その8
肩をいからせて立ち去る後藤の後ろ姿を見送って、秋彦と椋露路は礼拝堂の別室に入った。
遺体は運びだされていて、ベッドの汚れたマットレスの上に鑑識の張縄が丸く人型に輪を作っている。閉じられた窓の反対側の壁に設置された木製のマントルピースの中には燃えかけの薪が転がっていて、その上に写真立てが二つ置いてある。そのほかに部屋にあるものは、中央に机と椅子、透明の液体が入った水差し。隅に柱時計と本棚。床に転がった小さな聖母の石像だけだ。
「ここだけ時間が止まっているかのような、ずいぶん古めかしい部屋だね。清掃は綺麗にされているみたいだけれど」
部屋を見渡してから、椋露路が率直な感想を述べた。
「殺された院長――辻堂祈子はこの部屋を気に入っていたみたいで、毎日自分で掃除をしていたそうだよ。これは誰に聞いたんだったかな……そうだ、売店で会ったあの子たちだ」
椋露路はルーペを片手に持ってじっくりと部屋の中を観察していった。簡素な内装だが、調度品は長持ちをさせるためか比較的丈夫な素材が使われていて、振り子の柱時計以外はまだ現役として使えそうだった。柱時計の扉を開けて中を調べると、部品が完全に壊れてしまっていて修理は難しそうだ。
「この部屋の中で隠れることができそうなのはこの柱時計の中ぐらいだけれど、せいぜい子どもがなんとか入れるくらいの大きさだね。そもそも、遺体が発見されるまでの時間に姿が確認できなかった人物はいないんだろう?」
秋彦はおもむろに写真立てのひとつを手に取りながら、椋露路の質問に答えた。
「そのはずだけど……あとでまとめ役の修道女に確認してみるよ。高齢の副院長の代わりに被害者の様子を見にここまで来て、遺体を発見したのも彼女なんだ」
その写真には、修道院の入門者の門で不安げに眉をハの字に寄せて立っている小さな女の子と、手を繋いで優しく微笑んでいる中年の女性が写っていた。殺された辻堂院長と、おそらく彼女に引き取られて修道院に来たばかりの亜不鎖だ。目元に面影が残っている。
秋彦はもうひとつの写真立てに視線をやった。それはこの修道院とは別の場所で撮影されたもののようで、「福音の園」と書かれた表札がかかった建物の前で少女と若い女性が並んで写っていた。こちらは秋彦には誰だかわからない。
「そっちの写真は、君の持っているものよりもだいぶ古いみたいだね」
すぐ耳元で椋露路の声が聞こえて、秋彦の心臓はどきりと強く弾んだ。横を見ると、秋彦の肩越しに椋露路が写真を覗いていた。息がかかるほど近い距離に彼女の顔があって、秋彦はどぎまぎした。
「君、顔が赤いけど大丈夫かい?」
椋露路が古いほうの写真立てを左手に掴んで、秋彦を見て心配そうに首を傾げた。秋彦は顔がほんのりと熱くなっているのを自覚しながら、平静を装って応える。彼女から不意打ちを受けたのは一度や二度ではない。
「俺もちょっと風邪を引いたみたいだ。後藤さんに移されたかな」
「ええっ、僕とメルに移さないでおくれよ。もっと向こうに行っておくれ」
しっしっと手のひらで払われて、秋彦はすごすごと部屋の入口に移動した。誤魔化すための言い訳ではあるのだが、そういえばくしゃみが出るようになったのは彼女たちに雪玉をぶつけられてからだと秋彦は思い起こした。
写真立てをマントルピースの上に戻して、椋露路は四つん這いの姿勢で床を調べていった。目のやり場に困った秋彦は、心を無にするように心がけて彼女の調査が終わるまでその場にたたずんでいた。
「新しいへこみ傷がここにあるけど、おそらくはこの石像が落ちた時に付いた傷だね。これはなんていう名前の聖女なんだろう」
床に転がった石像を拾って椋露路が立ち上がった。石像は手垢がついていて、頭の端の欠けた部分を接着剤で修繕した跡が残っている。神妙な顔つきをして入口の前に立ちはだかっている秋彦に椋露路は視線を送る。
「それは聖テレジアだよ。被害者の信仰が厚くて、その石像も大事にしていたみたいだね。修道女たちにも模範にするように日頃から言い聞かせていたようだよ」
「そうかい。この部屋の調査は終わりだ。この事件の輪郭は大体掴めてきたよ。先ほど頼んだ調べ物の結果は、まだ届かないかな?」
秋彦がポケットからケータイを取り出して画面を確認し、首を振った。椋露路は両手をバンザイさせてぐぐっと身体を伸ばした。
「ふう、それじゃあ、その間に修道女に話を聞きに行こうか。副院長と第一発見者の修道女、亜不鎖っていう女の子に、司祭と助祭だね。それが終わって君のケータイに着信が来れば、この事件もむくろじっと解決さ」
秋彦は思わず顔をしかめて、宙を睨んだ。
「そのむくろじっと――って初めて聞いたけど、なにか意味があるんですか? 朱寧さん」
「決め台詞にしようかと思ったんだけど、どうかな? そうだ。どうせならポーズも考えないと……どんなのがいいかな。これはもう古いかな」
彼女はぶつぶつと呟きながら、腰に手を当てて、腰をきゅっとひねってから横ピースをしてウインクをした。
椋露路は久々に体感する、事件の真相に迫る高揚感に酔っているようだ。
醜態を晒す椋露路を秋彦は絶句して眺めた。今日の彼女は頭のネジがいくらか飛んでいるようだった。初めて見る髪型と服装に、中身まで別人のような彼の敬愛する探偵に、秋彦は嘆くべきか悲しむべきか判断がつかなかったが、とりあえずこの場から逃げ出したいと感じた。それとも、叩けば元に戻るだろうか。
「いたいっ! なにをするんだ、小林刑事!」
「正気に戻るんだ、朱寧さん」
自分がここから逃げ出したところで、彼女はひとりで踊り続けるかもしれない。そう考えた秋彦は心を鬼にする決心をした。しかし、その選択は裏目に出たようだった。
「…………くっ!」
椋露路は頭を押さえてぎりりと歯ぎしりをしてから秋彦を睨み、礼拝堂の正面玄関目掛けて駆け出した。秋彦は咄嗟に彼女の腕を掴もうとしたが、ひらりと躱されてしまった。
礼拝堂から跳び出した椋露路を追って外に出ると、雪の上をその俊足で駆け抜けていく彼女の小さな後ろ姿が確認できた。




