その7
資料館を出ると左手に聖母マリア像の後ろ姿と巡礼者用の礼拝堂が見えた。二人のすぐ右手には煉瓦塀が立ちふさがっていて、そこに小さな扉が取り付けられている。
「この奥が関係者しか立ち入ることができない禁域で、聖堂と講堂、事件のあった古い礼拝堂があるよ」
秋彦が扉を開けて門をくぐると、正面に同じ煉瓦造りの建物があった。通路の先に白塗りのアーチ状の玄関扉が設けられていて、その右側の丸みを帯びた壁の窪みに、剣と旗を抱いたジャンヌ・ダルクの像が飾られている。
「礼拝堂はこの建物の裏手だよ」
「すると、あれが講堂だね」
建物の壁に沿って回り込むように歩いて行くと、椋露路が左側に視線を向けて言った。そちらにも同じ作りの小さめの建物がある。秋彦は頷いた。
そのまま進んで聖堂の裏手に出ると、いくつもの足跡が裏口から出て雪の上に道を作っていた。二十メートルほど伸びたその先に、雪に囲まれてぽつりと礼拝堂がたたずんでいる。円柱状をした石造りの建物は頂点が尖っていて、その先端に十字架が立てられている。左側の壁が四角く突き出していて、そこからうっすらと漏れた明かりが降り落ちる雪を照らしていた。
正面玄関の傍に大きな木が一本だけ生えているほかは、周囲にはなにもない。椋露路は足を止めてしげしげと景色を観察した。
「あそこからここまで足跡を残さずに移動するのは無理そうだね。建物の裏はどうなってるんだい?」
「裏口から五メートルほど離れたところにコンクリートの壁があるよ。そちらにも足跡は付いてなかった。壁は登れる高さじゃないし」
椋露路はひとまず判断を下したように、軽く頷いた。
「だとすれば、やっぱり雪が積もる前に犯行が行われたと考えるのが自然だね。それじゃあ、中に入ろうか」
玄関前の雨よけの庇の下に立って雪を払ってから、二人は中に入った。使われていない礼拝堂はろくに掃除もされておらず、扉を開けると埃っぽい臭いが漂っていた。照明も使えないのか、薄暗い堂内に天井にはめ込まれた長方形の窓から白く朧げな光が注いでいる。
古ぼけた絨毯が礼拝堂の中央を横切るように敷かれていて、その両側には長椅子が整然と並べられている。祭壇の上に十字架に吊るされたキリストが掲げられて、その横には幼いイエスを抱く聖母マリアの像があった。
別室へ繋がる扉が半開きになって、明かりが漏れている。下半身を照らされて長椅子に身体を横たえていた人物が、ゆっくりと上体を起こした。
「おお、戻って来たか小林。遅かったじゃねえか」
髪の毛を乱雑に後ろに撫で付けて無精髭を生やした中年の男が、しかめ面をして言った。
「後藤さん。こんなところで寝ていたら風邪引きますよ……ほら、やっぱり」
後藤英憲が馬鹿でかい音を立ててくしゃみをして、秋彦は苦笑いを浮かべた。この男は秋彦の上司で、今回の事件の指揮を取っている。秋彦に椋露路に協力を求める許可を出して、その間聴き込みをしておくと提案したのは後藤本人だ。
「このくらいで風邪なんか引くかよ……ハックション! ホトケの気持ちを考えてたんだ。この寒い中毛布一枚でなにを祈っていたのか。だが、さっぱりわからん!」
秋彦は上司に椋露路のことを簡単に紹介した。実際に顔を合わせるのは初めてのはずだが、椋露路のことは署内でも色々と話題に上がっている。
「聞き込みの結果はどうでしたか?」
突然、後藤に腹を殴られて秋彦は悶絶した。
「下っ端が上司に聞き込みをさせて自分は女とドライブなんて、出世できんぞ」
「聞き込みをするっていうのは、後藤さんが言ったことじゃないですか!」
完全に不意を突かれた秋彦は咳き込みながらお腹を押さえて抗議したが、後藤はそんな秋彦を見て愉快そうに唇を歪めるだけでなにも言わなかった。
「そうだ。先ほど鑑識から連絡があってな。死因と薬の種類がはっきりしたぞ。死因は低体温症によるもので、つまり凍死だった。ホトケが飲んでいた睡眠導入剤はベンゾジアゼピン系のもので、服用していた量からして効果が出るまで一時間前後だ」
後藤は早口に言って手帳をぱたんと閉じると、微笑を浮かべてじろりと椋露路に視線をやった。
「なにかわかったかい? 警視庁お墨付きの美人探偵さん」
挑発的な口調を意に介さずに、椋露路は平然として答えた。
「そうだね……現場を見て関係者に聴き込みをしてからでないとなんとも言えないけれど、この事件を解く鍵は、消えない足跡にあると思うよ」
「消えない足跡……一体なんのことだ?」
後藤は意味がわからないといったふうに眉を寄せて秋彦を見た。秋彦は困ったように視線を泳がせて右手で頬を掻く。
「まあいい。期待してるぞ。俺は遅い昼飯を食ってくるから、なにかあったら連絡しろ」
椅子から立ち上がって秋彦の肩を叩き、椋露路を一瞥すると、後藤はくしゃみを礼拝堂に響かせて姿を消した。




