その9
秋彦は口をぽかんと開けて、唖然として彼女が裏口から聖堂に入るのを眺めた。
日頃のある種近寄りがたい宝石のような高貴ささえ感じさせる彼女の立ち振る舞いからすれば先ほどの言動は信じられないものだったが、よくよく思い返してみれば、彼女のその美貌と卓越した推理力、大胆な行動力、神様のような尊大な態度を裏返してみれば、頭の良いただの子どものようにも受け取れる。普段は自尊心からか見栄を張って隠しているところ、今日はなんらかの理由で自制が効かなくなっているのだろうか。
まあ、誰に迷惑がかかる訳ではないし、それに結構可愛かったからいいものが見れたな――と秋彦は礼拝堂の前に立って考えた。写真を撮るだけの余裕がなかったのが今更ながら悔やまれる。
秋彦はふと、彼女が姿をくらました裏口の左側の煉瓦造りの壁に見慣れない道具が立て掛けられているのを見とめた。正式な名称は知らないが、木の棒の先端に、後ろ手に引いた時に地面と垂直に当たる角度で細長い木の板が取り付けられている。 高校生時代に入部していたテニス部の活動が終わったあとに、コートの土をならすために使った覚えがある。
変なものが置いてあるものだなと秋彦は思った。あの様子では椋露路は気が付いていないだろう。今は雪が積もっているが、天気のいい日には修道女がこの辺りで運動でもしているのかもしれない。
秋彦は身体が凍える前に考えを切り上げて、雪の上を歩いて聖堂の中へ入った。すると突然、女性の悲鳴が彼の耳に届いた。それも一人や二人ではなく大勢の修道女が驚愕して――もしくは恐怖のあまり叫び声を上げているのだ。嫌な予感がして秋彦は声のするほうに走った。
今回の事件は予め冷静に計画された殺人というのが秋彦の判断だった。物取りや感情的になって生じた衝動的な殺人ではなく、殺すことそれ自体を目的としたものだ。部屋に荒らされた様子はなく、被害者が抵抗した形跡がまったくないところからもそれがわかるし、顔見知りの犯行と断定できる。
犯人はこの修道院の中にいると考えていい。犯人の動機がわからない以上、第二第三の被害者が出ないとは限らないのだ。
「くそっ、後藤さんのいないこんな時に――」
秋彦の脳裏に、高校生の修道女とともに売店に残してきたメリーヴェールの姿が浮かんだ。前みたいに事件に巻き込まれたりしてなければいいのだが。
秋彦は廊下を右に曲がって、息を切らして、突き当りの壁に光を照らしている開け放たれた扉に頭を突っ込んだ。そこはとても広い部屋で、等間隔に並べられた机が空間を占領していた。焦げ臭い香りが、壁に手を当てて荒く息をする秋彦の鼻腔を突いた。
「メリーヴェールさん……!」
部屋の中央に人が集まって騒然としていた。その中の修道女の一人が、恐れおののいたように彼女の名を呼んだ。続けて、別の者が祈るように室内に声を響かせた。
「ああっ、神様……」
悪い予感が当たってしまった。まさか彼女の身になにかあったのか――秋彦は懐から拳銃を抜いて、顔面を蒼白にして姿勢を低く保ちながら人だかりに詰め寄った。修道女の背中に遮られてメリーヴェールの姿は確認できない。
両手で銃を構えながら視線を上げて、修道女の陰からそっと様子をうかがった。するとそこには、逃げられないように両側を挟まれて、変な形をした金属製の道具を両手に持たされたメリーヴェールがいた。エプロン姿で口元に白い物体を付けているが、彼女はぺろりと舌を出してそれを食べてしまった。
「メリーヴェールちゃん、もう一度」
メリーヴェールは頷いて、机の上に置かれた無塩バターに手を伸ばした。それを金属製のボウルに落として、二種類の白い粉を目分量で適当に加えた。なんてぞんざいな――修道女の悲鳴が響く。
彼女はぴくりと眉を動かしたが、一瞥もせずに電動のハンドミキサーで親の仇かという勢いでどろどろの液状になるまでそれをかき混ぜた。そんな乱暴な――なんでそれがあんなに美味しくなるの――という囁きを意に介さず、メリーヴェールはミキサーを置いて顔に付いた生地をつまんでぱくりと口に入れた。
「あ……」
彼女はちらりと机の隅にある卵に視線をやったが、見なかったことにして、こほんと咳払いをひとつして、かたわらの冷蔵庫から固まった生地を取り出した。修道女がごくりと唾を飲む音が聞こえる。秋彦は拳銃を片手に、一緒になって固唾を呑んで成り行きを見守った。
「これが、先ほどの生地を、固めたものだ」
先ほどの生地――という部分にイントネーションをおいて告げるメリーヴェールに
対し、異を唱えるものは誰もいなかった。それを良いことに、彼女は片腕で包丁を振り下ろして、固まった生地をざくざくと均等に長方形のブロックに変えていく。おお、すごいわ、まるで神技よ――今度は称賛の声が上がった。
メリーヴェールはこころなしか頬を染めて、爪楊枝で丁寧にブロックのひとつひとつに六つの穴を開けていく。ふう、と息をついて額をぬぐう仕草をしてみせてから、それをプレートの上にずらりと並べ、オーブンに入れてタイマーを回した。続けてミトンをして、別のオーブンの中から熱々のプレートを取り出す。
「これが完成品だ」
調理室にぱちぱちと拍手が響き渡った。両手を腰に当てて、自信満々に、さあ召し上がってみろと言わんばかりのえばり顔をするメリーヴェールの前に並べられた焼きたてのクッキーに、修道女たちが我先にと争って手を伸ばした。
「あちっ!」
前に立ちはだかる修道女を押しのけて一番乗りでクッキーを掴んで、秋彦は悲鳴を漏らした。




