その3
「ちょっと、そこに座って」
メリーヴェールが言うと、椋露路は促されるままへらへらと笑いながらリビングのソファに座った。
向かい側に腰掛けて、少し考えたあと、メリーヴェールは口を開いた。
「朱寧、最近あなたはたるみ過ぎだよ。それでいいの?」
お説教タイムと知って、椋露路は露骨に顔をしかめた。足を組んでから机の上のパイプに火をつけて口に入れ、ふうと煙を吐き出す。
「しかしね、メル、君はそう言うけれど、生活するだけの金はあるんだ。それにね、これが重大な点なのだけれど、僕は今、これっぽっちも仕事をしたくないんだ」
そんな開き直ったような椋露路に、あくまで穏やかに、メリーヴェールは語りかける。子猫はメリーヴェールの頭の上にちょこんと落ち着いて、眠そうな目で椋露路を見つめている。
「犯罪を未然に防ぐという、あなたの立派な信念はどこへ行ったの」
椋露路はつんと取り澄ました表情で反論をする。
「それは……でも、依頼が来ないんだから仕様がないだろう。僕だって、仕事があればしゃんとするさ。
「実際、先々月から山のように来た、くだらない浮気調査の依頼もしっかりこなしたじゃないか。まったく、毎年のこととはいえ、クリスマスにかけていちゃいちゃと不埒な行為に及ぶカップルを、隠れて撮影する僕の身にもなっておくれよ」
たしかに、椋露路が精神に異常をきたしたのは、十二月中旬から翌月にかけての連日の張り込みが原因なのは明らかだった。というか、毎年この時期になると彼女の精神が不安定になるのはメリーヴェールも知っている。
「それはお気の毒だけど……」
「だろう? 発狂しないだけましさ」
しかし、メリーヴェールは腑に落ちないことがあるのだった。先週辺りから、椋露路が不審な行動を取るようになったのだ。彼女はそれを問いただした。
「それにしたって、最近の朱寧はおかしいよ。すぐに私の服を脱がせようとするし、一緒にお風呂に入りたがるし、その髪型だって。さては、夜中にこそこそと読んでる本の影響だね? そこに隠してあるのはわかってるんだ」
メリーヴェールはすっくと立ち上がって、赤い髪を揺らしながら、秘密の隠し場所へ歩み寄った。
「ああっ! 待ってくれ!」
叫ぶや否や、椋露路は慌ててソファから降りて、パイプを咥えたまま四つん這いの姿勢で走り寄ってから、頭から倒れ込んでメリーヴェールの腕を掴んだ。その際、彼女は顎を床にしたたかに打った。
「ぼ、ぼくが悪かった! たまたま手に取って読んでみただけなんだ。それに、君があまりに可愛いものだから、つい魔が差したんだ……それだけなんだ。許してやってくれ……」
両目に大粒の涙を浮かべて、嗚咽を漏らしながら、椋露路はうつ伏せになって懇願した。メリーヴェールはそんな彼女の必死すぎる対応を見て、ぽかんと口を開けた。
「泣いて頼むほどのことなの? 見るのが怖くなってきた」
涙で床を濡らして、彼女はこくりと頷く。
「僕と君の友情にかかわる、非常にデリケートな問題だ。もしかしたら、僕らの関係が更に深まる可能性もあるけれど……ほんの一時の気の迷いなんだ。どうか見逃してくれたまえ」
ぼろぼろになった椋露路を見て、メリーヴェールはちくりと自責の念を感じた。彼女とてここまで追い詰めるつもりはなかったのだ。むしろ、こんな状態になるまで気づけなかった自分を恥ずかしく感じた。
「じゃあ、ちゃんとしてくれるね」
その言葉を聞いて、椋露路は顔を輝かせた。
「もちろん!」
くるりと反転してメリーヴェールがソファに座るところを目で追って、椋露路は立ち上がった。床に落ちたパイプを拾う。
「君の言うとおり、僕はどうかしていたよ。しかし、これですっかり目が覚めたから、安心しておくれ」
すると、事務所の電話が鳴って、メリーヴェールがリビングの隅に移動して、そこに置かれた受話器を取った。その隙に、椋露路は本棚に置かれた分厚い加除式の専門書を取り出して、ページの隙間に挟んだ一冊の本を手に取った。
メリーヴェールの背中をちらりと見てから、その本を両手に抱え、椋露路は駆け足で自分の部屋に戻っていった。




