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椋露路朱寧の推理録  作者: 雪車
消えない足跡
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その12

 副院長は青白い血管の浮き上がった手のひらを杖に重ねて、目を細めて窓の外を見やった。

 「四十五年前のあの日も、靴が埋まるほどの大雪だった。当時は雪が降ることを事前に知ることはなかったから、大きな被害が出ないようにお祈りをすることもできなかった。

 「神さまは残酷なことをなさるとわたしは思ったよ。その大雪が原因となって養母を死なせてしまった祈子は、さぞかし神さまを憎んだに違いない」


 秋彦は確認を得るように副院長の目を覗きながら、電話で聞いたばかりの情報を口にした。

 「記録によると、養母に睡眠薬を飲ませた祈子さんは、今と比べ警備も厳重だった修道院からの脱走を図った。閉め忘れた窓から室内に降り込んだ雪が眠っている養母の体温を奪い、発見した時には既に心臓は停止していた。そして、足跡が証拠となって祈子さんの過失致死と判断された……。

 「今回の事件とそっくりです。場所も同じ。違う点は、被害者である祈子さんの身体が身動きとれないように紐で縛られていたということと、足跡が残っていないことです」


 「あの事故のことで恨みを持つ者が、祈子を殺したと言うのだろう?」


 「そうとしか考えられない。そう思いませんか?」


 副院長は問い掛けるように秋彦の瞳を見た。 

 「けれど、誰がそんなことをするというんだ。あの事故を誰よりも嘆き苦しみ続けたのは祈子なのだ。あの子は神さまを憎む以上に、自分自身を許すことができなかった。

 「あんたは先ほど祈子が赦しを乞うていたと言ったが、それは違うとわたしは思うよ。あの子はあれ以来ずっと自らに罰を与えていたのだ。祈子には、法律が定めるとおり罪を償って恋人と共に暮らす道もあった。

 「元々純粋で、言いつけを真面目に守ってきた祈子が、養母を裏切ってでも手にしようとした幸福を捨てて自らここに戻ってきたのだ。この修道院はあの子にとって牢獄だった。そんな祈子を、誰が殺すというのだ」


 「やはり心当たりはないのですね」

 秋彦はうなった。

 「祈子さんと駆け落ちをした男はその後どうなったのですか?」 


 「さて、何度か修道院に来たが、祈子はついに会わなかったよ。それっきり見ていないね」


 「そうですか。そういえば、昨日、司祭が講義をしている時間に亜不鎖さんだけが別行動を取っていたようですが、それはなぜですか? 今も亜不鎖さんの姿が見えないですね」

 秋彦は改めて調理室内を見回した。亜不鎖は調査によると、五歳の時に災害で両親を亡くして祈子の特別養子となっていた。


 「そういったことは祈子に任せていたからね。お前知ってるかい?」


 副院長に聞かれ、藤田は隣で表情を固くした。

 「あの……日課の作業中に祈子さんから電話があって、亜不鎖を古い礼拝堂に呼ぶように言われました。話があるからと言ってましたが、詳しいことは聞いてません。それに、結局あの子は行かなかったみたいですが」


 「亜不鎖さんは祈子さんから呼び出されていたんですね? それは重要な事実です。彼女は今、どこにいますか」

 秋彦は語気を強めたが、先ほど注意されたことを思い出し、気を落ち着かせた。


 「今演奏をしていたのがあの子です。祈子さんが殺されてショックが大きいはずだから、無理をさせないよう今日は休養を取らせたんです」


 藤田に亜不鎖のところまで案内を頼んで調理室を出ると、秋彦のポケットでケータイが揺れた。怒ったように振動する画面には無表情のメリーヴェールを背景に「椋露路朱寧」という文字が表示されている。


 ケータイの受話口を左耳に当てると、秋彦は危うく手から取り落としそうになった。

 「司祭が犯行を自白したからさっさと講堂に来たまえ。この、税金泥棒の暴力刑事!」



 メリーヴェールはポケットから白いハンカチを取り出して、パイプオルガンの前に座る亜不鎖に差し出した。


 「ありがとう。でも大丈夫」

 亜不鎖は袖で涙を拭き取って、メリーヴェールと同じ碧色の瞳を向けた。不思議なものを見るように、メリーヴェールの赤毛から、全身に視線を動かす。


 「あなた誰……? 天使?」


 メリーヴェールは少し考えてから、首を振った。金色の装飾が周りに施され、白金色に光りを反射して神々しく並び立つ無数のパイプを見上げ、きょろきょろする。


 「すごいよね、楽器の女王って言われるのもわかるでしょ。見てるだけで敬虔な気持ちになるというか」

 メリーヴェールと一緒にパイプオルガンを眺め、亜不鎖が呟いた。


 「昨日殺された人、あなたのお母さん?」


 亜不鎖は不意を突かれたようにぽかんと口を開けて、突然現れた神妙な女の子を見つめた。

 「あなたやっぱりお母様を迎えに来た天使ね。お願い、お母様を天国へ連れて行って。自殺じゃないのでしょう?」


 彼女はまた涙を浮かべ、祈るように言った。向かい合ったメリーヴェールは床に落ちた涙を目で追って、困ったようにもう一度首を振る。

 「違うと思う。多分」


 改めて差し出されたハンカチを受け取って、亜不鎖は目尻を拭いた。

 「そう……そうよね。刑事さんがお母様は紐で縛られてたって言ってたもの。天使がそんなやり方しないよね」


 「さっきなんて言ってたの、悲しい曲だったけど」


 亜不鎖はメリーヴェールに楽譜を見せて、お母様がよく弾いていた曲だと話した。 


 「マタイ受難曲……まだ途中までしか弾いてないよ。最後まで演奏しないの?」


 「私はこの部分しか覚えてないの。それに全部演奏しようと思ったら何時間もかかっちゃうし。お母様のためになるかわからないけど、じっとしてられなくて」


 メリーヴェールは譜面をぺらぺらとめくって、一番後ろの記載に目を留めた。そこには追悼という項目で、パイプオルガン用に編曲された五線譜と詩が書かれている。



 Wir setzen uns mit Tränen nieder

 und rufen dir im Grabe zu:

 Ruhe sanfte, sanfte ruh’!

 Ruht, ihr ausgesognen Glieder!

 Ruhet sanfte, ruhet wohl!


 私たちは涙を流してひざまずき

 塚に眠るあなたに呼びかける


 眠れ安らかに 安らかに眠れ

 疲れ果てた四肢を休めよ

 眠れ安らかに 安らかに眠れ


 Euer Grab und Leichenstein

 soll dem ängstlichen Gewissen

 ein bequemes Ruhekissen

 und der Seelen Ruhstatt sein.

 Höchst vernügt,

 schlummern da die Augen ein.


 あなたの眠るその墓は

 迷える心を安らかに支え

 魂に休息の地を与える場所


 あなたは至上なる安堵に包まれ

 まどろみの中 瞳は閉じゆく


 ――St Matthew Passion

 J. S. バッハ (Johann Sebastian Bach/1685-1750)――



 「そこは、十字架に掛けられ息絶えたイエス様の遺体に対して人々がひざまずき、お別れを歌う部分よ。お母様は一度も演奏しようとはしなかったけれど」


 息を詰めて楽譜に視線を落とす亜不鎖の様子を見かねたメリーヴェールは、彼女の隣に腰掛けた。譜面台に楽譜を乗せて、場所を空けるよう促した。


 ぎこちない手と足取りで、メリーヴェールは五線譜を辿っていった。

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