その7
秋彦は不用意に柵を乗り越えたことを後悔していた。前回は犬の気配がなかったからといって、今回も同じだと考えるべきではなかった。耳を傾ければ門の前からでも、藪の中を駆け回る足音や荒々しい息遣いが聞こえたはずなのだ。
しかし、そんな後悔はなんの役にも立たない。今彼に必要なのは、薄闇の中で襲いかかる猛犬どもから身を守る知恵と機転だった。
犬の数はおそらく四匹。樹の幹に背中を預けた秋彦を正面から取り囲むようにして草陰に身を潜ませている。野生のやり方だ――それも狩り慣れている。跳びかかって来ないのは、こちらに武器があるからだ。
秋彦はポケットから取り出したリヴォルヴァを右手に持って、絶体絶命の状況で生き残るために頭を働かせた。
この暗闇の中、連射に向かないリヴォルヴァ一丁では太刀打ちできない。一斉にかかってこられたら万事休す。しかし、いつそうなってもおかしくない。犬とは利口な生き物だ。逃げ場を絶って慎重に機をうかがっている。
秋彦はちらりと足元に視線をやった。丈夫そうな木の枝が落ちている。背中を預けている樹は高さがあり、取っ掛かりはなかったため登れそうにない。
どうする――はっきり言って、勝ち目はない。逃げ切れる望みもない。この犬どもに背中を向けた時はそれが最期だ。
どうすればいい――秋彦の答えを待つ間もなく、左端の一匹が唸り声を上げて秋彦に跳びかかった。
秋彦は無意識に右腕を動かして照準を合わせ、引き金を引いた――銃声。かん高い犬の悲鳴。命中したようだ。すぐに撃鉄を起こす。
すぐにその隣の犬が――いや、三匹同時に襲いかかる。それを認識するが早いか、秋彦は左に開いた空間に頭から飛び込んだ。
逃げるべきか――秋彦は考えた。駄目だ、この距離を追いつかれずに柵をよじ登る時間はない。秋彦は急いで後方の一匹に照準を合わせて、引き金を引いた。銃声が虚しく響く。
外した――
振り向いた一匹と目が合って、秋彦の頭の中は真っ白になった。
牙を剥いて跳びかかったそいつの、涎で溢れた口の中を見上げながら、秋彦は仰向けに倒れた。咄嗟に左手で掴んだ木の枝を目前に差し出して、それに喰らいついた猛犬を呆然と眺める。強烈な臭いを放つ液体がぽつぽつと秋彦の身体に落ちた。
力の限りそいつを蹴飛ばして、秋彦は全力で門に向かって走った。彼に残された手段はもうそれしかなかった。
時間にして一秒に満たなかっただろうが、秋彦は背後に迫り来る足音と乱暴な息遣いを聞きながら、前方に人影を見た。銃口を秋彦に向けて――一本木が立っていた。
立て続けに銃声が四発響いた。その銃弾はすべて、闇に消えた。
「動くなよ……動くと当たるぞ」
一本木は、腰を抜かした秋彦に告げた。犬どもは銃声に立ち止まり、秋彦のすぐ後ろで唸り声をあげている。
「動くなよ、あっきー」
その言葉を聞きながら、秋彦はとてつもない違和感に捕らわれていた。なんだろう、この違和感は――一本木の左手を見て、彼はその正体に気づいた。
一本木の構えた拳銃の銃口が、ぴたりと秋彦の眉間に向いているのだ。
「大丈夫だ。うち、狙った的には絶対に当たらねぇから」
そう言って、一本木は躊躇なく引き金を引いた。銃弾は、秋彦の髪をかすって闇に消えた。
「数撃ちゃ当たるってね!」
彼女は七発の弾丸を放った。
そのうち一発が犬に当たり、三発が秋彦の頬に紅く筋を刻んだ。
一本木は空の弾倉を投げ捨て、新しいものを装着した。
そして、更に十三発の銃声が響いた。
秋彦は銃弾が空気を引き裂く音を聞いた。その音は死神の笑い声に似ていた。弾丸の一発は犬に命中した。
一本木は弾倉を取り替えて――
撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ!
犬が倒れても一本木の銃撃は止まらなかった。
そして秋彦は奇跡的に、弾丸の嵐から生還した。