませんね」

「どうだろうね」と先輩は黙り込んだ。

 曇っているせいか、遠くの踏切の音が聞こえた。

「あるいは……、他殺かもしれませんね」

「さあ、どうだろうね」

 先輩はそう云って、嫌に喉が渇くねと呟いた。

 云われてみると、息苦しいほどじめっとしているのに、喉が渇いて仕方なかった。



 私は先輩を鹿島さんと呼んだ。

 現在大学四回生で、ずいぶん長い間、四回生でいるらしい。

 鹿島さんは「まだ卒業しないのですか」という問いに、いつもこう答えた。

「―― 僕はね、浮世離れした人間になりたい。地に足がついていない人間に。そのためには大学生ほどうってつけの身分はない」



 むかし鹿島清兵衛という男がいた。

 江戸から大正に生きた奔放な男で、現在の銀座六丁目に百五十坪の二階建て写真館を建てたり、列車一両を買い取って座敷列車に仕立て直して京都へ漫遊したり、隅田川船上で百物語を開催したりと、今でも語り継がれている男である。

「僕は鹿島清兵衛の子孫である」

 と鹿島さんは云った。

 僕のことは鹿島と呼んでくれ、と。

 鹿島さんの本当の名を、私は知らない。


 転形倶楽部は催し物を開催する倶楽部である。

 金魚会、鯉会、墓場の梅会、歌留多会、そうして百物語など色々な催しを行ってきた。

 鹿島さんはその倶楽部の代表であるが、代表としての存在を知っている者は少ない。

 転形倶楽部の会員も鹿島さんを代表であると認識していない。

 彼は代表として、あるいは開催者側として誰かに認められることを嫌った。いつも一般参加者として催しに参加した。



 私が二回生の時である。

 近所の亀の湯に浸かりに行くと、先客として鹿島さんがいた。

 夏になる前の、いくらかさっぱりした夜のことで、銭湯には珍しい露天に浸かるのは、私と鹿島さんの二人だけであった。

 私は鹿島さんのことをしばし大学近くの古本屋「暇人堂」で見かけていた。それは鹿島さんも同様らしく、気軽に話しかけてきた。

「君は文学部かい」

 という鹿島さんの問いに頷いて答えると、僕もそうだ、と彼は云った。

「よくあの暇人堂には世話になる。あそこの店主は面白いぜ。僕はあそこに本を返す時、手紙をはさむ。内容はなんだっていい。いやしかしね、なんだっていいけれど、なるべく生活的なことにしている。昨日食べた料理の感想、銭湯で見た刺青の詳細、コインランドリーでの出来事。まあ本当になんだっていい。ただ空想などは書かないようにしている。特に意味はないけれどね。まあそういう手紙をはさんで返すと、店主は確認したうえで何も云わずに書架に並べる。そうして再び売れると、僕に報告してくるんだよ。――おいおい、君の生姜焼きの感想を五十代後半の禿げた男が買って行ったぜ、って具合に」

 鹿島さんは暇人堂に本を売ることを返すと表現した。そうして鹿島さんはそこでしか本を買わないようであった。

 いつか、私が買った本に生姜焼きの作り方というメモが入っていた理由が分かった。しかし当時の私はどう思ったのだろうか。記憶が曖昧だが何も思わなかったに違いない。

「それにどんな意味があるのですか」

 と思わずは聞いた。

 意味、と鹿島さんは首を傾げて続けた。

「意味なんてあると思うかい」

 それは私の期待する回答ではなかったが、鹿島さんの満足そうな顔を見ているとそれでもいいように思われた。



 亀の湯に行くと、高い確率で鹿島さんと一緒になった。

 鹿島さんはそのたびに、何か面白い催し物の話をしてくれた。

 そうしてその話の間に、

「なんだか ――、嫌に喉が渇くね」と云った。

 私はその言葉を聞くたびに喉の渇きを意識した。



 大学の講義中、隣の席の男に呼ばれたので振り向くと、

「なんだか水臭いぜ」

 と男が云った。

 私はその男を知らなかった。

 私が不思議そうに首を捻ると、男は笑った。

「君は水を飲み過ぎているんじゃないか? イケナイ、それはイケナイよ。それは水中毒に陥るぜ。いまにぶくぶくと太って喉が詰まって危ないよ」

 私は彼の推察に驚いた。確かにこの頃、喉が渇いて仕方ない。そうしてがぶがぶと水を飲んでも満たされないのであった。

「しかし、喉が渇いていけない」と思わず反論すると、男は急に真面目になって、

「ほら、それが危ない。君はれっきとした水中毒だよ。なんだか輪郭までぶよぶよしている」

「どうすればいい」

「知らないよ、それは。ただ鯉の血が良く効くって聞いたことがあるけれど――」

 男は急に気まずそうに席を立った。

 喉が燃えるように熱い。視界が狭まっていくのを感じる。私は先輩から渡された水を飲んだ。先ほどの男が教室のドアに手をかけて、肩で息をしている私を気の毒そうに見つめている。



 大学から帰宅すると、馴染みの郵便配達員がいた。

「こんにちは、そろそろ帰ってくると思いましたよ」

 彼は云った。

「届け物ですか」

 実家からかしらと郵便配達員に聞くと、彼はなんだかにやにやしている。

「隅に置けませんね」と云うので、君の会社のプライバシーポリシーは一度見直しが必要だよ、と返した。彼はそれでもにやにやしている。

 私は彼から箱を受けって、宛名を見るが知らない女の名である。

「知らないよ、誰だろう」

「またまた」と彼は受け付けない。

「本当に知らないのだけれどね」

「しかしあなたの名前と住所で間違いありませんよ」

「それは確かに」

 郵便配達員は再びにやにやしだした。

「まあ、判子をお願いします」

 私は気にくわなかったのが、判子を押して、「どうです、お茶でも」といつものように彼を誘った。

「すみません、僕は用事がありまして」

「仕事ですか」

「まさか、仕事なんて馬鹿のやるものですよ」

「私の先輩と同じことを云っている」と笑うと、それは気が合いそうですねといって彼は帰っていった。



 届け物には「志」と書かれていてぎょっとする。

 私はそれの対処方法に困った。誰かの間違いだろうか。私の身内で最近亡くなった者はいない。



 先輩の友人に通夜にはまった男がいたらしい。男は朝起きるとまず、地元の新聞の訃報欄を確認した。そうして亡くなった人の通夜情報を確認すると、まるで、通りかかった慈悲深い男といった風に、ご焼香をあげるらしい。

「僕はあの瞬間が耐え難いほど、大好きでたまらないね」と男は語った。

「どこにそんな惹かれるのだい」という先輩のという問いかけに、「あれに惹かれない男は男じゃない」と云って笑ったらしい。

 先輩はよく分からん趣味だね、と私に向かって笑った。



「君も隅に置けませんね」

 と亀の湯で先輩は郵便配達員と同じ反応をした。

「どうすればいいのでしょうか」

「開けずに電話をしなさい。電話番号は書かれていたかい」

「いえ」

「じゃあ、差出人は」

 私は書かれていた女の名前を云った。

 先輩はぎょっとしたように「冗談を云っちゃいけない」と云った。

「――、それは、枝垂れ柳で自殺した僕の友人の名ですよ」

 私は風呂で暖まった体が、さあっと冷えていくのを感じた。

 喉が詰まって、息苦しかった。私は先輩に助けを求めるように見た。

 先輩はかわいそうな者を見るような目で私を見ていた。



 その晩、夢を見た。

 私は土手を歩いていて、左側には小さな川が流れている。あたりは暗く、しんしんと夜のようであった。どこかで祭り囃子が聞こえてきた。それは遠く、どこか寂しさを帯びていた。私はどうして歩いているのだろうか。どこに向かっているのか。何も分かっていないのに、ただ歩いていた。

 ―― 女がいた。

 赤いワンピースに黒い傘を持ったその女は、いくらか前から、私に付いてきているように感じられた。私にはその女がひどく恐ろしい前兆のように思われた。そのため女が話しかけてきた時、私は無視をすることにした。あるいは私は、彼女の問いかけに対して答えを持っていなかった。

「ねえ、あなたはどこに行くの」

 なんだか歩いているうちに、段々と気温が上がっていく気がする。そうしてそれはいくらもしない内に、耐え難いほどの暑さになった。

「ねえ、知らないんでしょう。あなたは自分がどこに向かっているのか」

 私は顔に冷や水を浴びさせられたようにぎょっとしたが、それはほんの一瞬のことで、あまりの暑さのせいで、彼女のことなんてどうでも良くなった。

 暑さのせいか、喉が渇いて仕方がない。喉の乾きは以上で、喉がしまって張り付くように感じられた。

 女はそんな暑さを感じさせないように私の周りをはねるように回った。

「ねえ、ほら川が綺麗よ。ぬめりぬめりと光っているでしょう。あれは鯉。真鯉と緋鯉のうろこが、月光でぬめりぬめりと輝いているの」

 私は女の話で、そこに川があるのを思い出した。喉の乾きはもう限界に達していた。私は土手を滑るように降りて川に近づいた。「あら」と女は声を出した。そうして彼女も滑るように追いかけてきた。

「飲むの? 辞めた方がいいわ」

 女が云った。

 私は水をすくった。水は私の手のひらの中で、先ほどまでの輝きを失ったように揺れていた。

「ほうら。鯉がいない水ほど、美しくない水はないわ」

 私は女のことを無視して、水を口に含んで「あっ」と声を上げた。

 口の中に焼けるような痛みが走った。私は思わず、水を川に吐き出した。

「あら、いけない」

 女が云った。

「だから云ったのよ」

 中途半端に口を濡らしたせいか、喉の乾きはどんどん増していくようであった。

 絶望したように寝ころんだ私の顔を女がのぞき込んだ。女の顔はひどく美しかった。

「ねえ、あなたも同じね」

 女が云った。

「私もね、ひどく喉が乾いていたの、それで楽になりたかったの。ここは幸せよ。もう戻りたくない。こんなに幸せなところはないわ」

 女はそう云うと川を見た。

 あたりは地獄のように暑く、気が付くと川はぐつぐつと煮立っているようで、川から流れてくる蒸気が私の顔を焼くようにまとわりついた。

 女は不意に傘を川に突き刺した。それからそれを抜くと、そこには紅白にぬめりと光る鯉がいた。

「これは緋鯉。緋鯉はイケナイ」

 そう云うと女は鯉を川に投げ捨てた。鯉はべちょりという音を立てて煮立った川に飲み込まれていった。そう云って女は同じように鯉を突き刺した。

「ほら、これは真っ黒で、ぬめりと美しい。これは真鯉」

 そう云うと女は鯉の腹に噛みついた。それは食べると云うより、吸いつくといった感じであった。女の顎に鯉の血がすーっと流れた。私にはそれが、ひどくうまそうに思われた。

 女は吸い尽くした鯉を私の顔の上に落とした。それはひんやりとして気持ちよかった。

 女はその後も何匹と同じことを繰り返した。緋鯉は捨てて、真鯉だけを吸った。

「ねえ、これは黒いけれど、緋鯉。あなたに区別できるかしら」

 私は寝ころびながらじっとそれを見ていた。喉の渇きはどんどんと増して、それに比例するように、女が美しく見えてきた。女の唇は、いまや鯉の血でてかてかと光っている。それがひどく魅力的に思われた。

 私は立ち上がると、川を見下ろした。煮立った川には鯉が、ぷかぷかと浮かんでいた。女は相変わらずうまそうに鯉の血を吸っていた。私はこっそりと彼女に近づいて彼女の唇に吸いついた。そうして彼女の飲んだ鯉の血を飲み干そうとした。彼女は何度も私の肩を叩いた。しかし次第に、ぐったりとして抵抗しなくなった。彼女の唇は、彼女の体内にある鯉の血は、私を十分に満足させた。

 女は恨めしそうに私を見ると、土手を駆け上がった。私もそれについてあがった。女は土手を歩いていて、私はそれを追いかけていた。しばらくすると暑さのせいか、再び喉が締め付けられるように乾きだした。しかし女は何事もないように歩いている。

 ――、不意に後ろからヘッドライトに照らされた。

 驚いて振り向くと、車がこちらに向かって来るようである。車は私たちに近づいて止まった。車の中には考えられないほどの人数が押し込められているよう乗っていて、窓には顔が押し潰され、広がっている。窓がその頬をこするように開き始めると、頬の形は徐々に変形して、開ききった窓から人がひとり落ちた。車の中がどっと沸いた。そうして落ちた男も笑いながら、乗客を押しのけて車に戻る。

 車から漏れるエアコンの風が私の頬をなでた。

「迎えがきたみたい。またね」

 女が云って、乗っている人を押しのけるようにして車に乗った。車の中から「痛い」と悲鳴が聞こえて、またどっと皆が笑う。女が沢山の人の中からこちらを見て、みんなと一緒に笑っている。何十個という目玉がこちらをじろりと舐めるように見ている。どの目も苦しいのか血走っていた。

 しかしこの暑さに比べればそこは天国のように思われた。

「ねえ、乗せてよ」

 私は云った。

 ――、笑い声が消えた。

 森閑とした暗闇の中で、ヘッドライトに群がる虫の、自らをたたきつける音だけが嫌にうるさい。唯一、女だけが私を指さして声を出さずに笑っている。

「嘘だよ」

 沈黙に耐えられずに云うと、また車内がどっと沸いた。そうして車はクラクションを鳴らし走り去った。

 私は再び歩き出した。喉が乾いてたまらなかった。



 目が覚めると、枕元にかじられた鯉がおいてあってぎょっとした。

 しかしそれは黒い緋鯉で、うまくないだろうと考えた。そうして自らの考えに再びぎょっとした。

 私はひどく寝不足のように思われた。



 ここ以外の何処かに行こうと思い立って、列車に乗った。外は暗く、車窓には私の顔がうつりこんでいた。

 外を見ようと顔を窓に近づけると、線路脇を先輩と、いつかの水中毒の男が歩いているのを見た。

 もしかすると、これは転傾倶楽部のひとつの催しなのかもしれない。あるいはそれは喜劇で、怯える私を笑っているのかもしれない。

 ――、プラシーボ効果だよ。

 私の喉の乾きに、不思議な夢に、先輩はそういうかも知れなかった。

 しかしどうでもいい。私の喉はまだ燃えるように熱く、鯉の血を、あるいはあの女の唇を欲していた。

 ――、私は目を閉じた。目を閉じればあの土手に再び行けると考えた。喉が渇いて仕方がない。



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