その4
ころころ、ころころ、一粒のチョコレートが坂を転がっていく。
坂を下りきって平坦な道に入っても、そのチョコレートは速度を落とすことなく、地べたをころころと弾みながらどこまでも進んでいく。
秋彦は必死になってそれを追った。
けれど、走っても走っても追いつける気がしない。
――待ってくれ。その赤色の、つれないチョコを誰か止めてくれ!
秋彦の懇願する声を聞いて、村人たちは彼と、彼の前をすごい速さで転がってくる小さな物体を見た。
「なああんた、あれが見えるか。あれは一体なんだ」
村人たちが目を丸くして囁き合った。
「チョコね。なんて速さなのかしら」
「いえ、それよりも、素晴らしく鮮やかな赤色だこと」
「うむ。あのチョコはきっと、ぐらんべりぃ味だな」
好気の目を寄せる村人たちの足元をころりとすり抜けて、チョコレートはいよいよ独走体勢に入った。
唖然とする村人たちを押し退け、秋彦はあとを追う。
「きっと猛獣があのチョコを食べてしまうよ」
初老の婦人の声が、すれ違いざまに秋彦の耳に届いた。
――そんなことをさせてたまるか!
秋彦は心の中で呟いた。恐ろしい毒蛇なんかに咬まれてしまったら、あの可愛いチョコはころりと死んでしまう。
そんな秋彦の気も知らず、チョコレートは小石に乗り上げてぴょんと跳ね、くるくる回転しながら不気味な森の中に飛び込んでしまった。秋彦はそれに続く。
――くっ、どこだ!?
チョコを見失った秋彦は、薄暗い森の中で辺りを見渡した。すると、ペイズリー柄のスカーフを巻いた老婆が、手に持っていた木の棒を持ち上げて、道の先を指し示した。
「チョコレートならこの道を真っ直ぐいって大木を右に曲がっていったよ」
――嘘つけ……!
秋彦は老婆に目もくれず、獣道を走っていった。そして、折れた大木に突き当たると迷わず左に曲がった。その先にはやはり、犬屋敷があった。
秋彦が真鍮製の柵の前に立って敷地の中を覗くと、チョコレートは柵の下を通り抜けて、少し進んだところに止まっていた。
――ふう、頼むから、そこから動かないでくれ。
秋彦は錆びついた柵を両手で掴んで、南京錠の上に右足を乗せた。体重をかけてぐっと身体を持ち上げると、柵の上まで頭が届いた。
よし、登れそうだ――秋彦が柵の上から敷地を見下ろすと、そこには人の顔をした黒い大型犬がいて、秋彦に向かって言った。
「この屋敷はほおって、さっさと帰れ」
秋彦は驚いて、柵から手を離してしまった。足が南京錠からずり落ちて、横向きに倒れる。その拍子に、頭を打ちつけた。
――うう、俺のチョコ……俺のチョコがあそこにあるんだ……このままじゃ、人面犬に食べられてしまう。
秋彦が朦朧としながら力を振り絞って頭を持ち上げ、チョコレートを見ると、優雅なドレスを着た椋露路朱寧がなぜかそこに立っていて、赤色のチョコレートをぱくりと食べたところだった。
「ううん、メルの作るお菓子は、やっぱり美味しいね。おや、小林刑事、そんなところで眠ったら、毒蛇に咬まれてしまうよ」
すると、視界が歪んで、椋露路の姿が逆さまになった。ぐるぐるぐるぐると世界が回り出して、彼女の声も遠ざかって――やがて目の前が真っ暗になり、なにも聞こえなくなってしまった。
※
秋彦はこざっぱりとした白い部屋で目を覚ました。
格子模様の天井が視界に飛び込んできて、背中の柔らかな感触から、自分がベッドに寝かされていることがわかった。久保田に事情聴取をした時に嗅いだ、消毒液の臭いが室内に漂っている。どうやら、診療所の病室に寝かされているようだった。
「お、起きたか」
シーツに身体を横たえて、蛍光灯の光を見つめながらぼうっとしていると、すぐ近くで一本木の声がした。秋彦が少し硬めの枕に頭を乗せたまま、首を捻って左を見ると、ずきりとこめかみが痛んだ。
一本木鶫はベッドのそばにパイプ椅子を置いて、秋彦の方を向いて腰掛けていた。脚を組んだ姿勢で、膝の上にノートパソコンを乗せている。イヤホンを耳から外して、一本木はもう一度秋彦に声をかけた。
「おい、平気か?」
秋彦がベッドの上で上半身を起こすと、またしても頭に刺すような痛みが走り、秋彦は顔を歪めた。
「だ、大丈夫です……なんで俺は診療所のベッドで寝てるんだろう」
「お前、ホテルの前で倒れてたんだよ。覚えてないか? 医者は倒れた時に頭を打ったんだろうって言ってたぜ」
秋彦は、美倉荘の裏から森に入って怪しい老婆に出会ったこと、犬屋敷の敷地に入ろうとして人面犬と遭遇したこと、そこから走って美倉荘の前まで戻ったことを一本木に話した。
それから、メリーヴェールの姿を見つけて、転がるチョコレートを追いかけて――どこからどこまでが夢だったのだろう。もしかしたら、初めから全部が夢だったようにも思える。
「ところで、今何時ですか? 俺はどのくらい寝てたんだろう」
「半日くらいだな。もう夜だ」
半日も……その間ずっと、一本木は秋彦の様子を看ていたのだろうか。この上司も意外と――本当に意外と、いいところがないわけではないのかもしれないと秋彦は思った。
「お前の話を聞く限り、やっぱりその屋敷が怪しいよなぁ。さっさと終わらせて本土に帰りたいし、お前に何かあるとうちの責任になるし、しょうがねぇから、明日は一緒にその屋敷を調べに行くか」
秋彦は不可解な体験をしたばかりで、怪我をしているということも手伝って、この駄目な上司のことを頼もしいと感じてしまった。しかし、彼は翌日、この女に期待をしたことを激しく後悔することになる。
「人面犬だかペイズリーおばさんだか知らないが、そんなのこのP2000で撃ち殺してやる」
一本木鶫は黒光りしたドイツ製の警察用自動拳銃を片手に持って、その銃口をぺろりと舐めた。