その9
刺すような日差しの降り注ぐ、ある日の午後。小林秋彦は丁寧に細工が施された小箱をしっかりと脇に抱え、青々とした立派なイチョウ並木を抜けて赤茶色の煉瓦造りの建物の前に立ち、呼び鈴を押した。
すると、彼を出迎えたメリーヴェールが玄関の上がり框に立って、じっと彼を見上げる。いつもなら扉を開けてすぐに引き返してしまうのに、今日は様子が違う。
「やあ、メルさん」
勝手の違いに戸惑いを見せつつ、秋彦は笑顔で挨拶をした。すると彼女は、開きかけた唇を結んでから微かに眉を寄せて、彼に向かって片手を上げて、踵を返して廊下の奥へ早足で歩いていった。
秋彦は靴をスリッパに履き替えて、彼女のきらきらと燃えるような赤毛をいつもどおりに追った。すると、甘い香りの煙が充満した部屋のその煙の中心に、椋露路朱寧が小型のパイプを咥えて、目をつむってソファに身を沈めていた。
彼女は考え事をしているふうだったが、秋彦の姿を認めると煙の立ち昇るパイプを机に置いて、瞳を輝かせて彼を出迎えた。椋露路は老婆の格好ではなく、薔薇色のドレスをすっかり着こなして、普段どおりの彼女だ。
「捜査に協力してくれてありがとう」
秋彦はその麗人に、抱えていた小箱を差し出した。椋露路がそれを受け取って蓋を開けると、箱の中で巨大な宝石がきらりと輝いた。
「おや、もしかしたら、プロポーズでもされるのかしら」
椋露路は微笑みながら、そのような、返答に困ることを言った。
秋彦がすぐには応えられずに言葉を探していると、彼女は彼を見て面白そうに目を細めた。
「この宝石を贈られたら、断る女性はそうはいないと思うよ」
秋彦は椋露路のこの台詞を聞いて思わず苦笑した。第一に、この宝石は秋彦の所有物ではないため贈り物にはできないということ。第二に、椋露路朱寧はそれらの女性の中に含まれないということだ。
そんな秋彦の心の動きを読み取って、またもや、椋露路は捉えどころのないことを言う。
「僕だって、数十億円の価値のあるこのエメラルドと一緒に甘い言葉を贈られたら、きっと心を奪われてしまうよ」
秋彦はなぜか、その言葉を否定したい衝動に駆られた。けれど、椋露路が面白そうに彼を眺める視線に気づき、思いとどまった。
「残念だけど、俺の物ではないから」
秋彦は彼女に逆らわずに無難な答えを返して、ちょっとした拷問のようなこの問答を終わらせた。
「ちぇっ! それはまことに残念だよ!」
椋露路は宝石箱をぱたんと閉じて、乱暴にぽいっとソファに放り投げた。
秋彦はソファに座って椋露路の姿を眺める。そういえば、宝石の定義とは大きく分けて三つだという。一つは、美しいこと。二つは、希少であること。三つは、耐久性のあること――だとすると、椋露路朱寧とは宝石のような女だ。
「それで、そちらのほうは上手くいったみたいだね?」
彼女の声を聞いて、秋彦はとりとめのない考えを切り上げて、向かい合った椋露路の瞳を見た。もしくは、薔薇だろうか――鮮やかな赤に、芳しい香り。そして外敵から身を守るための棘。緑豊かなこの街に咲く一輪の薔薇。
「小林刑事、聞いてるかい?」
「うん。朱寧さんが証拠品を貸してくれたこともあって、令状を取って村全体を捜索したよ。その結果、盗まれた美術品の数々が村長の家の裏にある蔵の中から見つかった。それに、数え切れない死体が……そのほとんどは骨だけだったけど、冷蔵庫の中に積まれていた」
椋露路は瞼を閉じて、黙って頷いた。
「僕が宝石を取り返せたのは、君たちが囮になってくれていたおかげだ。捜査に協力するのは当然だよ。無事に盗まれた宝石も戻ってきたし、これで依頼人に満足のいく報告ができる」
今回の事件は驚くべきことに――島のすべての住民が、村長を首謀者として行われていた凶悪な犯罪行為を知っていた。しかし、盗品を密売することを生活の糧にしていた島の住民たちは、それに間接的に加担もしくは黙認していたのだ。怪盗の正体は、美倉島村そのものだった。
「でも、どうしてもわからないことがあるんだ」
秋彦には事件の全容が明らかになった今でも、答えの出せないことがあった。それは、静まり返っていた猛犬どもと、暗闇の中で遭遇した人面犬の正体だ。
「それは、気にするまでもないことだよ、小林刑事。犬は僕が眠らせていたんだ。薬入りのペットフードを食べさせてね。僕はその隙に屋敷の中を調べていたんだ」
「それじゃ、人面犬は?」
秋彦が尋ねると、彼女にしては珍しくうつむいて、そわそわと身体を揺らしながら告げた。
「馬鹿馬鹿しい……君は子どもか、小林刑事? 人の顔をした犬なぞいるわけがないだろう」
秋彦は椋露路のこの言い方に、つい腹が立った。おかしなことを言っているのは彼も理解している。しかし、彼女ならこの謎を解いてくれるかもしれないと思ったのだ。
「すると、あれは見間違いだったんだな……」
「それ以外考えられないよ」
椋露路は安堵したように、静かに息を吐いた。
そうとわかれば、秋彦は肩の荷が下りた気分だった。ずっとそのことが心に引っかかっていたのだ。だって、あの人面犬の顔ときたら――
「きっと、俺の不安が幻覚を見せたんだな。それなら納得できるよ。だって、その人面犬、朱寧さんの顔をしていたんだよ。まったくおかしな――」
突然、椋露路の顔が真っ青になったかと思えば、今度は頬を赤く染めて、彼女は声を張り上げた。
「ば、馬鹿ものっ!」
秋彦は吃驚した。言い方もそうだが、椋露路朱寧がこれほど取り乱したところは見たことがなかった。どんな状況に置かれても冷静沈着に物事を進めるのが秋彦の知っている彼女だった。それが今は、真っ赤になって、歯を食いしばって――まるで、恥ずかしい姿を見られてしまった乙女のようだ。
「こほん。そのような出鱈目を、外で吹聴してもらっては困るよ。小林刑事」
椋露路は平静を取り繕って、震える手でパイプをふかした。
「も、もちろん、朱寧さんがそう言うなら誰にも話さないよ」
秋彦のこの言葉を聞いて、ようやく落ち着きを取り戻した椋露路の前に、メリーヴェールが紅茶を運んできた。その顔にはにやにや笑いを浮かべている。椋露路は不愉快そうに、その小さな助手に一瞥をくれる。
ここに至ってようやく秋彦は気がついた。なるほど、安楽椅子に座って頭を働かせるだけが探偵の仕事ではないということか。時には変装をして、人の目や犬の鼻を欺くことも必要ということだ。
「メル。君は、小林刑事に言うことがあるんじゃあないのかい? 君の悪戯のせいで、彼は大変な目に遭ったんだから」
秋彦は首を傾げた。一体、なんの話だろうか。
机にカップを並べてくるりと踵を返したメリーヴェールの小さな腕を、椋露路がぱしりと掴んだ。助手は力一杯足を踏ん張って、隣の部屋に避難しようとするが、勝敗は明らかだった。
やがて、観念して息を切らしながら、メリーヴェールは秋彦のほうを向いた。絶対に目を合わそうとしないところに、彼女の意地が感じられた。
「チョコをぶつけて悪かった。でも、あれくらいで気絶するなんて、どうかしてる」
彼女は頑として、秋彦と目を合わそうとはしなかった。




