その1
東京都府中市緑町――京王線東府中駅前の交差点を渡ると、北に向かって三百メートルほどのイチョウ並木が続いている。
年季の入った定食屋や改装したばかりのカフェ。洒落た外観のバーが建ち並ぶ並木道を抜けて左に曲がったところに、赤茶色の煉瓦で覆われた建物がある。全体的に古風な印象を漂わせているが、外壁は綺麗に整備され、木製の扉の横に比較的新しい表札が掛かっている。
『メリーヴェール探偵事務所』
雨の日の早朝、人影もまだまばらな時間に扉の前にたたずむ女性の姿があった。顔は青ざめていて、なにかひどく良くないことが彼女の身に降りかかっていて、今にも押しつぶそうとしていることが容易に見て取れた。彼女は躊躇している様子だったが、すらりとした白い手が扉の横に伸びて呼び鈴を押した。
指を離すと、建物内にチャイムが鳴り響いた。女性は庇の下で傘をたたんでから、先端を石段に突いた。ぽたぽたと水滴がつたい落ちる。
探偵を尋ねるのは女性にとって初めての経験だった。この場所を紹介した友人の話によれば、変わり者が多いという世間一般の認識に外れず、この事務所の主も奇人変人の類らしかった。しかし、腕は確かだという。
女性は開かない扉の前で立ち尽くして、もう一度表札に目をやった。メリーヴェール――というのはなにかの名前だろうか。どこかで読んだ古い推理小説にそれと似た名前の探偵が登場した記憶がある。
女性は事務所が開くまでそこにいるつもりなのか、その場にしゃがみこんでぼんやりと景色を眺めた。すると、いきなり扉が開いて、燃えるような赤色の髪をしたとても可愛らしい女の子が姿を見せた。しかし扉を開けると、幾分眠そうな、不機嫌そうな顔をして何も言わずに家の奥へ引っ込んでしまった。
「あっ、あのう――」
女性は女の子の赤毛を目で追いながら、どうして良いのかわからない様子で、建物の奥に向かっておそるおそる声を掛けた。
「どうぞお入りください」
おそらくは先ほどの女の子とは別の女性のものと思われる声が、廊下の向こう半分開いた扉を抜けて聞こえてきた。
傘を壁に立て掛けて靴紐を解き、揃えてあったスリッパを履くと、女性は相変わらず青ざめた表情のまま、壁に手を当ててゆっくりと廊下を進んでいった。
「いらっしゃい」
中世の可憐な女騎士を思わせる凛とした顔立ちの、美しい人物が改めて彼女を出迎えた。色白で細身で、フリルの付いたドレスを着こなしている。その中性的な顔に見せる花が咲くような笑顔は向けられた人の警戒心を無条件に解く不思議な魔力が感じられた。
「おや、具合が優れない様子ですね。そこのソファに腰掛けて。すぐに温かい紅茶と甘いお菓子を用意します。メル、君のお気に入りのやつを持ってきてちょうだい」
すぐに赤毛の女の子が、隣の部屋から頬をもぐもぐと動かしながら、紅茶の入ったティーカップを二つとファッジが盛られた小皿を運んできた。それらを机に並べると、なにも言わずにさっさと引き返した。
「あの子は僕の助手で、メリーヴェールといいます。無愛想だけど楽器の演奏は達者で美味しい紅茶をいれてくれます。僕は探偵の椋露路朱寧です」
女性は促されるままソファに腰掛け、口を開いた。
「こんな朝早く、突然押しかけてしまってすみません。でも、どうしてもお願いしたいことがあって、じっとして居られなかったんです」
「いやあ、構いませんよ。僕もメルも朝は早いんです。さあ、まずは紅茶を一口とそこの砂糖の塊をひとつ摘んで、それから話を聞かせてください」
女性は椋露路に勧められたとおりにカップを口元へ運びメープルファッジを一つ頬張ると、幾分落ち着いた様子になった。
「それじゃあ、まずはお名前からうかがえますでしょうか?」
「わたし、花門莉紗と申します。こちらへうかがったのは一昨日から行方が分からない兄――和十を探して頂きたくて、昨夜友人から椋露路さんの噂を聞いたものですから、夜が明けるのを待ってこちらへ参りました」
「お兄さんが行方不明……失礼ですが、莉紗さんの様子から察するにもっと窮迫した事情があるように見受けられたのですが、それだけですか?」
それだけ――という椋露路の言い回しに若干戸惑いを見せつつ、莉紗は首を振った。
「実は……」
彼女は唾を飲み込んで、机に置かれたティーカップをじっと見つめた。言葉の続きを口にするのをひどくためらっている様子だ。ソファの上で身体を縮め、胸を上下させる。椋露路はなにも言わずに彼女を見守った。
「兄は……兄は、多分人を殺してしまったと思うのです」
しばらくして、彼女は白く細い拳を膝の上で握りしめて、意を決したようにその言葉を放った。椋露路は驚いた様子を見せずに微笑みを浮かべて、そのまま彼女の息が整うのを待った。
「なぜ、お兄さんが人を殺してしまったと思うのですか?」
椋露路は相槌を打ちつつ、莉紗の話が止まった時には質問をしながら要点を聴き取っていった。
「一週間ほど前から、兄の様子がおかしかったのです。家族の前ではいつもどおりに振る舞うのですが、自分の部屋に篭ると落ち着きなく部屋中を歩き回って足音を立てたり、興奮して一人で声を荒らげたり。
「普段は物静かな兄なので、気になって聞き耳を立てていたんです。私の部屋は兄の隣でしたので……そしたら、越野司を殺してやるって兄の声がはっきり聞き取れました。決意を込めたような声で、とても冗談に聞こえませんでした」
「それで?」
「何日かそのようなことが続きました。私は兄の様子が不安でしたが相談できる相手もいなくて……そしたら、一昨日の真夜中過ぎに、玄関の扉が開く音に目が覚めて部屋から出ると、兄がどこからか帰ってきたところでした。
「全身黒尽くめの格好をしてひどく興奮している様子で、その時の兄の顔は言いようもなく恐ろしく感じました。兄は私が見ていることに気付かずに自分の部屋に入ったので、私はおそるおそるドアの隙間から部屋の中を覗きました。すると、兄は上着のポケットから拳銃を取り出して机の上に置いたんです」
「なるほど、お兄さんが行方不明になったのも一昨日のことでしたね」
「そうです……私はそのあと、恐ろしくなって布団を被りました。一時間ほど経ったと思うのですが、兄が再度こっそり家を出て行く気配を感じました。それっきり帰ってきません」
「ふうむ。しかし、お兄さんが口にした越野司という名前の人が殺されたなんていうニュースは耳にしませんね」
莉紗は頷いた。
「でも、兄が消えたあとで銃殺死体が見つかったとテレビで流れているのを見て、兄がやったのではないかと気が気じゃなくて」
「警察には今の話をしましたか?」
「いえ……わけが分からなくて、兄は行方不明だし、とにかく早く兄を見つけたいんです」
莉紗の話を聴き終わると、椋露路はおもむろに立ち上がって窓から外を見やった。人気のない道路にしとしとと雨が降り続いている。
「わかりました、越野司さんに会ってみましょう。お兄さんの行方を知っているかもしれない……その間に、メル、君に夢中の例の刑事から、一昨日の銃殺事件について詳しい情報を聞いておいておくれ」
椋露路が隣の部屋に声をかけると、返事に代わってチョコレートファッジが一粒飛んできた。