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椋露路朱寧の推理録  作者: 雪車
犬屋敷の秘密
16/35

その2

 秋彦が久保田から興味深い話を聞いて美倉荘に戻った時には、すでに夕食時だった。


 人面犬の出没する猛犬屋敷――この怪談が秋彦の追う窃盗犯とかかわりがあるのかないのか。人の顔をした犬などというものは毒蛇に噛まれて久保田が見た幻覚だとしても、森の中に隠れるようにしてひっそりと建つお屋敷はいかにも怪しい。


 久保田は人面犬を目撃したあと意識を失い、気がついた時には診療所のベッドに寝かされていたそうだ。受付の看護婦が言うには、若い女性の観光客がたまたま倒れている彼を見つけて診療所に連絡をしたとのことだった。


 昼間でもろくに太陽の光が届かない、猛獣の棲む森の中にある朽ちたお屋敷に、若い女性が一人で通りかかった――額面どおりには受け取れない話だ。その屋敷に何か目的があって近づいたか、それとも久保田を付けていたのか。あるいは、その女が犬屋敷の主人なのか。


 そもそも久保田はなぜ犬屋敷にいたのだろうか。言葉どおりの単なる好奇心で獣の潜む森に入ろうなどと考えるものだろうか。それとも自分と違って、村人から危険だと注意を受ける機会を得られなかったのか。


 なんにせよ、一度実際に犬屋敷を見に行かなければならない。離島の森深くに建てられた猛獣の守るお屋敷――盗品の隠し場所としてはうってつけではないのか。


 秋彦が一本木に自分の考えを話すと、案の定、翌日に彼が一人で犬屋敷を調べに行くことになった。


 「人面犬に遭遇すると事故に遭うらしいぞ」


 「そうなんですか? たしかに久保田は毒蛇に噛まれたけど」


 「あと、ほっといてくれって言うらしいよ、人面犬が」


 「喋るんですか。それで、どうなるんですか?」


 「それだけー」


 「それはまた、珍妙な」


 とりとめのない会話をしながら夕食を終えると、秋彦は若い母娘が宿泊していることを思い出し、ホテルの主人に部屋番号を聞いて訪問してみた。診療所に連絡をしたのがその母親の可能性がある。しかし、呼び鈴を鳴らしてみても反応がなかった。


 「温泉に行ってるのかな……また明日にするか」


 今日は働き過ぎなことを思い出し、秋彦は踵を返して自分の部屋に向かった。秋彦が膝のポケットから携帯電話を取り出して一度タップすると、画面に明かりが点いた。待受の画面にはアンティークドールかと見紛うほどの可愛らしい赤毛の女の子が表示され、無表情で彼を睨んだ。


 ふと思いついて、秋彦は繰り返し使って今や暗記した番号をリズムよく画面を叩いて入力した。すぐに呼び出し音が鳴り、彼は端末を耳に当てた。プルルル――と四回コールしたあと一瞬途切れ、また続けてコール音が響いた。辛抱強く待っても繋がらないことが分かると、秋彦は留守だと判断して通話を切った。


 秋彦が自室に戻ると、布団が二つ部屋の広さが許す限り限界まで離されて敷かれていて、奥のものに一本木が仰向けに横になっていた。すでに熟睡している様子ですやすやと開いた口から寝息が漏れている。秋彦は浴衣を持ってから明かりを消して、一日の疲れを取りに温泉へ向かった。


 ※


 「生きてここまで帰ってこいよ」


 翌朝、浴衣姿で窓際の椅子に座り、青々とした葉々を背景にノートパソコンを睨んでいる一本木に送り出され、秋彦はひとり犬屋敷へ向かった。


 とても蒸し暑い日だったが、美倉荘の脇にある小道をたどって、里の南から島の面積の大部分を占める森林の獣道に入ると、日光は遮られて意外なほどに涼しくなった。樹々は隙間なく地面に影を落とし、秋彦のそれを跡形もなく呑み込んだ。


 秋彦はふと、自分が誰も知らない遠くの国の、不思議な生き物たちが潜む森の中に足を踏み入れたような錯覚に捕らわれた。そんな現実離れした幻想を、秋彦はすぐに強くかぶりを振って払いのけた。すると、老婆が彼に声をかけた。


 「どこにいきなさるのか」


 秋彦は心臓をぎゅぅっと掴まれたような心地がして、びくりと身を震わせた。


 薄暗い森の中ではろくに見分けることができなかったが、その老婆は異様だった。腰を曲げて木屑を杖代わりに突いて、あちこちに泥や葉っぱがこびりついた小汚いドレスを着ていた。肩に掛けたペイズリー柄のスカーフだけが綺麗なままで、丈の低いヒールを履いていた。サングラスを帽子に隠れて顔は見えなかったが、ぼそぼそとした声の張りのある響きから秋彦はこの老婆が見た目よりもずっと若い女のように感じた。


 「屋敷にいくつもりならこの道に沿って枯れ落ちた大木を目印に右に曲がるといい」


 秋彦が老婆の指差すほうを眺めても、大木らしきものは見つけられなかった。そして、振り返った時には老婆はその場から姿を消していた。


 秋彦はしばし立ち尽くして、今の老婆について考えた。何者かが企みを持ってあのような不気味な老婆に変装して彼に近づいたのだろうか。秋彦の目的は窃盗犯の居場所を探ることだ。しかし、彼が刑事であることを知る者はこの島にはいないはずだ。そのうえ老婆のしたことといえば、親切にも屋敷への道案内をしただけだ。ならば、嘘の道を教えたのだろうか。


 彼にわかっているのは、里が、森が――この島の何かが決定的におかしいということだった。


 「はっ……馬鹿馬鹿しい」

 人面犬などいるものか、と心の中で呟いて、秋彦は老婆の示した方角に歩き始めた。


 道のりは楽ではなかった。森の中は管理などされた様子はなく、荒れるに任せていた。野生の獣がいるとの話だったが、むしろ奇妙に静まり返っており、虫の鳴く声ひとつしなかった。けれど、それがむしろ、今の秋彦にはひどく不吉なことに感じた。そこの陰になった太い樹の幹の裏側から、突然毒蛇が襲いかかって来るのではないかと何度も肝を潰した。


 しかしたしかに、細く頼りない獣道が秋彦の行く先に向かって伸びていて、誰かが近いうちにここを通ったことを彼に知らせていた。


 額に汗がにじみ息が切れ始めた頃、雷に打たれたように黒く変色して、その体躯の中程からへし折られた大木に突き当たった。


 老婆の予言どうり、獣道は大木の向かって右側に走っていた。正面は大木に塞がれて左側は天然の生け垣に覆われている。秋彦は立ち止まって思案した。


 ここから先の獣道――日陰の中でよくよく観察してみると、どうやらこれまで通ってきた道よりも随分新しい。しっかりと踏みしめられてはいるけれど、左右に折れ曲がった植物たちはまだ挫けてたまるかといったふうに斜めに反り返っている。まるで、この道は昨日、急遽こしらえましたといった風情だ。


 「ははあ、さては」

 秋彦は何かを思いついたように呟いて、左の生け垣に向かって進んだ。そして、視界を遮っている枝葉の束に腕を突っ込み、力いっぱいかき回した。


 するとどうだ。いともたやすく枝葉は横に倒れ、生け垣は跡形もなく視界から消え失せた。そして、もうひとつの獣道が姿を現した。生け垣は暗闇と枝葉の束を利用して作られた巧妙なカムフラージュだった。


 「これではっきりした。目的はわからないが、あの老婆は俺が犬屋敷に近づかないよう嘘の道を教え、こんな手の込んだ細工をしたんだ」


 もしかしたら亡霊でも見たんじゃないかと内心怯えていた秋彦は、自分の中で闘志がめらめらと湧き上がるのを感じた。


 こんな仕掛けをするのは紛れもなく人間で、犬屋敷には知られてはならない秘密があるということだ。俺はそれを暴いてやる――そう秋彦は誓った。


 以前に増して力強い足どりで歩み始めた秋彦は、間もなく奇妙に静まり返った犬屋敷に到着した。

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