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椋露路朱寧の推理録  作者: 雪車
消えない足跡
34/35

その11

 メリーヴェールは聖堂の廊下に置かれた石像の隙間に体を丸くして挟まっているふわふわを見つけて、ほっと安堵の息をついた。調理室でクッキーを焼いている間にどこかへ行ってしまった迷子の子猫を、一人で捜索していたのだ。 


 床に四つん這いになって子猫を隙間から引っ張り出して抱き上げると、子猫は鼻をぴくぴくと動かしながら澄んだ瞳で振り返って、メリーヴェールのほっぺをぺろっと舐めた。くすぐったさに思わず身体を震わせながら、メリーヴェールは茶色の毛玉を肩に乗せた。


 「もう勝手にどこかへ行っちゃダメだよ、心配したんだから」


 自分も同じように思われているとは知らずに、半開きの目を少しだけ吊り上げてメリーヴェールは子猫に注意をした。子猫はわかった、というように小さく鳴いてから、肩からぴょんと跳び下りて、廊下をぴゅーっと走りだした。

 

 「こら! もう、わかってない!」

 慌ててメリーヴェールはあとを追う。廊下の突き当りを左に曲がると床が木目から絨毯に変わっていて、素早い子猫の姿はすでに見えなくなっていた。すると、頬をふくらませたメリーヴェールの耳に不思議な音が聞こえてきて、彼女は目をつむった。



 Erbarme dich, mein Gott,  

 Um meiner Zahren willen ; 


 Schaue hier, Herz und Auge  

 Weint vor dir bitterlich


 Erbarme dich, ernarme dich.



 荘厳な音色に合わせて歌われるもの悲しいメロディーの、聞きなれない言葉に耳を傾けながら、メリーヴェールは導かれるように足を向けた。まっすぐに進むと、一際重厚な両開きの扉が片方だけ開かれていて、その中から音が流れ出ていた。


 そこは聖堂の中枢である礼拝のための空間で、祭壇の近くの壁に備え付けられた壮大なパイプオルガンからその多彩な音色が奏でられていた。メリーヴェールは音に全身を包まれるような感覚を受けながらそっと歩み寄って、演奏台に向かって座る奏者の横顔を見た。


 水色の修道服に身を包んで、頭を覆うヴェールから美しい金色の髪が覗いている。三段に連なった鍵盤の上で流れるように動かしていた指を止めて演奏を終えると、少女は修道服の裾を持ち上げて頬に伝う涙をぬぐった。


   

 憐れみたまえ わが神よ

 滴り落つるわが涙のゆえに  


 此を見たまえ、心もまなこ

 御身の前にはげしくもだえ泣く


 我を憐れみたまえ 憐れみたまえ



 「なんですか? その詩は」

 秋彦はケータイの通話終了ボタンを押してからポケットにしまい、突如なにごとかを呟き出した副院長を眺めた。

 

 「この曲は、祈子がよく演奏していた曲だよ。マタイ受難曲の中で、ペテロの否認を歌ったアリアだ」

 

 秋彦は耳を澄ました。すると、身体の内に染み込むような、美しいけれど深い哀しみを感じさせる音色が建物中に鳴り響いている。


 「ペテロの否認というと……先ほどの歌詞はどういう意味なのですか?」


 副院長は演奏に聴き入るように瞼を閉じて、もう一度歌詞を繰り返して述べたあと、秋彦にその意味を教えた。

 「ペテロはイエスさまの一番初めの弟子だ。ペテロという名の意味するとおり、岩のように堅い信仰心を持った弟子だった。

 「しかし、イエスさまが捕らえられて狂ったように騒ぐ群衆の前に引きずり出されたとき、イエスさまの仲間として見咎とがめられたペテロは、人違いだ、仲間ではないと三度繰り返して否認をした。自分が生き延びるために、師であるイエスさまを見捨てたのだ。

 「その時、鶏が鳴いた。それをきっかけに、ペテロは数日前にイエスさまから聞かされた予言を思い出す。その予言は“鶏がなく直前に、おまえは私のことを知らないと三度否定するだろう”というものだった。

 「イエスさまは自分の裏切りを初めから知りながら非難することさえしなかった。号泣し、罪深き自分への憐れみを乞うペテロ。このアリアは、その時のペテロの心情を歌ったものだ」


 秋彦は頷いた。

 「神さまに憐れみを乞う歌なのですね。この曲は亡くなった祈子さんが生前よく演奏していた。同様に、彼女はこの時期になると古い礼拝堂に籠って熱心に祈りを捧げていた」


 秋彦は、硬い意思を感じさせる皺だらけの副院長の顔をじっと見つめる。

 「先ほど、署の者に調べさせていたことの結果が届きました。辻堂祈子さんの養母である、四十五年前に亡くなった先々代の院長の詳しい死因についてです。あなたは不幸な事故だったとおっしゃっていましたね……しかし、その事故を引き起こしてしまったのは祈子さんだった」


 過去の事故について決して詳しくは話そうとしなかった副院長は、知られたくなかったことを暴かれてしまったというように、初めて表情を変えた。


 「祈子さんは養母を死に至らしめてしまった自らの行為を悔いて、赦しを乞うていたのですね?」



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