その5
翌日、受付の看護婦――胸元のネームプレートによれば松崎に笑顔で送り出され、秋彦は診療所の扉を開けた。すでに時間は正午近くなっていて、太陽が鋭くぎらついている。
「なんか、久々に太陽の光を浴びたような気がするな」
秋彦は美倉荘に向かった。一本木が診療所まで迎えに来る予定だったのだが、彼女になにかあったのか、この時間になっても姿を見せなかった。
秋彦も昨日のことがよほど精神に堪えていたようで、半日近くも気を失っていたにもかかわらず、よく寝てしまった。おかげで頭痛も消え、体調はすっかり回復している。
軽く身体の筋を伸ばしながら歩いていくと、分かれ道に着いた。ここを東に行けば美倉荘だ。しかし、道の先から、秋彦のほうに向かってくる一本木の姿が見えた。
「おお、あっきーじゃん」
彼女は怠そうに言って、かったるそうに手を振った。
「一本木さん。遅かったですね」
「宿泊客と村民に聴き込みしてたんだ。大した情報はなかったけどな」
聴き込みをしていたという言葉の真偽の程はともかくとして、この上司も一応はやる気になっているようだ。
秋彦がふと、一本木の後方に視線をやると、小さく人影が見えた。それを確認して、突然秋彦は駆け出した。
一本木も後ろを振り返って秋彦の意図を察知すると、すぐに彼に追いついた。
「あれが、お前の話してた、パイズリーおばさんか!?」
「そう……え!? いや、ペイズリーおばさんです!」
そのネーミングもどうかと思ったが、秋彦はとにかく問題点を正した。
間違いない――昨日、森の中で秋彦に嘘の道を教えた、薄汚い格好をした老婆だ。同じ格好をして、美倉荘の裏へ向かって歩いているところだった。
老婆は走り寄る秋彦たちの存在に気づき、踵を返して逃走を始めた。秋彦と一本木は全速力であとを追う。しかし、逆にじりじりと距離がひらいていく。
「くっ、なんつー足の速さだ、あのババア! 妖怪か! よーし……」
一本木はおもむろにポーチから自動拳銃を取り出し、全力で脚を動かしながら、前方を疾走する婆さんに銃口を向けた。
どうする気だ――秋彦がそれを怪訝そうに見た。まさか、いくらこの上司でも、怪しい格好をして逃げたという理由で発砲をするなどということはあり得ない。そんなことをしたら、クビになるだけでは到底済まない。
さては、止まらなければ撃つ、というはったりをかますつもりだろうか。しかし、そんなはったり小学生相手でも通用しない。
一体どうする気だ――すると、一本木は狙いを澄まし、撃った!
P2000はダブルアクションをし、その銃口からきりもみ状に弾丸が飛び出した。切り裂くような発砲音がのどかな里に響く。
凶弾はペイズリーおばさんの踏み出した足、そのすれすれに着弾した。
婆さんは走りながら後ろを振り返って、ぎょっとした表情を浮かべる――そりゃそうだ!
一本木は、撃つ! 撃つ! 撃つ! 撃つ!
「ちょ、ちょっ! 何してんだあんた!」
秋彦は叫んだ。
「大丈夫だ!」
一本木は銃をかざして引き金を引きながら、落ち着いた声で秋彦を安心させるように言った。
「大丈夫なことなどひとつもない!」
すると、今のところ奇跡的に被弾を免れている老婆は、上半身を後ろにひねり、どこから取り出したのか、拳銃を一本木に向けて撃ち返してきた。
突如始まった銃撃戦!
老婆は速度を落とさずに、撃つ、撃つ、撃つ、避ける! くるりと跳び上がって回転しながら、撃つ!
サングラスの下の老婆の視線が、ぎらりと光った。
「あのババアッ! いい腕してやがるぜっ! 見事な攻防一体技だ!」
一本木がそれに負けじと応戦する。
なんだこりゃあ! ――秋彦は思った。一体なにがどうなればこんなことになるんだ。彼にできるのは、手に汗を握ってこの追走撃を観戦することだけだった。
無我夢中で三百メートルくらい走っただろうか。老婆は里の西側に建っている大きめの住宅の敷地に入って、建物の裏側へ回った。
さすがに流れ弾が住民に当たるとまずいと思ったのか、一本木は舌打ちをして銃撃を中断した。すかさず老婆を追って、飢えた猟犬のような表情で秋彦の前を駆け抜けていった。
秋彦は建物の壁に手を突いて、息を整えた。一本木はともかく、あの老婆もすごい体力だ。銃の腕も確かで、二人に当たらないよう狙いをつけて射撃をしていたのは間違いなかった。
しかし、あの上司は……このまま野放しにしておいたらいつか取り返しのつかない事態を引き起こすぞ。帰ったら今の暴挙を課長に報告して、しかるべく対処をしてもらわなくては。
一本木と老婆がいなくなると、周囲は急に静かになった。ここは、里のどの辺りなんだろう。
秋彦が路地に出ると、隣の建物から村人たちの話し声が聞こえてきた。石壁に視界を遮られて中は見えないが、村人が集まってなにか作業をしているようだ。
「ちょうど良かった、道を教えてもらおう」
これ以上、一本木の面倒は見れない。仕方ないから一人で犬屋敷を調べに行こう――秋彦はそう考えて、隣家の門を通って声のするほうに向かった。
そこでは数人の村人たちが楽しげに会話をしながら、段ボールを軽トラックの荷台に積んでいるところだった。初日に秋彦を美倉荘まで案内してくれた、親切な初老の婦人の姿もあった。
「あのう、すみません、道に迷ってしまって。ホテルまでの道を教えて欲しいのですが……」
秋彦は凍りついた。
そこにいる村人たちの――顔、顔、顔、顔――顔。
先ほどまで和やかに会話をしていた彼らの顔が今は無表情で、全員がうつろな瞳を秋彦に向けている。そこからはなんの感情も読み取れない。
しかし、その仮面の下で、底知れなくおぞましいなにかが、毒虫のように蠢いていた。
秋彦は無言で村人たちに見つめられながら、今すぐにこの場から逃げ出したかったが、足が竦んで動けなかった。