その3
翌朝、メリーヴェール探偵事務所内にチャイムが響き渡った。
「朱寧、お客だよ」
メリーヴェールが椋露路の部屋を訪ねると、案の定、彼女はあられもない姿でベッドに横たわっていた。すやすやと寝息を立てている。
メリーヴェールは彼女の口にチョコレートを一つ詰め込むと、ペチペチと頬を叩いたが、うめき声を漏らすだけで目覚める様子はない。
仕方ないといったふうに椋露路をベッドから転がり落とすと、ちょっと考えてクローゼットから水色の衣装を取り出して、慣れた様子で下着姿の彼女に着せた。
手順はこうだ。まず、上半身を起こして左肩がベッドに着くように立て掛ける。この時、左腕をバンザイさせておく。右腕を持ち上げながら衣装の肩紐を通し、次に頭、最後に控えめな胸を絞るように背中でリボンを結べば完了だ。
くちゃくちゃの髪にブラシを当て終わった時点でまだ椋露路が起きない場合、もう二つチョコレートを追加してから、渾身のビンタをお見舞いすることになる。
バチン――という何かを叩く音が聞こえた後、ドタドタと走る音がして年季の入った木製の扉が開いた。そして直ぐに引き返す足音。訪問者は赤毛の女の子の後ろ姿を確認した後、くすりと笑って建物の中に入った。
ゆっくりと時間をかけて靴を脱ぎスリッパを履くと、女の子を追いかけた。
「ようこそ、メリーヴェール探偵事務所へ……って君か」
すっかり澄まし顔の椋露路が、訪問者を見て落胆したように言った。頬に赤く小さな手形が付いている。
メリーヴェールはさらにその隣で肩で息をしながらため息をついた。
「朝早くごめんね、近くに来る用事があったものだから」
小林秋彦はそう言って思わず腕時計をちらりと見た。長針は三七、短針は八を示している。
「いや、例の事件の進捗状況を聞きたかったしちょうど良かった。メル、今朝は珈琲が飲みたいな」
「あ、俺も手伝うよ」
秋彦はメリーヴェールと一緒に台所へ向かった。椋露路は横目で彼の表情が硬くなっているのを見て微笑した。
珈琲の入ったカップを机に二つ並べるとメリーヴェールは隣の部屋に引っ込もうとしたが、椋露路が引き止めた。
「なんで」
「ほら、彼が落ち着かない様子だからさ、僕の横にお座り」
しぶしぶといった調子でメリーヴェールが腰を下ろすと、小林秋彦はソファの上でそわそわと所在なさげに身体を揺らした。
「うう、メルさんはいつ見ても可愛い……じゃなくて……ええと……おほん。つまり、今日来たのは昨日メルさんから連絡を貰ったからで」
うっかり心の声をもらしてしどろもどろになった若手刑事に苦笑しながら、椋露路はメリーヴェールを肘でつついた。当のメリーは照れ隠しか全くそうでないのか無表情で天井に出来たほくろみたいな黒ずみをじっと見つめている。
「三日前の事件について何か分かったかい?」
椋露路が尋ねると、小林刑事は安堵したように息を吐いて懐から手帳を取り出した。
「ええと、被害者の匂坂直行は五年前に飲酒運転で子どもを死なせていて、それが原因となって子どもの両親は離婚してるんだよ。父親は再婚して新しく子どももいるが、母親はショックから立ち直れずに現在生活保護を受けながら心療内科に通っている。人生を滅茶苦茶にされたわけだから被害者のことを殺したいほど憎んでいたはずだね」
「事件当時のアリバイはどうなんだい?」
「母親はパニック障害を患っていて、前日の夕方に発作で倒れて事件当日の朝までかかりつけの病院に入院している。ちょうど前日に定期診療の予約を入れていて待合室で発作が起こったらしいよ、薬が切れてたんだね。まあ、アリバイは完璧だ。父親に至っては子どもが亡くなってから名古屋に引っ越していて、事件当日は自宅で眠っていた。こちらにも犯行は不可能だ」
「ふうん、それが本当なら、二人に匂坂直行は殺せないね。ちなみに母親の名前は?」
「渡瀬知奈未だ。裏も取ったから間違いないよ。困ったことに、他に匂坂直行を殺す動機を持つ者が見つからなくて、行き詰まっていたところに昨日メルさんから連絡をもらったわけさ。それまで捜査線上に花門和十のかの字も出てこなかった」
「その様子だと、有力な証拠を見つけたみたいだね」
意気揚々と語る秋彦を見て椋露路は先を促した。
「そうなんだ、花門和十の写真を持って近隣の住民に聞き込みをしたところ、有力な証言を得られた。事件の二日前に被害者のアパート付近をうろついている花門和十を見た人がいるんだ。おそらく下見をしていたんだろうね。捜査本部は花門和十を匂坂直行殺しの犯人と見て捜査を進める方針だよ」
「ううん」
椋露路は秋彦の話を聞くとうなり声を上げた。
「それと、昨日朱寧さんが通報してくれた事件だけど、知ってのとおりボールペンから花門和十の指紋が見つかった。監視カメラには犯人らしき姿は映ってなかったけど、事件直後にマンションの階段を駆け下りる運送会社の配達員を見たという目撃情報がある。おそらく、犯人は配達員に変装して被害者の部屋を訪ね、被害者が油断している隙に包丁で左胸を刺し、倒れた後で射殺したんだ。始めから銃で撃たなかったのは返り血を避けるためだろう。凶器の包丁は何の変哲のないもので、そこからは辿れない。ボールペンは被害者が偽造の受取証にサインをするときに犯人が渡したものだと見ているよ。遺留品は犯行直後に動転してうっかり残されるものだからね」
「なるほどね、状況証拠及び物的証拠から犯人は花門和十の線が濃厚なわけだ」
「断定したわけではないけどまず間違いないと見てるよ。問題は花門和十が何処に潜伏しているかだ。捜査本部は今日中に指名手配する予定だけど、犯行声明によればあと二人殺すつもりらしいからね、のんびりはしてられない」
「動機はどうなんだい? 花門和十が越野司を恨んでいたという情報は聞いているけれど、具体的には分かってるのかい」
「うん、会社の同僚に聞いたところ、恋愛関係のもつれがあったらしい。詳しくはこれから調べるところだけど、長年付き合っていた彼女を寝取られたとかって話だよ――ちょっと失礼」
小林秋彦は立ち上がると、ポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。わかりました、すぐに戻ります――と短い返答をして通話を切った。
「ごめん、捜査に戻らないと。今日ここに来ることは言ってないんだ。何かあったら連絡する」
未練がましくメリーヴェールの横顔をちらりと見て、小林秋彦は出ていった。
※
小林刑事から三人目の犠牲者が出たことを知らされたのはその日の夜だった。
椋露路は小林刑事からの電話を切るとすぐにタクシーを呼んで事件現場に向かった。
「朱寧さん!」
白金にある公園前でタクシーから降りると、進入禁止のテープの前に立っている小林刑事が声をかけた。
「まさに今朱寧さんが通った道だよ」
「うん? なんだって」
公園を突っ切った反対側の出口付近に、青色のビニールシートで覆われた遺体が転がっていた。椋露路は小林刑事の言葉に眉を寄せる。
「被害者はタクシーから降りて、公園を横切って出口まで来たところを背後から撃たれたようだ。道路から自宅のマンションへ行くのに公園を通るのが近道のようで、毎日ここを通っていたらしい」
「どうしてわかるんだい?」
「撃たれた時、被害者である平山美佐子は会社の顧問弁護士と仕事のことで電話で話をしていたみたいで、その弁護士から聞いた。あの人だよ、名前は佐野隆雄」
そう言って彼は少し離れた電灯の傍で警官から質問を受けている男を指差した。
「ふうん、遺体を見れるかい?」
小林刑事は遺体に被せられたビニールシートを持ち上げた。椋露路は懐中電灯を受け取ると、屈んでうつ伏せに倒れた女性の遺体を確認した。生きてる時はそこそこ美人だったであろう顔は今では驚きで目が見開かれ、口元は歪んでいる。スーツの背中にどす黒く血が広がっていた。
「佐野隆雄弁護士によれば、被害者である平山美佐子の父親は資産家で、被害者は三十九歳の若さで大企業の取締役をやっていたようだ。父親が大株主なのでその影響だとか。経営を知らないのに随分な我儘を言ってひんしゅくを買ってたみたいだよ」
「前の二件と凶器は同じなのかい?」
「四五口径の拳銃、今回犯行声明はないけど花門和十の仕業と見ているよ」
椋露路は遺体にシートを被せて立ち上がると、警官と話をしている佐野弁護士をしげしげと眺めた。
「どうもね、はっきりしたことは言えないけれど前の二つの事件とは少し毛色が違う気がするよ。先入観を捨てて、彼女に恨みを持つ人物と死んで得をする人物を調べてくれるかい、お金も絡んでるようだから後者を念入りにね。それともう一つ……いや、二つ」
椋露路は微笑みを浮かべると、右手の人差し指と中指をぴんと立てた。
「お願いがあるんだ」
椋露路が戻ると、事務所の奥から子犬が跳ねるような陽気で軽快なピアノの音色が響いてきた。お菓子を焼く芳ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
彼女はソファに腰を下ろして静かに耳を傾けた。暫くの間聴き入っているのかそれとも眠ってしまったのかじっと動かなかったが、演奏が終わると楽しげに瞼を上げた。
「帰ってたんだ、おかえり」
「ただいまメル。ちょっと話し相手になってちょうだい」
メリーヴェールは紅茶と長方形に積み重なったバタ―クッキーを用意して机に並べ、椋露路に横顔を向ける形で安楽椅子に腰掛けた。
「この事件は単純のようでいて、なかなか変わった構造をした事件だよ」
嬉しそうにメリーヴェールお手製のお菓子をかじりながら、椋露路は言った。
「すると、あの置き手紙に書かれていたとおりに花門和十が殺して回ってるんじゃないんだね」
「うん、例えば三件目の殺人は、ろくに視界の利かない暗闇の中で被害者の背中を撃ち一発で致命傷を負わせていた。前の二件のように至近距離からならともかく、これは銃の扱いに慣れてる者でなければ不可能だ」
「けど花門和十は被害者の自宅付近をうろついていたり、ボールペンから指紋が見つかってる」
椋露路はメリーヴェールに笑みを見せると、少しのいじわるを含ませた声色で楽しそうに課題を出した。
「事件の数日前に花門和十は封筒と便箋を購入している。ワープロではなくわざわざ手書きで書かなければいけなかったものとはなんだろう」
メリーヴェールは少し考えると。
「手紙か、それとも遺書とか。そういえば、ワープロで書かれた置き手紙には、自殺を仄めかすようなことが書いてあったよね」
「うん、その置き手紙だけど、自分も含めて合計で五人の人間を殺すと書かれていた。なぜ明確に人数が決められているのか。ここに大きなヒントがある」
「人数が決められている……殺す相手が予め決まっているとか? うーん、わかんないけど、真犯人は花門和十に罪を着せようとしてるんだね。でもどうやって遺書を書かせたんだろう」
「それも重要なヒントだよ。遺書なんて人に言われて書くようなものじゃないからね。こう考えるんだ、花門和十には遺書を書く理由があった」
椋露路はメリーヴェールが頭を悩ませているのを嬉しそうに眺めた。いつものこととはいえ、メリーヴェールはそんな椋露路に顔をしかめて見せた。
「そして最後のヒント。二件目の殺人で、花門和十が恨みを持つ人物が、殺されているんだ」