その1
少女は荒々しく息をして、生々しい感触が残る手のひらを開き、掴んでいた物を離した。
ごとりと鈍い音を立てて、少女の手から聖母を形どった石像が床に落ちる。転がったその聖テレジアの横顔を暖炉の火が赤く照らした。
聖テレジア――幼きイエスのテレーズ。小さき花のテレジア。幼き日に母を病気で亡くし、三人の姉のあとを追って望んで修道女になった彼女。小さき道を示し、幼児の心をもってイエス様に愛を捧げ二十四歳で亡くなったテレジアの生き方は、常に少女の模範だった。
「母さま……」
少女は、その足元に倒れて身動きひとつしない養母を見つめた。もう後戻りはできない。初めから道はひとつしかなかったんだ。少女は自分にそう言い聞かせた。
テレジアの歩んだ、小さき道――それは、霊的な子どもの道。信頼と、完全に自分を神さまに任せる道。養母は少女に厳しくその道を歩ませようとした。しかし、その道は少女には窮屈すぎた。
終生請願を立てた時には、少女は小さき道に疑いを抱いてはいなかった。しかし身を包む黒いヴェールと修道服は、今の少女にとってまるで喪服だ。
室内に時計が時を刻む音が静かに響く。聖テレジアの赤く染まった顔が、少女には怒りに歪んでいるように見えた。
これから少女の前にあるのは獣の道。母に背いて、神に背いて、この身を獣に落としたとしても、あの人と一緒なら歩んでいける。花に例えるとすれば、少女は今まさに蕾が開いて、わが世の春を謳歌しようという年頃だった。
ぱちっと音を立てて薪が爆ぜた。謙虚に生きることが嫌なのではない。少女はただ、神にではなく、愛する人にその身を捧げたいと願った。それは、養母の言うようにそんなに悪いことだったのだろうか。少女がどんなに心から訴えても、養母は修道院から出ることを許してはくれなかった。
少女はマントルピースの上に置かれた写真立てに視線をやった。まだほんの幼い頃の少女と、優しく目を細める養母の写真が大事そうに飾られている。養母は修道院長の身にふさわしく、とても慈悲深い人だった。この人に引き取られていなかったら、少女は今頃どうなっていただろうか。
そう思って、少女の頬に涙がつたった。
もう決めたことなのだ。いや、今さら後戻りはできない。修道服の袖で涙を拭って、少女はゆっくりと室内を見渡した。贅沢品はないが、温かみのあるこの部屋を養母は気に入っていた。暖炉の火は小さな部屋を十分に暖めていて、木製の机と椅子、窓際に簡素なベッド、部屋にひとつの振り子時計、小さな本棚とクローゼット。マントルピースの上の写真。この部屋にあるのはこれだけだ。
少女は机に置かれた水差しを手に取って、倒れた養母に飲ませた。意識はないが、このまま安静にしていれば回復するだろう。少女は修道服のポケットから薬を取り出して養母に飲ませた。多少予定は狂ったけど、これで計画どおり時間を稼ぐことができる。
水差しを机に戻して、少女はふと、ベッドの上にある壁窓に目を留めた。白い光がぼんやりとカーテンのレース越しに漏れている。
ゆっくりと近づいて少女は窓を開け放った。すると、冷たい風が勢いよく吹き込んで、少女の顔を濡らした。
「そんな……」
少女は部屋を出て、静謐とした無人の礼拝堂を駆け抜けて、正面玄関の扉を開いた。すると、不意に広がった真っ白な景色が、少女の視界を覆った。修道女の生活する聖堂の輪郭が、振りすさぶ雪の中に微かに灰色の線を引いていた。
地面にはすでに分厚く雪が積もっていて、彼女の道を塞いでいる。これでは、どこにも行くことはできない。
神さまはどこまで私たちを――少女は唇を噛んで、首に下げたロザリオを乱暴に握りしめた。先ほどよりも熱く激しい涙を瞳から流しながら、少女は打ちつける吹雪の中その場に立ち尽くした。




