その1
「殺人事件というものは、この鰻重のようなものだと思うんだ」
椋露路朱寧は重箱の中の蒲焼きをひっくり返しながら、唐突に言った。
「一見して美味しそうなこの蒲焼きも、裏返してみたらとても食欲をそそるものではない。この間の事件を覚えてるかい、小林刑事?」
小林秋彦は自分の隣で美味しそうに鰻とご飯を頬張っている可愛らしい赤毛の女の子に気を取られていたが、名前を呼ばれて正面を向いた。
「メル、もうちょっと落ち着いてお食べよ、ほら、ほっぺにご飯粒が付いてるよ」
椋露路は女の子の頬からご飯粒をつまみ、ぱくりと食べた。
「この間の事件というと、花門和十の件かな」
「うん、あの事件は表面上は同一犯による連続殺人だったけれど、ひっくり返してみたらグロテスクで他に例のない事件だった。犯人はこの鰻重のように美味しそうに事件を調理して、どうぞお食べくださいと差し出してくるのさ。僕と君の仕事は、蒲焼きをひっくり返して事件の裏側を見ることだ」
「この店みたいにガラス越しに調理中の厨房を覗けたら、楽なんだけどね。そうしたら休日を返上して聞き込みをしなくても済む」
小林秋彦はため息をつくと、勢い良く蒲焼きにかぶりついた。
「貴重な休日に付き合わせちゃってごめんね。流石に僕の腕力じゃあ、あのトランクは持てないから、君に一緒に来てもらえて助かったよ」
椋露路が頭を下げると、小林秋彦は慌てて腕を振った。
「朱寧さんとメルさんのためなら、いくらでも付き合うよ。いつも捜査を助けて貰ってるし。でも、どうしてまたメルさんがあのトランクに……?」
小林秋彦は不思議そうに、個室の隅に置かれた藤を編んで作られたキャスター付きのトランクを見た。赤毛の女の子の身体がすっかり入ってしまう程の大きさだ。
「うん、これがまた可笑しな話なんだけれど、先月、僕らの事務所にアンティークドール収集家を名乗る髭面で身なりのいい中年の男が来たんだ」
「アンティークドール収集家だって。それはまた、変わった依頼人だね」
「そう思うだろう? まあ、探偵事務所を尋ねる者なんて依頼をするか、不法行為を追求するか、警察関係者くらいのものなんだけれど、その中年男はどれでもなくて、僕に招待状を渡しに来たんだ」
椋露路は箸を置いて、鞄から焦げ茶色の封筒を取り出すと小林秋彦に差し出した。彼はそれを受け取って、中から招待状と題された厚手の紙を出した。
「ドールたちと素敵な夜を過ごしませんか、アンティークドール展覧会への招待状。ふうん、どうしてこれを朱寧さんに?」
「ふふっ、君の横で元気よく鰻を食べている僕の助手が、人形と間違われたのさ」
メリーヴェールはそれを聞いて、まったく心外だというふうに顔をしかめた。
「その中年男――舘谷鬼一郎という名前のようだけど、事務所の外から窓越しにメルを見たそうでね、アンティークドールと勘違いしたようなんだ、可笑しいだろう。まあ、せっかくだから人形の振りをして驚かせてやろうと思ったわけさ」
「なるほど。そうすると、メルさんが自分の足で歩いて行くわけにはいかないね」
「そういうこと。というわけで、今君に浜名湖名産の鰻をご馳走させてもらってるんだ。展覧館は浜名湖の北東部に位置する山頂にあるみたいだから、このすぐ近くだよ」
招待状によれば、アンティークドール展覧館への往来は入り江の対岸から山頂までを結ぶロープウェイを利用しなければならないらしく、三人は昼食を終えると真新しいゴンドラに乗った。他に乗客はいない。
五分間の空中散歩のあと、ゴンドラは山頂へ到着した。
「ほら、メル、君はもう隠れて。あの髭面の舘谷鬼一郎をびっくり仰天させてやろうじゃないか」
メリーヴェールは促されるまま三角座りの姿勢でトランクに入ると、椋露路に向かって親指を立ててみせた。椋露路は不敵な笑みを返す。
意気揚々とした彼女らを見て小林秋彦は、この二人が何か問題を起こしませんように、と願った。
※
ロープウェイから降りると、青々とした芝生が広がっていて、石畳の通路が真っ直ぐに走っていた。その先に白塗りの外壁で覆われた平たい建物がある。
「あれが展覧館だね」
椋露路は周囲をぐるりと見渡した。
三人の後方は切り立った崖になっていて、ロープウェイと展覧館を丸く取り囲むように鬱蒼と木々が生い茂っている。
「山を降りるにはロープウェイを利用するしかないのかな?」
秋彦が慎重にトランクを引きながら石畳を進む。
「どうなんだろう。ここからは見えないけど、展覧館の裏に道があるのかも」
展覧館の自動ドアを抜けてガラス天井の廊下を進み、両開きの扉を押し開くと大広間に出た。円形の広間を囲むようにいくつもの扉が等間隔で設置されていて、二人の正面には一際重厚な黒塗りの扉がある。圧迫感を感じさせる低めの天井には豪華なシャンデリアが吊るされて広間を控えめに照らしている。
一瞬、早く出せ、というようにトランクが暴れた。
「ようこそお越しくださいました」
二人が趣向の凝らされた豪華な内装に目を奪われていると、少し離れたところにある受付カウンターからタキシード姿の館員が声をかけた。長身で銀縁眼鏡を掛けた三十代前半の男だ。笑顔で二人に歩み寄る。
「私は執事の中河原と申します。展覧会が終了するまでお客様をお持てなしさせていただきます。御用がありましたらなんなりとお申し付けくださいませ」
中河原は招待状を確認してお辞儀をした。
「椋露路様で最後になります。お部屋までご案内しますので、時間までお寛ぎください。貴重品は広間の入り口横にあるロッカーをどうぞ」
中河原に続いて広間を進むと、今度は正面の黒塗りの扉が開いて舘谷鬼一郎が姿を現した。
「やあやあ。儂の自慢の展覧館へよく来てくれた。今日は開館前夜のオープニングパーティだ、存分に楽しんでいってくれ」
顔面のほとんどを占領した髭面に上機嫌に金歯を見せると、豪快な笑い声を上げた。
「鬼一郎殿が気にかけていたドールを持ってきましたよ、あとでご覧になるといい」
「ほお! それは素晴らしい。窓越しにあのドールを見た時はあまりの可愛らしさに自然と呼び鈴に手が伸びてしまってね、先日は見せてもらえなかったから落胆していたのだ。ところで、今そのトランクが動かなかったかね?」
鬼一郎が驚いたようにトランクを見た。椋露路が慌てて蹴りを入れる。
「気のせいでしょう」
「そうかね? ではまたあとで」
鬼一郎は椋露路と握手を交わし、執事に視線を送ると扉の奥へ引き返した。
椋露路は広間の入口から見て二時の位置にある扉に案内された。扉の上には『紫水晶の間』と書かれたプレートが掲げられている。
秋彦からトランクを受け取って中へ入ろうとする椋露路を、中河原が引き止めた。
「展覧会が終わるまで秘密保持のため携帯電話をお預かりさせて頂いております」
携帯電話を受け取ると、中河原は秋彦を時計回りに二つ隣の扉まで案内する。
「わっ! びっくりした」
椋露路は自分に割り当てられた部屋に入ると、歓声を上げた。
どうやら展示室の一つを臨時の宿泊場所として利用するようで、正面に無数のアンティークドールが並べられている。
広間と繋がる扉のほか、両隣の部屋へと続く扉が二つあり、向かって右側の扉を塞ぐような形で簡易式のベッドが置かれていた。取っ手を回してみるが、その二つの扉には鍵がかかっていた。
椋露路はベッドに腰を下ろした。
「メル、もう出ても大丈夫だよ」
呼びかけると、トランクの蓋を押し開けてメリーヴェールがひょっこりと顔を出した。
「ぷっ! くくくっ!」
いかにも楽しそうに、椋露路とメリーヴェールは視線を合わせると二人してお腹を抑えて笑い転げた。